268.無限循環
突き出した灰の拳がどこからともなく現れたリングによって止められ、弾かれる。明後日のほうへ炸裂した彼女の膂力が空震を発生させ隙間世界の果てまで伝播していく。遠く離れた位置で戦闘を見守る鼠少女も帽子を手で押さえながら地面に這いつくばる──そうでもしなければイデアに輪をかけて小柄な彼女のこと、余波だけでどこまでも吹き飛ばされてしまいそうだった。
「なんていう戦いなんだ。どちらも『神』には至っていないはずなのに、この規模は……!」
片方は神の手によって神のためだけに作られたいわゆる神具。それに対するもう片方は管理者ではあっても神として不完全。鼠少女の特殊な目は両者の力量も含めて何もかも見抜いている、はずだったのだが。
「完成の手前の、最後の廃棄品である灰。確かに失敗作の中でも高性能だとは知っていたけれど……まさかここまでの力があったなんて。それに、あのイデアという少女も」
最初に視た際、己が目に映ったものと今の彼女はまったくの異種であると言っていい。顔付きや体格だけの話ではない、その中身からして『種類が違う』。いや、彼女の本質的な部分に変化はないとも判ってはいるのものの、しかしそれでも生まれ変わったとしか言い表しようがないほどに。変身したイデアは──そして覚醒した灰も目まぐるしいまでに塗り替わっていく。それは今この瞬間においても例外ではない。
「っ……どっちもまだ『上がる』! 『上』がある! これじゃあどうなるかなんて予想もつきっこない──この目でも勝敗が視えない」
身の安全を第一に考えるのなら。たとえそれが──戦局に影響を与えるという意味で──イデアの邪魔になろうとも、両者が戦っているこの間に逃げ去るべきだ。世界の隙間から異なる隙間へ、そして異なる世界へ。いつもそうしているように、常にそうしてきたように。今回も自身に課せられた呪いを頼りに壁越えをしてしまうべきなのだ。出会ったばかりの純粋種でもなければ変異種でもない紛い物の神に自分の運命を託してしまえるほど鼠少女は純朴でもなければ愚かでもない。いくら迷うこともせずに手を差し伸べようとしてくれた相手であっても、だからとて信じる信じないは別の話。信頼とは行為のみならず結果があってこそ初めて成り立つものだと彼女は考えている。故に、ここで取るべき行動だって理解できている。戦闘が激化している今こそがチャンス。
イデアの神域と化しかけている隙間世界に穴を空けて、さっさと逃げ出すに限る──。
「…………、」
それが、正解であるはずなのに。そうとわかっていながら鼠少女は逃げる気になれなかった。戦いに背を向けることも目を背けることもしたくない。そう思ってしまうのは、管理者ながらに見知らぬ訪問者へ協力的で理性的な対応を取ってくれたイデアに絆されたからなのか。それとも特殊な目でも見通せなかったこの運命に、それこそ運命的な何かを感じたからなのか。ともあれ、そこに納得のいく理屈は付けられずとも一応の言い訳くらいなら立たせられる。
(半分、神域と化しているからこそ。ここはぼくであっても出入りに難儀する空間だ。完全なる神域ならばそもそも神の許可なしに入ることも出ることもできないのだからそこは僥倖だったと言えもするけれど──とにかく。もしもイデアが破れ、死ぬようなことがあれば。ここは神威じゃなくなり単なる世界間の隙間の一箇所へと戻る。そうなれば壁越えも容易だ、すぐに逃げることだってできるようになる……!)
だから焦って逃げる必要はない。代わりに戦ってくれている半端者の優しき神に、仇を返すような真似なんてしなくたっていいのだ──と、なんとか自分を納得させる。無論、それを見越した手を灰が打ってくる可能性も否定できない。逃走が叶わないほどの速攻を仕掛けてくるかもしれないし、そもそもイデアを殺し切らず、虫の息にしたままで標的を変えるかもしれない。ここが準神域とでも呼ぶべき異空間となっていることを灰も察しているならほぼ確実にそうするだろう……そう予想できていながら、なのに動けずにいるのは理屈でもなくて、言い訳にもならなくて。
人が人を信じたいと思う理由なき想いの表れなのだろう。
(色んな世界で数え切れないだけの悲劇を見てきた。酷い管理者も、その非道に喘ぐ住人たちも。……そんなぼくだから、なのかな。異質な管理者に対してこうも希望を抱いてしまうのは──)
遠来の小人。いくつかの世界でそう呼ばれているある意味での有名人。そこらの神などよりも余程に世界を知り永きを生きている鼠の少女は、このとき久方ぶりにただの人間のように、ただの少女のように。一人の神擬きの勝利を心から祈った。
◇◇◇
「超越魔力輪・無限循環」
循環という定数に無限を持ち込むこと。その矛盾を現実化させたその技は、果ての無い超越魔力を果ての無いままに円環に閉じ込め、それそのものを武装兼強化剤として使用するという……正答のない概念に概念を重ねた無茶苦茶もいいところの代物であった。
その上でイデアは無限循環を五重化させて、両手首と両足首に嵌め、それから頭の上にまるで天使の輪のように乗せて。
そして思い切り灰を殴った。
「……!!!」
血反吐を撒き散らしながら墜落した、その先には既にイデアがいる。それを見て取った灰が体勢を入れ替え、待ち構える彼女へ蹴りを浴びせたが。あっさりと蹴り脚を掴まれて地面へと叩きつけられる。ゴガンッ、と堅牢無比である灰の頭蓋に鳴ってはいけない音が鳴り響く──自身の視界が揺れているという異常事態。初めての体験に心なき心のどこかも揺らしながら、しかして脚を掴まれたままでも淀みなく反対の脚で再び敵を蹴りつけた灰は。
「ッッ──!!」
その蹴りよりも早く顔面に打ち込まれたイデアの足裏によって吹っ飛ぶ。滂沱の如く流れる鼻血も気にかけずにすぐさま手で地面を掴み急制動、立ち上がろう……として片方の脚がないことに気付く。ハッとしてイデアを見れば、やはりその手にあった。掴まれたままの左脚。正しく作り物めいた真っ白な肌をした幼い脚が、ぶらぶらと。イデアによって弄ばれ、それから収納空間へと仕舞われそうになった──その瞬間に灰が再点火。現在のイデアの知覚能力でも反応はギリギリ。それくらいの速度で接近、殴打、脚の奪還を成し遂げた。
「ハ……」
防御に重きを割いたことでせっかく奪った脚を取り返されてしまったイデアは、灰が乱暴に切断面を合わせる様を見て薄く笑う。予想に過たず股関節の傷口から流れる血もそのままに切れたはずの左脚は繋がった。つくづく常識外の生き物だ、という可笑しみは何も灰だけに向けられたものではなかったろう。取り戻した両脚によって力強く地面を蹴って更に速く、まさしく神速の域で息もつかせぬ連撃を放ってくる灰。その一挙手一投足を見逃さぬようにと集中力を高めていくイデアは、心の底からこの戦いを楽しんでいる。
それに呼応するように灰のギアがまた上がった。
「…………!」
「────!」
ローリングソバット。短い手足ながらに遠心力の乗った蹴りが放たれ、イデアは畳んだ腕でそれを受けたが灰は構わずに蹴り抜く。止められたそこから力を増す一撃を止め切れず、上半身が傾ぐ。追撃の打突。打ち下ろし気味の右の拳が隕石のようにイデアの斜めになった顎を穿ち、地面に縫い付ける。先のサンドの意趣返しのようなそれにくつくつと笑い声を上げながら彼女も反撃。逆さまの姿勢で繰り出された膝が灰の横っ面を抉る。
「ッ、」
「ふふ……そういや君でも血は赤いんだな。オリジナルもそうなのかい?」
互いが零した血が白い地面の上で重なり合い、混ざり合う。そこに区別などない。共に赤く、人間そっくりの命の水である。そんなところばかり人らしくてどうするか、と。自身の制作者であるオルトーを笑うことは即ち灰の制作者を笑うことでもあった。
「考えてみれば俺たちの立場は同じか……神が自分を慰めるために作った道具だものな。別世界のこととはいえ他人事には思えないね。ま、同意は得られないんだろうが」
聞いているのかいないのか。顔中の血を拭うこともせずに構えを取る灰に、口内の血を吐き出しながらイデアも身構えた。オレクテムとの戦いと同様に。竜人の女王との戦いとも同様に。結局最後は殴り合いで終わったそれらのことを思い出せば、この勝負の決着もきっと己が手で直接の引導を渡すが相応しいに違いない。あとはただそれをイメージするだけでいい……それ以外に必要なものはない。そして無限循環によって灰の肉体に傷を付けられるようになった今ならば。どうしても満足に湧いてこなかった打倒のイメージも、だんだんと完成されつつある。
「言っておくが俺は神の道具から脱却した身だ。可哀想にも捨てられたらしい君もある意味じゃあそれに近しいんだろうが……ここはひとつ気持ち良く比べてみるとしようじゃないか。どちらがより先へ進んでいるのか。外れ者の道具同士、格の違いってものをさ」
それできっと俺たちの片は付く。
そう宣言したイデアが一歩、構えたまま緩やかに灰へと近づけば。灰もまたじわりと一歩、足裏で地面を擦りながらゆっくり前へ進んで。
そして最後の激突が起こった。




