264.どうしてこんなところに
急いで扉をくぐり、世界の隙間たる真っ白な異空間へと出る。強烈な空白以外に目に付くものが何もないこの場所で、しかし俺は必ずあるであろうそれを探して周囲に目を走らせる。
「──あっちか」
より濃く強くなる脈動。まるで世界そのものをノックするような来訪を告げる感覚。それが知らせてくる先へと視線を向ければ、やはり。白の一点に歪みが見えた。やがて切れ込みのように、細かな罅のように広がっていったそれが──パリン、とまるで窓ガラスの如き気軽さで割れ弾けた。
「……!」
その現象。そして世界の壁を割った張本人であろう小柄な人影がそこからずるりと落ちてきたことに俺は瞠目する。いやまさか、本当も本当に。本物の来訪者であったとは──センサーにそういった反応があった時点で半ばの確信を持っていたとはいえ、実際にこの目にすれば驚いてしまうものだな。別世界の住人との邂逅。ドキドキしながらそちらに近づく。
乱暴な入り方をしたその人物は、見れば見るほど小さくて華奢であった。その見かけによらず身体能力は高いのかな? けっこうな高さから落ちたというのに軽やかな着地をしていた。が、なんだか息も荒いし疲れ切っているように見える。困惑したような、怯えたような瞳が俺を捉えた。
「君は……誰だ? どうして『こんなところ』にいる?」
その問いかけに思わず吹き出してしまう。
「やって来た側が訊くことかい? まあいいさ、なんだか訳ありのようだし質問には答えよう。その代わり君にも一定の礼儀を求めたい……言っている意味はわかるかな」
「…………」
若干の警戒と、それ以上の焦燥が垣間見える表情で彼女は頷いた。その姿を俺は観察する。つば広のハットにチェスターコートに似たアウター。中のシャツやパンツもお洒落だが、足元は長靴。なんだか帽子が少し頭に大きすぎるのもあってコーディネートが纏まってない印象を受けるその少女は、しかし妙な服装よりも余程に目に付く点が一箇所あった。──細くて白くて横に広がった、まるで鼠を思わせるようなヒゲが頬からぴょんぴょんと生えていること。それこそが外見上最大の特徴であろう。
「イデアと呼んでくれ。それが俺の名だ」
「イデア」
「ああ。何故ここにいるのか、というと。目的はおそらく君と同じかな? 世界の壁を越えたくてね。まあ今のところ失敗続きでまだ未遂ではあるんだが……よければコツとか教えてもらえないかな? もちろん対価なら払わせてもらうよ。俺に払えるものであればだけど」
「……! なるほど、そういうことか。ここに及んでいるのは君の能力なんだね。道理で入りにくいわけだ……」
「──能力? そういう言い方も間違いではないかな」
どういった過程を経ての結論なのかはよくわからないが、鼠のような少女の理解は正しいものではあった。世界の外側であるこの隙間だが、しかし別世界を目指すにはもうひとつ壁を越える必要がある。故の、隙間。そしてそのために着々と『工事』を行なっているのが最近の俺である。
「壁越えの準備としてここをまず俺の領域に作り変えているところなんだ。着工から数年、ようやく形になってきたけれど……次の手順へ進むにはどうも手応えがいまいちでね。隙間を掌握しても世界間の渡航は難しいかもしれない、と思い始めていた矢先に君がきた。嬉しい誤算だよ」
「壁を越えることもできないし、神域も未完成。いや、到達する手前なのか。……イデア、君はいったいなんなんだ? ひとつの世界を管理する神ではないのか」
「神。はは、神ね。まあなんというか、そういった存在は大昔にお亡くなりになっていてね。つい最近になって俺がその立場を引き継いだって感じかな。とはいえ間違っても神と名乗れるようなものじゃあないから……肩書きはやはり『魔女』になるのかな」
「魔女──そうか。神たる神である純粋種じゃなく、成り上がった口なんだね。それもまだ新参もいいところの……だとしたらマズい」
「マズい? 何がだい」
「すまないけど問答の時間はないんだ。管理者が君である以上、もうぼくは行かなくてはならない。『あいつ』が来てしまう前に。なんとかして『あいつ』を処理できる世界を探さなくては──」
あいつ。とはどんな誰のことだろう。妙に焦っている様子なのはそれに追われているせいらしい……というのは察しも付くが、けれどだからとてせっかくの別世界からのお客様だ。このまま見送ってしまうには惜しい、というか絶対にしたくない。是非とも互いに腰を据えて、じっくりたっぷりと話を聞かせてもらいたいからね。
「まあ待ってくれよ。なんだかお眼鏡に適わなかったようだけど、俺だってこれでも捨てたものじゃないぜ? なんなら君の焦燥の原因を取り除くのに協力しようじゃないか。それが対価でもいいし、対価でなくてもいい。とにかく君が落ち着けるならね」
「不躾な来訪者への厚意、とても嬉しく思うよ。でもダメなんだ。ぼくの両目は特別性。君の力だってちゃんと見抜いている……無理だ。君には対処できない。はっきり言って勝ち目はゼロだよ」
だから去らねばならない、と鼠少女は立ち上がって言う。自分の空けた穴が既に塞がっているのを確かめて彼女は俺に頭を下げた。
「恥を忍んで頼むが、ぼくのためにこの領域の支配権を手放してくれないか。そうすればすぐに立ち去れる。というより、そうしないとあいつに追いつかれてしまう。君の世界に災厄を招かないためにも賢明な判断をお願いしたい」
ほほう。思った以上に切羽詰まっているようだな。そういうときこそ交渉のベストタイミングなのだが、それでこの子の機嫌を損ねてしまってもな……単に時間がかかるというだけで俺の補助なしでも出て行くこと自体はできるようだし。なら、仕方がないな。この調子じゃ落ち着いて話すことなんてどのみちできやしないのだから一旦彼女の言う通りにして恩を売っておくとしよう。期待薄ではあるが問題が解決後にまたこの場所へ訪れてもらうのを忘れずに頼んでおこう……などと考え、領域から真っ新な隙間へ戻そうとしたそのとき。鼠少女が小さく、しかし深刻な口調で呟いた。
「しまった……遅かったみたいだ」
「ん……この気配が君の言う『あいつ』か」
鼠少女のそれが、少々の手荒さもあれどマナーを弁えたノックであったとすれば。今領域を外から叩いているこれはひたすらに暴力だ。大型のハンマーで扉をぶち破ろうとしているに等しい。その破壊力は凄まじく、来訪を感じ取ってすぐにそいつは俺たちの前に姿を見せた。侵入速度が鼠少女とは雲泥の差だな……なるほど焦るわけだ。こんなのから逃げようと思えばたった数分の間さえ惜しいだろう。
「またしても来客は女の子か。華やかでいいことだ……が、どうやら美しいのは見た目だけのようだね」
真っ白な髪、真っ白な肌、真っ白なワンピース。白しかない隙間の世界においても一際に目立つ白亜の少女。ただひとつの異色たる薄紅色の瞳がじろりとこちらをねめつけ、その眼差しだけで俺は理解する──強制的に理解をさせられる。
そこにいるのは途轍もなく怪物である、と。
「これはなんなんだ? 鼠くん」
「『灰』……と呼ばれていたね。とある世界の神が想い人を模して作った贋作にして失敗作。まともな思考を持たずただ敵と見做したものを壊すことしかできない傍迷惑な代物だよ。……言うまでもなく、現在の標的はぼくだ」
「念のために確かめておくけれど、君ではあれに勝てない?」
「無理だ。ぼくに戦闘能力はない」
「よくわかった。なら俺が相手しよう……一応は客人を持て成す義務もあるだろうしね」
「待っ、」
てくれ、と鼠少女が言う暇はなかった。その首根っこを掴んで退避。そこに白い少女が突っ込んできた。おーおー、無茶苦茶な姿勢の割に恐ろしく速いな。飛び上がった俺(with鼠少女)を見上げるその視線は、俺にのみ注がれている。お、これは。標的が移ったんじゃないか? そのほうが助かる、と鼠少女をなるべく遠くへ放り投げる。さっきの身のこなしを思えばこれくらい大丈夫だろう。そう信じて、再び迫ってきた白い少女──灰の一撃を受け止める。
「む」
しっかりと魔力で防いだのに腕がへし折れた。ティアラの天嵐拳も無傷で凌げるくらいの魔力量だったんだけどな。つまり灰の素手かつ魔力皆無の殴打は、ティアラのそれを大きく凌駕する威力であると。ほうほう、とその事実に感心したところ顔面を打ち抜かれた。魔力量を引き上げたもののそれすら突破した少女の拳は俺の鼻を花のように開かせて血を噴出させた。痛い。顔を顰めつつ、折れかかった頸椎を即座に修復させつつ目に入った邪魔な血を拭って。
「凄い力だね。だけど」
側頭部狙いの上段蹴りを、更に引き上げた魔力で停止させた。ふむ、この量か。俺でなければ瞬間的な出力に到底間に合わないな、これは。だけど俺なら充分に間に合う……というわけで。
「俺の手番ってことでいいだろう?」
「……ッ」
片足だけでなく残る手足も魔力で固め、悠々と手を伸ばす。そうして灰の胸に触れた指先からその身体へと直に魔力を流し込む。
「人体魔化」
エイドスに溺れず魔力操作の研鑽だって怠っていない。干渉力は以前にも増してピカイチである俺だ。ましてや、如何に怪物的な身体能力を有しているこの少女でも魔力がないのであれば物言わず動きもしない無機物に同じ。自我にも薄いようだし、それはつまり最も魔化の容易な物品であるということ──って。
「おお……?」
干渉が、できない。注いだ魔力が途端に弾かれて霧散した。そのことに心からおったまげた俺を、縄でも引き千切るようにして拘束を破った灰の打突が襲った。




