259.定規
「へえ? わざわざ徒歩で来たのか」
「はい。歩きたい気分だったので」
「そうか、それはいいことだね」
彼女が住むリーナの屋敷からここまでそう離れていないとはいえ、移動時間を短縮できるなら誰だって迷わず短縮する。ところを、リネットはそうしない。必ずしも便利さに拘らないのは転移を単なる選択肢のひとつとして、歩くことと同程度にしか見ていない独自の価値観によるものだ。
リネットは転移が使える。セリアが相当な修練をして身に着けた技術を……ええと、何歳くらいだったかな。確か五、六歳くらいのときにはもう使いこなしていたと思う。やり方は俺の目印と一緒で、この黒い森に彼女はどこからでも跳んでこられる。黒樹という目印が群生しているわけだからね。言うに及ばずようやく十歳になろうかという齢で転移を過不足なく──自然体に使用できているという意味で──発動させられる者など、ますますの発展を遂げているメギスティン、そして魔法学校の元祖たるステイラバートを探したって見つけられやしない。
授業を受けて課題に頭を悩ませて試験に真剣に取り組んで……という頭からつま先まで魔法使いになるための生活を送っているあそこの生徒たちからすれば、家庭学習。それも俺の時間が空いたときのみというゆるゆるな体勢で学んでいるリネットに大きく突き放されている事実は、とても耐え難く憤りすら覚えるものであろうけれど。しかしスタート地点も違えば履いているシューズだって違うのだ。いやさシューズの差、どころか安価な運動靴と最新型ターボエンジンくらいの大きな相違があるわけで。物も地力も違いすぎるのだからそんな相手の背中を見て嫉妬なんてしたってしょうがないと、いつかリネットという同世代の巨星を目の当たりとする彼らには事前にそう言って慰めておきたい。
折しもセリアが言ったように、きっと悔しさを通り越して感心するくらいがちょうどいいのだ。ことリネットに関してはね。
「いいこと?」
俺の言葉に疑問を持ったらしい彼女へ、階段を先に上がりながら頷く。
「『歩くこと』を選ぶのと『歩くことしかできない』のはまったく異なる。君には不便を楽しむ権利があるし、たまにはそうやって才能に頼らない行動を取るのも大切だよ。定規がなくちゃ自分の力だって正しく測れやしないんだからね」
「魔法を使わない自分をひとつの基準にしろ、でしたよね」
「ああ。本来ならそんな枷になりかねない認識はいらないんだけど、君の場合はあまりにも魔素にも魔力にも馴染み過ぎているからそうもいかない」
天賦にして破天荒──と言っても今のところは『大器である』ことを踏まえた上での評価であって、その巨大な器は巨大であるが故にまだまだ満たされきっておらず、彼女の吸収速度を以てしても『完成』には未だ程遠い。俺がゆっくりじっくり育てているせいもあるが、それでも充分に詰め込み教育ではあるのに、だ。彼女より遅いペースであったとしてもそこらの魔法使いであればパンクしてしまう。というくらいには遠慮なしに知識と技術の水を注いでいるのだが、そこで多少なりとも注ぐ量と速度に注意する理由がなんであるのかと言えば、リネットへ過度な負担をかけないようにするための配慮だとここに訴えたい。
どんなに優秀で大人びていると言っても肉体的にも精神的にもれっきとした子供である。この段階で魔法的素質ばかりが育つのはよろしくない。普通なら重点的に鍛えねばならないところをあえて慎重に進ませねば、この子はあっという間に賢者すら飛び越えた本物の逸脱者となり……そうなればやがては常人の尺度を持てない人でなしになってしまう。シースグラムやオレクテムのようにね。彼女にはそちらへの道を歩んでほしくない、などと願うのは教育者としてのエゴなのかもしれないが。だとしても教育権は確かに俺にあるのだ。彼女の両親からそれをほぼ一任されているからには、しっかりと理想へと育たせてみせようじゃないか。過たずそのほうが彼女自身のためにもなるのだからね。
なんてことを考えている内に目的の部屋に辿り着く。二階の角部屋にあたるそこは、防音防魔のセキュリティが施された贅沢なレッスン場である。第二実験室のつもりで作ったここは研究に根を詰める日々を想定してのもの。つまり地下室に籠りきるよりもたまには窓のある部屋で陽の光を浴びたほうが健康的でいいだろう、という考えの下に用意した部屋なのだが……第一実験室である地下すら大して使っていないせいでこちらの用途は家の完成からこっち、まったくと言っていいほどなかった。のを、リーネの屋敷からこちらへ教室を移すことでなんとか事なきを得た。今ではリネット専用の座学も実技もこなせる優れた勉強部屋として大活躍中なのである。これも一種のデッドスペースの有効活用と言えるだろう。
「そういえば、今日のリーネは珍しく荷物が多いようだね」
先にリネットを入れてから扉を閉める際、彼女が肩からかけているショルダーバッグの膨らみに目がいった。いつもはノートと筆記用具くらいしか入っていない──それも授業ではほとんど使わないのだが──ぺたんこの革鞄が、今日は明らかに搭載量を増やしていることがそのシルエットからわかる。ベルトの張り方からしてもずっしりとした中身の重量を感じさせるが、こんな日に限って歩いてきたのか……ああ、それが余計に徒歩を楽しみたい気分にさせたのかな? この鞄は去年の彼女の誕生日に俺がプレゼントしたハンドメイド品なのだ。贈って以来、顔を合わせる度にリネットはこれを使ってくれている。厚意もあるのだろうが見る限り本心から気に入ってくれている様子なので、勉強グッズ以外を運ぶ機会くらいはその感触を堪能するのも悪くないと考えたのかもしれない。
「最初にマニさんに渡しておこうと思ったんですけど……直接でいいですか」
淡々とした口調に申し訳なさを多少滲ませながらリネットがバッグの中を探る。なるほど、入っているのは俺への手土産か。であれば確かにメイドであるマニに一旦渡しておくのが一般的な作法であろうが、それができなかったのは俺が彼女を下がらせて出迎えたためだ。リネットの瑕疵ではないので直渡しだろうとなんだろうと気にすることではない。もちろん受け取らせてもらうよ、と差し出された物を箱を手に持ってみるが。
「えっと、これは?」
「コスメセットです」
「コスメセット」
「はい。前にも話した今流行りの『ウォーターカラー』ってブランド……の最新作の詰め合わせみたいなものです。すごく良いものらしいですよ。だからお母さんが先生にもお裾分けしたがって」
「あー、リネットもこれを?」
「私は使ってません、年齢的にまだ必要だと思いませんから。何種類かあるフレグランスの一部だけお母さんから借りたりしてますけど」
「そっかそっか」
よかったよ、さすがにそこまでは進んでなくて。三弟子ぶりに我が子も同然に手塩にかけている少女がちょっと目を離した隙に化粧やら何やらに手を出していたら……別にそれの何が悪いということもないのだが、親心としては少しばかりショックを受けていたろう。香水を利用しているだけでも割と真剣に驚いたし。
にしても、まさか俺が化粧品を貰う日がくるとはね。そういった分野はオルトーの認識になかったのか、あるいは発達しなくて構わないと捨て置かれたのかは知らないが、この世界でもどちらかと言えば遅れているほうだった。それを今になってアクアメナティスたちが他精霊の力も借りて人間社会で発展させている構図はなんだか面白いというか、どこまでもオルトーのための世界であったのだなぁ、とその名残を風情の如く感じさせるが。とにかく貴族の女性たち専用の小規模ながらにパイプ自体は太かったコスメ業界も今やそれ故に起こっていた停滞を破り、まさしく日進月歩の注目産業となっている。その波が王都から遠く離れたオーリオ領にまで伝わり、回り回って波の起こりに関わった俺にもその余波がやってきた、ということなのだが。
「コスメなんて俺にも必要がないとリーナだってわかりそうなものだけどなぁ……それとも持っているだけでステータスになったりするのかな、こういうのは。決して安くもなければ値段以上に入手が難しいものなんだよね? 詳しくは知らないけど」
「領主会の伝手を辿って今回は運良く手に入れられた、と言ってましたね。お母さんはすっかりブランドのファンなのでコレクション品としての価値も見出しているかもしれませんが、それはあくまで使ってもらうためのプレゼントだと思いますよ」
「えぇ……見た目は君とそこまで変わらない俺に?」
「でも、先生は大人にもなるじゃないですか。お母さんにも見せたんですよね? あの姿を」
「……うん、ちょっと前に見せたね。一発芸代わりに。けっこうウケたよ」
「先生が大きくなれることを知って興奮していましたよ。だからこそこれを贈ったんじゃないんですかね」
「なるほ、ど。うーむ」
神孔体。俺自身の一部となったエイドスの力をよりスムーズに扱うには今でもあの状態が一番だ。直近で言えば竜人の女王との一騎打ちでも役立ってくれたあの姿は、外見的には十五~二十歳のどこかといったところ。確かに化粧っ気がまったくないのではおかしい年齢である。
しかしあれはオルトーの製作図からの脱却を意味したものであって、俺本来の姿がこの少女体であることは依然として変わりない。なんていう細かな事情を知る由もないリーナが善意でお気に入りのコスメを寄越してくれた、その気持ちは嬉しいが……え、どうしよう。使ってもらうつもりで贈ったものがタンスの肥しになっていては彼女も悲しむだろうし、かと言って化粧なんてまったくやる気が起きないしそもそも完孔体を用いる状況的にそんなことする意味がまるでないし。
「『使い方がわからなければ私がお教えしますのでまた是非近いうちにいらしてください』……お母さんがそう言ってました。多分、家に来させるのが最大の目的だと思います」
「……そういうのはわかっていても口に出さないものだよ、リーネ」
俺も薄々そうじゃないかとは思ったけどさ。




