258.お気に入り
リーネ。とは愛称であり、正しくはリネット・ジルモア。この『リネット』という名に聞き覚えのある者はいるだろうか──などと訊ねてみても「はい」と答えてくれる人もいないので勿体ぶらずに明かしてしまえば。彼女の正体はオーリオ領の女領主、リーナ・ジルモアの長子にして一人娘。十年前の披露宴にて俺が名付け親となった例の胎児である。あの約半年後に無事に生まれ、すくすくと育ち、今は満九歳。もうすぐ十歳の誕生日を迎える元気いっぱいの少女だ。
いや、『元気いっぱい』という表現には些かの語弊があるかな。彼女はいわゆる子供らしい子供ではなく、無邪気に走り回るよりは静かに本を読み、不満があっても大声で喚き散らすのではなく理路整然と言葉でそれを訴えるタイプ。つまりはまだ第二次性徴を迎えていない時期の子供にしては非常に理知的で、そのぶん非常に繊細でもある落ち着いた子だ。ちなみに彼女が四歳のときに生まれた次子にして長男のアッシュは思い切り子供らしいタイプだ。座っているよりも体を動かすのが好きで、姉よりも騒がしく感情的。しかしあの子はあの子でまた……と、彼についてはまた別の機会に話すとして。
ともかく二人の弟の姉となったことで近頃またぐっと大人びた印象のリネットは俺にとって、友人の娘というだけでなく大切な教え子でもある。先天拡張を施すよりも早く魔法を使い始めた彼女にリーナも旦那さんも少し困っていたというかどう扱っていいものかと悩んでいたところ、その件で相談を受けた俺が手助けした。素直に頼ってくれて本当にありがとうといった感じだ。それがきっかけとなって今日まで家庭教師を務めているわけだが、はっきり言ってこれは頼まれたからではない。俺がやりたくてやっていることだ。
子供とは思えぬほど魔法式の構築がスピーディーかつシームレスなリネットのこと、その状態が彼女にとっての『普通』であるが故に、普通でない子たちが大勢通う街の学校──旧王国の時代には貴族学校だったところだ──に入学したとて不本意なトラブルに巻き込まれたり、下手をすれば彼女自身がその原因となりかねない。とも思うので、そういったよろしくない環境に放つよりは手厚く守りたいと願うのが人情だろう。俺の手の内で安全にのびのびと人間的にも魔法使い的にも成長してほしい。彼女を慮る気持ちもあるが、それ以上に変な育ち方をされてしまっては困るからね。
リネットは呼吸するように魔素を吸い、手足を動かすように魔力を操る。それは紛れもなく魔法使いの理想とするところであり、しかも俺という魔力の源に対して直接のアクセスまでしてくる。アクセス、と言っても要は吸収と二重変換を介さない純粋な魔力。高次魔力を引き出すための許可申請であるが……以前は『穴』を開かねば誰にもできなかったそれを、『穴』以上に難度の高くなった俺へのリンクという形で彼女は成り立たせられる。アーデラやフラン君でもしばしの練習期間が必要だったその行為もまた生まれながらにマスターしていたのがリーネだ。ここまで説明すれば天賦にして破天荒などと大袈裟にも聞こえかねない評価に誰しも納得がいくだろう──ちっとも大袈裟などではないのだ。むしろ有している物に対してごく控えめな、飾らない表現であるとすら言える。
理想領域が消えたことで変革された世界の在り方。それに適合した新世代にして新時代の申し子にして、後に続く者が果たして現れるのか疑問になるくらいの麒麟児。アッシュもその弟も見所こそあるが生まれを同じくする彼らであってもリネットと相対すれば『普通の子』になってしまうのだから恐ろしい。ここ一月いつも以上に仕事が立て込んで彼女の授業が先延ばしになってしまったのが心から申し訳ない……というより心底から惜しく思える。それだけ俺は現在、フラン君やセリアといった新しい才能よりも最新の才能であるリネット・ジルモアにぞっこんであるということだ。
気分としとはアイドルに貢ぐ追っかけのようなものだろうか。
「約束の時間が近づいている。たぶんもうそろそろ来る頃合いだね」
前述の通り子供らしからぬ配慮を見せる子なので、向こうからやって来る場合は時間よりもやや早めに訪問する。必ずだ。こちらがリーナの屋敷に出向く際にはいつも時間ギリギリか大抵遅れてしまうのがなんとも情けないが、それについて文句を言われたことは一度もない。自分と俺の立場の違いというものをよくわかっているのだ。当たり前のようだがこれができる者は意外と多くない……ましてや十年近くみっちりと、かつて弟子を育てた経験を活かして彼女にはできるだけ優しく丁寧に指導してきている俺だ。彼女からすれば勝手知ったる気心の知れた相手だというのに、それでも嫌味なく敬意を表すことができる辺りはやはり、あの年頃としては驚異としか言いようがない。
と、良い機会だからとリネットは魔法面での才能だけでなくそういった部分も優れているのだよと説明すれば、セリアもミザリィも苦笑気味の表情になった。
「イデア様は本当に『お気に入り』なのですねぇ、彼女のことが」
「少し羨ましい気もしますね……以前はフランに多少の嫉妬混じりにそう思いもしましたが、あの歳でイデア様をここまで夢中にさせるとなればもはや感嘆するほかありません」
凄い子です、と感慨深げにセリアは言い、ミザリィも大きく頷く。ふーむ。良い機会も何も、改めて教えられるまでもなくとっくに知っていたって雰囲気だな。リネットの才能に、ではなく俺の入れ込みぶりにね。だとすると今の俺は恥の上塗りをしたに等しいわけか……まあ別にいいけれど。追っかけなどと自称したことからもおわかりの通り、入れ込んでいるのはその通りなのだから。いやいっそのこと「惚れ込んでいる」と言ったほうが正しいのかもしれない。それくらいに俺は彼女を特別視しているし、期待している。一個人に向けてここまで将来を楽しみに思うのはきっとこれが初めてのことだ。
こほん、とセリアがよくやる咳払いによる話題の転換を本日は俺が行なって。
「まあなんだ。とにかくこれからリーネを見る時間だから、モロウにもそう伝えておいてくれると助かるよ。ところで二人はこの後どうするんだ?」
「戻ってイーディスたちを手伝ってきますわ。手は足りているでしょうけれど、私たちだからこそやれることも多いですからね」
「そっか。じゃあ城まで送ろうか?」
「いえ、イデア様のお手を煩わせることはしません。私の術で戻りますので」
セリアがそう言ったのは気遣いのつもりなのだろうが、リネットを迎えるにあたって俺の用意というのは特にない。なので彼女が来るまでの間は手隙であり──そもそも二人を城まで跳ばすこと自体になんの手間も時間もかからない──訊ねるまでもなく転移を発動させてもよかったのだが。けれどセリアが転移を身に着けたのは直近のことでもあるし練度の上昇も兼ねて、あと単純にせっかくマスターした新術なら使えるときに使いたい気持ちもあるだろうと予想して大人しく手を出さないことにした。腕に掴まったミザリィごとセリアが跳ぶのを見送り、地上階へと上がる。するとそのタイミングで折よくベルが鳴った。
この控えめな音。間違いない、リネットだ。地下への階段から玄関までは近い。俺が扉の前についたところにちょうどマニも姿を見せたが、俺がやるからと手を振れば一礼して仕事に戻っていった。彼女にはリネットの昼食と夕食を作ってもらわねばならない。ここ数年で苦手としていた料理もかなりマシな腕前となったマニだ。味にそこまで拘らない俺がなんとか食べきれるレベル、から、客人にも充分振る舞えるレベルにまで、と言えばその躍進具合が伝わるだろう。成長というより進化である。その使用人業務で培った技量を披露せんと朝から仕込みを行なっているところなのだから、出迎えくらいは俺がやっておこうじゃないか。
「やあ、いらっしゃいリーネ」
「どーもです、イデア先生」
ぺこり、と浅い角度で頭を下げるリネット少女。リーナによく似た薄い茶の髪色をした二房の三つ編み。両肩から下がったそれがふさりと揺れて僅かに香りが立った。これは、コロンか何かか? ……ああ、そう言えば前に会ったとき近場の街にも流行りの化粧店が出来て、そこの香水のシリーズがオーリオ領でもブームになっていると教えてくれたっけな。
実はその店の本店は王都にあり、もっと言えば店主は友好の証として新王国に移り住んだメナティスの一体であり、開業当時にゼロナンバーと呼ばれる最も貴重な品──なんでも全商品の香りの基となっているのがそれらしい、よくわからないが──を俺も頂いていたりする。原液に近しい代物だけあって相当に強烈なアイテムなので扱いが難しい上、そもそも俺はお洒落とは無縁に過ごさせてもらっている。少なくともこの少女ボディでおしゃまなことをする意味なんてなかろう……と思っていたのだが、俺よりもやや小さいくらいのリネットが既に香りを武器にするようになっているとは驚きだ。
「どうかしました?」
「いや、なんでも」
きょとんとした顔に思わず誤魔化してしまう……しかしそうかぁ、単に話のタネにしただけでなくけっこうな関心があったのだな。そして話題の商品を即ゲットして即試してみたと。リーナかアルフにでも頼んで手に入れたのだろうが、さすがは俺と違って純粋培養の女の子。そういった面では男子を軽々と飛び越えていってしまうな。前世で俺が服装や身だしなみを気にかけるようになったのは果たしていくつくらいのときだったろうか……うむ。この話題は振り返ってみるだけ恐ろしいのでやめておくことにしよう。




