2.始原の魔女
とうとう見つけた。と、その女性は目的地である森を前にして息を吐いた。
いや、真の目的地はここではなくこの奥。もっと言えば、そこにいるであろう『とある人物』こそが彼女の探し人。
その存在はまことしやかに語られる御伽噺も同然であったが、実際にこうして住処を目にしてしまっては疑いようもない。見たことも聞いたこともない奇妙な植生をした黒い森。小さく、だが奥深いそこは、恐る恐る足を踏み入れた彼女をじっと観察するかのように静かだった。
経験と知識にあるどんな場所とも一致しない。この森は普通ではない。肌でそう感じるだけに、彼女の歩みはそこで一度止まった。
黒い森には魔女が棲む。その言い伝えはいつから伝わっているものか。始まりを紐解こうと思っても不可能に近い。それだけ広く根深く人々の意識に根付いている伝承だ。だが、それがただの御伽噺と一線を画すのは、絶えずその信憑を訴える者が現れることにある。
迷い込んだ先で助けられた、脅された、何かの魔法をかけられた。時代を問わずそう主張する者が少なからずおり、そして彼らに共通している点は、皆一様に魔女とどこで出会ったのかを覚えていないこと。『黒い森に魔女はいた』。それ以上のことはどれだけ記憶を振り絞っても思い出せないのが常だった。
魔女を探す彼女にとってこれは困った事態であったが、賢者を名乗るとある高名な人物の話を聞くことに成功し、得られたものがあった。魔女は実在するという確約。そして、その居場所についての詳細。
伝説の証人を憚らず名乗るその人物は自他共に認められる酔狂者であったが、魔法使いとしての実力に疑念の余地はない。その言葉を信じたことで彼女は単身教えられた場所へと向かい、こうして件の森を発見するに至った。
「──【エコー】」
己を鼓舞する意味も兼ねて得意の探知魔法を使う。自身を中心として放った魔力を反響させ、潜む者を見つけ出す。生物・非生物を問わずその位置と形、そして地形の把握をも瞬時に行える優れた呪文だが、その代わり索敵範囲はそう広くない。だが少なくとも彼女の周囲、すぐさま襲い掛かられる距離に怪しいものは何もないと判明した。周囲には不気味な樹木が生えているだけだ。
それだけでも十分に気勢が削がれるが、とひとまずの安全を手に入れたことで気を落ち着かせかけたところで、彼女ははたと気付く。【エコー】で広がった魔力が、随分と遠くまで届いた。……この魔法が探れる範囲はその都度の状況やコンディションによって増減するものだが、これだけ広範囲を探知できたことは一度もない。過去に例がないほど絶好調というのならともかく、今の彼女はむしろその反対にある。
(これは。魔素が、濃い……? そんなことが)
魔素とは酸素のようにどこにでもある、魔力の源となるエネルギーのことだ。通常魔法使いはこれを取り入れて己の魔力へと変換し、脳内で組んだ魔法式の実行に費やす。魔法使いとして一角にある彼女は故に、魔法を行使したことでこの場に異常なまでの魔素が満ち溢れているという非現実的な現実を察した。
魔素は常に一定かつ、無限である。魔法使いの知る常識。それがこの黒い森には通用しない。ここは明らかにおかしい。今や根拠は肌感覚だけでなく、その異常性がより顕著なものとなっている。
「……、」
それでも彼女は歩を進めた。目下のところ、危険はない。ならば逃げ帰るにはまだ早すぎる。そもそもここで諦めてしまえばもう彼女に頼れるものなどない。賢者にもすげなく断られたそれを解決できそうなのは、もはや御伽噺の魔女しかいないのだ。
彼女が直面している問題は大事であり不可解。個人で解決を図るには難解が過ぎる代物であるからして。
そう、彼女は救いを求めてここへやってきたのだ。
黒々とした葉を湛え果実を実らせる木々。それ以外に何もない、何もいない薄暗い森を進むことしばらく。やがてそれは見えた。
──ログハウス。真っ黒なそれは、どう考えても森の樹木を素材に作られた物であった。
色は重たいが、外観はかわいらしい。森の雰囲気からすればそのほうが異様ではあるが、しかし明らかな人工物を目にしたことで彼女は自然、安堵を覚えた。
「……!」
それがすぐに緊張に変わる。ドアが、音もなく開いた。ログハウスから何者かが姿を現そうとしている。固唾を飲んで見守ると──。
「よく来た」
開口一番に少女はそう言った。黒い髪、黒い瞳、黒い服。森と同じく何もかもが黒で出来た少女だった。見計ったように出てきたと思ったが、その台詞からして少女にはわかっていたのだろう。自分という来客の存在を、目にする前から知っていた。知っていてここまで来させた。ならば、歓迎の意思はあるということか。
よく来たという言葉を額面通りに受け取っていいものか迷う彼女に、黒い少女はすっと目を細めた。それで我に返る。魔女──推定だが──に対して無礼は許されない。伝え聞く口伝や噂話が確かであれば、この少女は礼を尽くさない相手には途端に冷たくなるはず。
「よ、用件があって伺いました」
「用件? ……俺に用があるって?」
「はい。どうか私の話を聞いていただけませんか」
少女の一人称に多少の意外さを感じつつも、それを表に出すことなく彼女は肯定する。真摯に答えれば相応に応えてくれる。そう信じた彼女の期待は、果たして裏切られることなく。
「ふうん。じゃあ、入りなよ。中で聞こう」
今し方後ろ手に閉めたドアを開け直しながら、少女は顎で入室を促した。黒と対比して白すぎる肌と、彼女の小さな唇。そこからちろちろと覗く口内がやけに赤々しく感じられて、戸惑う。
何かしらの術中にいるのか? いや、そうではない。自分は吞まれている。見た目には部屋好きの幼気な少女にしか思えぬ魔女に、心身をすっぽりと飲み干されているのだ。
警戒する素振りもなく背中を見せた少女の後に続いておっかなびっくりとログハウスへと入った彼女は、途端に独りでにドアが閉じたことで驚かされた。なんの魔法の痕跡も見られないことにどういう仕組みかと真剣に悩んだのも束の間、そんな場合ではないと前に視線を戻せば、少女は既に卓についており。
「立ち話もなんだし。座りなよ」
そう言って向かい側を指す。そこへ座れ、という命令だ。それに素直に従った彼女は、今度は自分のほうから口を開いた。
「私はセリア。セリア・バーンドゥといいます」
「ふむ。それで、用件って?」
名乗り返してはくれなかったが、話を聞く姿勢を取ってくれているだけありがたい。ひとつ神妙に頷いたセリアは、早速本題を告げることにした。
「始原の魔女様。あなたのお力添えをいただきたく訪ねて参りました」
単刀直入に切り出せば、少女は口を閉ざした。無言で続きを促しているのだと察したセリアは、なるべく手短に、しかし丁寧に願いの内容を説明することにした。
「ここからそう遠くないところに国があります。僅かな王族と貴族ばかりが肥えるために残りの国民が圧政を強いられる酷いその国が、私の生まれ育った地です。宮廷所属となって内からこの国を変えていこうと決意し、ついに王城で専属の魔法使いとして雇用されるまでになりました。それがつい一年前のことです。ですが、それと時期を同じくして……王族たちは人が変わったようになりました。施政改革が起こったのです。革命ではなく、王族が自発的にそれを行いました。放蕩をやめ、貴族派閥の力を失わせ、教育と福祉へ財を注ぐ。王都の様子は数年前までとは見違えるようになりました。やがてはその波が国全土へと広がり、我が国は豊かさを得るでしょう」
そこで一拍。呼吸を置いたセリアは、いよいよ魔女へ頼みたいことを口にした。
「私と一緒に来てもらえませんか。国が変わった原因をどうしても突き止めたいのです」
「……疑問がふたつある」
イエスともノーとも答えず、魔女は指を二本伸ばした。これにどう答えるかで決まる。そう感じたセリアの緊張感は否応なしに高まった。
「まずひとつ。国が豊かになるのは、良いことだよな? それを目指してあなたも頑張ったようだ。思い描いたのとは違うかもしれないが結果的にはその努力が実ったようなものなんだから、それで満足とはいかないのか?」
「国が豊かになるというのは即ち、やがて確かな国力が得られるということです。それが苦しんできた民たちのために使われるのなら何も言うことはありませんが、もしそうでなかった場合が問題なのです。王は未来で、その国力を違うことに使い潰そうとしているのかもしれない」
「一時は財政も赤字になるが、数年、数十年でそれを元手以上に取り返す。問題はその目的は何かってことか」
贅沢三昧を改めてまで国力が必要になるとは、どういうことか。それを考えたとき、セリア最大の懸念が魔女にもわかったようだった。
「まさか戦争でも?」
「──起こす気かもしれませんし、まったくの杞憂かもしれません。それは王城の主たちのみが知ることです」
「なるほど。それは確かに、懸念があるだけでも国民にとっては一大事だな。それを調べるためにどうして俺を頼ったかも気になるけれど、疑問のふたつ目はそこじゃない。聞かせてもらうが」
「はい」
なんなりと、と何を聞かれても嘘偽りなく答えると決めているセリアはしかし、思いもかけぬ魔女の言葉にフリーズすることになる。
「──『始原の魔女』って、なに?」
「……は?」