1.来訪者
新作です
よろしくお願いします
その日、それを認識した者はほとんどいなかった。
二重構造を貫いて落ちてきた命。その奇妙な現出はともすれば万物を脅かす可能性を多分に秘めていたが、果たして誰にとっての幸いか、この出来事を知覚できた者であっても正しく脅威を認識するには至らず。
かくして彼女はぞんざいに世界へと受け入れられ、存分にその欲求を満たしていくこととなる。それは彼女を含む全ての運命が決したにも等しく、そして。
──致命であった。もう取り返しはつかない。
◇◇◇
「ふわぁ~あ」
寝起きにまず行うことと言えば、あくび。それからバイタルチェックだ。寝ぼけてはいてもこればかりは慎重に丁寧に行う……と言ってもそんな大袈裟なものじゃない。一瞬で済む。
目を閉じて集中。異常なし。これで終わり。
今日も際立った変化は起きていない。目標達成ならず。それについては残念だがもう慣れた。良くも悪くもなっていないのならまあ、良いのだろう。現状維持は万々歳だ。何せ時間はたっぷりある。
寝室を出て、やんでくれないあくび混じりに淹れたハーブティーでひと息をつく。ピリッとした味は癒しよりも目覚ましの刺激を求める今の俺に丁度いい。……よし、本格的に覚醒できた。ここまでが朝のルーティーンである。
いくらでも自由に時間を使えるとはいえ、それに甘んじるだけでは自堕落に歯止めが利かない。自分がそういうタイプだと知っているだけに、区切りはしっかりと設けておきたかった。名前も知らない樹木から採った葉を煎じて飲むのもその一環だ。朝に弱いので、その対処にね。
今更だがこれ、ハーブティーというより自家製漢方だな。効果のほどはプラシーボ。
「今日もおはよう、我が庭よ……うひゃあ」
朝日が染みるー。目にも眩しいけれど、なんというかこう、体全体に入り込んできている感じがする。お日様のパワーみたいな何かが。怖いねぇ。
しょぼつく瞳に活を入れて改めて庭を見渡す。窓から見えるこの景色にも変わったところはない。昨日と同じ今日。現状維持フォーエバー。いやまあ、この庭が出来るまではけっこうな苦労もあったんだけどさ。
庭の外の光景を見ればわかる通り、ここは森だ。そう大きくはないが鬱蒼としていて、人によっては不気味だろう。そこの一部を切り開くことで居住とさせてもらっている。もらっている、という表現だと語弊があるかもな。元々この森の作成者は俺であるからして。
「さて、と……」
モーニングルーティーンとついでの日光浴まで終えたからには、そろそろ仕事を始めよう。仕事というか、趣味だけど。趣味の研究だ。
作業場にしている二階へと赴く。この建物も自家製ハーブティー同様、森を形成しているよくわからんが立派な樹木を材料にして建てたものだ。内装も間取りも思うがままに決めて作ったものの、三階建てにする必要はなかったな。生活は一階、研究は二階。それすら多少無理して分けている感が否めないので、自明の通り三階の持て余しっぷりは半端じゃない。これで地下室や屋根裏まであるっていうんだからログハウス作成時の俺の張り切り方がいかほどのものか、おわかりいただけるだろう。いやはやお恥ずかしい。
地下は倉庫代わりに使えているからまだいいとして、たまに掃除するくらいしか立ち入らない三階以上もどうせなら何かしら活用したいところだ……それができないならいっそ取っ払ってしまうのも手かもね。要らないものなら無いほうがいい。
「研究素材が増えればその限りでもないんだが」
二階が手狭になれば三階も使える。そのためにはこういうのが他にもいる、と俺は壁にかかっているそれを眺める。
「…………」
そいつは人だ。れっきとした人間。大の大人の男。だが動きもしなければ喋ることもない。当然だ、これに意識はないしついでに手足もない。俺が取っ払った。要らないものだったからだ。
お手製の魔力供給装置に繋がれたそいつにも、俺の望む変化はなかった。緩やかな死に向かうという現状が保たれている。それは昨日までのこいつと一緒で、そう遠くないうちに……そうだな、あと十日ぐらいを目安に本当の死を迎えるだろう。そのことを確かめた俺は、計画の失敗を悟りため息をつく。
「あっちの世界の住人にはなれそうもない、か」
──突然だが、俺は転生者だ。
前世、と言っていいのかどうか、とにかく別人として生きていた頃の記憶を持っている。別の身体、別の性別、別の名前。そして別の世界。この記憶が正しいのなら、俺は俗に言う異世界転生というものを果たしていることになるが……はてさて。
こちらに来ておそらくは数百年。前の自分との連続性も大概あやふやになってきている俺からすると、あれが本当に自分だったのか疑わしい気持ちすら出てきている。……だけどなあ。記憶は実感を伴っているし。それに俺、落っこちてきたんだよな。こっちの世界に。そんな生まれ方をする生物なんて普通はいない。これはかつて他者からの確認を取ったことなので間違いない。こちらの世界でも人間はちゃんと母親の腹から生まれるものだ。
母を持たないどころか、赤ん坊時代を経由せずに最初からこの姿だった俺はつまり、こちらの常識と照らし合わせても明らかにおかしい。イレギュラーというやつだ。
元の記憶からするとおかしなことだらけの場所で、なお異端。うーん、いかにも転生者って感じでいいね。だからまあ、それはいいとして、
問題なのはもうひとつの世界だ。
「重なっているんだよなぁ……世界と世界が」
素材の経過観察を記録したボードを投げ捨て、俺は天井を睨む。いや、天井そのものではない。その方向にある世界を意識したのだ。別に必ずしも上を向く必要はないんだけれど、イメージのしやすさから俺はよくそうして視認をしている。
「──エイドス」
理想領域。俺はそう名付けた。対するこちらは実存世界とでも呼ぼうか……とにかく、俺が今いる空間とエイドスは密接の関係にある。なのに、まったくの別世界だ。そこは俺の記憶にある前世ともまるで違う、例えるならそう──天国が具現化したようなところだ。草木が芽吹き、命が溢れ、異様なまでに魔力が漲っている場所。なのに力強いそれらのどれひとつもがまったくの幻想である、存在しているのに存在していない世界。
求めるべき理想としてただ横たわっている。だから理想領域。
俺は元々そちら側の存在だ。
というのも……っとと、今はそんなことよりこいつだな。
「どうするかな」
余命十日の男を眺める。その正体はなんというか……言葉を選ぶ必要もないか。強盗だ。有り体に言って犯罪者である。
この森は人里からそこそこ遠いらしいんだが、それでも稀に来訪者はやってくる。その善悪を問わずに。流浪の強盗団に襲われた回数は少なくない。決して多くもないが。どうやって対処しているかと言うと、まあ。暴力には暴力で応じるようにしている。それが一番だ。言葉でどうにかできるような奴はそもそも強盗になんか成り下がらないしな。
追い返すだけに済ませたこともあれば、あんまり悪質であれば土に還して肥料にしたりもした。比喩じゃない、今でもそいつらは森のどこかに眠っている。おそらくは骨だけになって。
だけどこうして実験への用途を思い付いたからには惜しいことをしたと思わなくもない。帰す必要も還す必要もなかった。材料に使えたのにみすみすその機会を逃してきたことになる。当時は思い付いていなかったんだから仕方ない……とはいえ元手がないのでは実験のしようもない。
ふん、と鼻息混じりに首を巡らせる。男の横にはもうふたつばかり同じ装置が並んでいる。その内容物も似たようなものだ。強盗のお仲間たち。こいつらはもう少しだけ長持ちしそうだが、同時期に処理を施したのだから十日後には危篤状態だろう。こっちも見込みはなし。ただ死んで終わり。
いっそひと思いに殺してやるか。俺も鬼じゃない。助かる見込みもないのに──助けるつもりもないのに、と言うべきか──無駄に苦しめる趣味はない。意識はなくとも苦痛はあるはずで、その度合いについては推察の範囲を出ないが、それこそ起きていれば永遠に目覚めなくなるほどのものじゃないかと予測している……生体反応からしてね。それだとガタガタと口も体もうるさく騒ぐので、こういう形にしているわけだ。
供給装置だけでなく、そこから注がれた魔力で常に満たされている培養槽も俺の手作りだ。ログハウスと同じく手動ではなく魔力で組み立てたものではあるが、最適化にはそれなりに手間もかかっている。そこに設置されまるではく製のように置物と化しているそれは、はっきり言ってスペースの無駄だ。こいつらをどかせば四つしかない培養槽(うちひとつは故障中)にも空きができる。
「なんて言っても新しく置く素材がないんだけど……どっちが無駄かな」
スペースの無駄使いと時間の無駄使い。マシなのはどちらか悩ましい。
無駄は嫌いだ。余裕を楽しむためのものならともかく、身の回りに俺の意図しない無駄があるのは少々気持ちが悪い。しかしこの場合、どちらを選んでも無駄は無駄。だとすれば。
よし決めた。万が一を信じてこのままにしておこう。男たちには悪いが、もうしばらく苦しみを味わっていてもらおうかな。見かけは少女な俺を躊躇いなく殺そうとした連中だ、どう扱おうと構うまい。
どうせ死んだって地獄行き。俺の与える苦痛も人生最後の余暇だと思って楽しんでくれれば──うん?
「……おや」
珍しい。
この森にまた、来訪者だ。