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─この物語はフィクションです─

作者: せっきー

あなたが読んでいるこの小説。それはインターネットという一種の「匿名」の世界で発信されているものである。筆者の本名を知らなければ、顔も年齢も知らない。それは、この小説の筆者は、あなたのすぐ身近な人物の可能性もあるということだ。

暇潰しで始めた僕の趣味は、気付けば学業よりも熱心に取り組んでいた。大学の課題は溜まりまくってるし、何なら1つ期限を過ぎた。それくらい没頭しているなんて正直笑えない。1度始めたら暫くは座りっぱなしだし、集中力は勉強の時よりもある。周りのこともよく見るようになったし、そういう意味では利点の方が多い。


そんな僕の趣味、それは「小説を書く」ということだった。特に読書が好きだとか、そんなことは全くない。そのきっかけは本当にひょんとしたことである。3つ年下の妹・凛緒(りお)が、作文コンクールで文科大臣賞に輝いたのだ。そんな凛緒に「兄ちゃんもなんか書いてみなよ」と嘲笑うかのような笑顔で言われたのだから、兄として引き下がるわけにもいかない。


しかし素人が突然に書けるほど、小説は甘いものではない。(そもそ)も小説になんて興味は皆無、小学生の頃の読書感想文は親に書かせるなど、筆無精の鑑のような半生である。唯一真面目に取り組んだのは、大学入試の小論文くらいだろう。


そんな人間ですら入れてしまう大学に通う兄に対し、凛緒は漫画に出てきそうなほどの文学少女であった。生まれつき身体が弱く、喘息(ぜんそく)だの肺炎だので幾度も入退院を繰り返していた妹は、運動すらできず持て余す時間を読書に捧げていた。そんな、なかなか学校に行けず友達が作れなかった凛緒も、17歳になり立派になった。


いや、少々立派になりすぎたのではなかろうか。今でも月に1回は定期的に通院しており、大抵は親が仕事なので僕が付き添っているのだが、午前中に病院が終わると昼食後は古本屋ツアーが始まる。専ら付き人の僕は行く先々で青木まりこ現象に悩まされるが、それでもあんなに根暗だった凛緒の笑顔が炸裂するここはユートピアであった。何だかんだ言っても大切な妹である。輝く笑顔は太陽のように明るく、僕が弱気なときでも励ましてくれる。僕に恋愛経験がないのも、こんな可愛い妹がいるからなのかもしれない。将来も結婚とかするより、独身で妹と2人で暮らし続ける方がお互いにとって好都合な気がしている。



そんな凛緒に触発されて書こうとした小説だが、当然ながらストーリーは思い浮かばない。どんな書き出しにするのが正解なのか。登場人物は何人で、どんな関係で、どんな結末にするべきなのか。結局自分ではいい案が思い浮かばず、凛緒に相談する始末である。


何となく教えてもらい、いざ書こうとすると、凛緒がスマホを見せながら話しかけてきた。


「兄ちゃん、これ使ってみなよ。」

「ん?なにこれ?」

「これね、『小説家になろう』ってサイトなんだけど、アカウント作れば誰でも自作小説を掲載できるの。私は読む専でやってる。」

「ほぉー、まあ所詮は妹に上から目線で誘われたお遊びだし、無料だし良いか。」

「言い方に(とげ)があるような…?」


早速ユーザー登録をする。作者名なんてどうでもいい、まあ本名が長谷川孝太(はせがわこうた)なのだが、小学生時代の同級生から呼ばれていた「こーちゃん」で良いや。



それが今年の2月の話。あれから半年が経った。凛緒は高校3年生になり、僕も大学3年生になった。先述の通り僕は小説を書くことに没頭し、今日までに全6作の短編小説を書き上げた。ペース的には月1作である。出来上がるとまずは凛緒に読んでもらう。毎回にたにた笑いながら読んでくれる。そしてその感想がまた文学少女チックなのだ。最初は「ここはもう少しこうした方が伝わりやすいよ」とか「これをこっちに持ってくる方が読みやすいかも」とか、具体的にアドバイスをくれていた。でも最近は「この部分、ここに繋がるって考えるともう少し深く書いた方がいいかも」というような、僕に考えさせるようなことを言う。実際そのおかげで、ものを表現するときの言葉のバリエーションが増えた。


その凛緒が「良いね!」と言ってからようやく掲載する。まるで出版のようだ。


毎回の反響の有無については分からないが、少なくとも1人からは感想レビューが届く。頼んでもいないサクラであるのは明白であるが、お遊びなので特に気にすることはなかった。しかし不思議なことに、僕は小説を書くことにハマってしまったのだ。あまりに不思議すぎる成り行きではあるが、凛緒も喜んでくれるしこれで良かった。



そんな僕でも、バイトだけは忘れずに行く。週に3回、家から程近いコンビニでバイトをしている。特に今日は、僕が最近気になっている女の子との2人だけのシフトなので尚更である。


今日も店につくと、ちょうど更衣室から出てきた。この子が、僕が密かに思いを寄せている西田千里(にしだちさと)ちゃん。凛緒と同い年の高校3年生で、今年の4月からここでバイトを始めた。最初は仕事を覚えるのに苦戦していたが、4ヶ月が経った今では雑談もする仲である。


今日もお客さんが途切れる時間があった。抑も人通りはそんなに多くないところなので、お客さんもさほど多くはない。そういう意味では新人教育に向いてる店舗と言える。反面、こうも手持ち無沙汰な時間が増えて雑談が多くなるのは決して良いことではない。それでも人間関係を構築していくなかで、店員同士の信頼を深めるためにはこのような時間も必要である。


商品の前陳作業をしながら、千里ちゃんが訊いてきた。


「そういえばなんですけど、孝太さんって本とか読みますか?」


回答に少し迷ったが、作家などの知識はまるで無いので、


「いや、全然読まないなぁ。」


と返した。


「えー、めっちゃ読んでそうですよ。」

「全然よ、活字アレルギーだもん(笑)」

「いやいやそんなわけ!私は結構本読むの好きなんですけど、読み始めると止まらなくて、一晩中読んじゃったりするんです…」

「それはすごいね。どんなの読むの?」

「いろんなの読みますよ、恋愛系とかミステリー系とか、最近はSi-Fi(サイファイ)系も読んだりします!」

「幅広いな。好きな作家さんとかいるの?」

「好きな作家さんかぁ、湊かなえさんとか、赤川次郎さんの小説は特に好きですね!あと最近はアマチュア作家さんの小説も読みますよ。」

「アマチュア作家?」

「はい。インターネットで、誰でも自作小説を投稿できるサイトがあるんです。『小説家になろう』ってやつなんですけど。」

「あー、なんか聞いたことあるな。妹もそれ読んでた気がする。」


恥ずかしさはこの上なかったので、自分もそこに投稿してるとは言わなかった。


「そこにも好きな作家さんとかいるの?」

「そこだったら、こーちゃんって方の小説が大好きですね。」


一瞬、自分の耳を疑った。こーちゃんなんて、いくらでもいる名前じゃないか。何ならコウちゃんかもしれないし。でもまさか。


「その人の小説ってどんなお話なの?」

「いろんなジャンルを書いてるんですけど、私が特に好きなのは『或ル晴レタ朝、埃舞ウ』って小説ですね。勤めていた企業が倒産してホームレスになった女性が、廃屋で身を隠しながら生活するって話なんですけど、1つ1つの描写がすごくリアルで、私もその場にいるような感覚になるんです。」


間違いない。それは僕の4作目だった。すると何かのスイッチが入ってしまったのか、千里ちゃんの語りは止まらなくなってしまった。


「あと、その方が最初に掲載した『声が聞こえる方へ』って作品も好きです。ある日突然声が出せなくなった主人公の妹が、声を取り戻すための大手術をするんです。でも妹は手術を怖がって逃げまとうんです。みんなは追いかけて、最後は兄である主人公が必死に説得して、その手術は無事に成功して元の声を取り戻すっていうストーリーなんですけど、その説得のシーンが本当に感動するんです。『お前の声は天使の声なんだ。どんな声優にも真似できない、俺の心を癒してくれる声なんだ。だからどうか、また一緒に大声で笑いたい。』って言葉がもう、、思い出すだけでも泣いちゃう。」

「いやいや、勤務中だぞ?(笑)」


思い出して泣きそうな千里ちゃんとは反対に、僕はニヤつきそうな顔を必死に押し殺していた。妹の提案でそれとなく書いた話が、こんなに誰かの心を動かせていたことが嬉しくてたまらなかった。



バイトが終わって家路につく。自分の好きな子が、自分の小説を読んでくれている。僕の感情は、エベレストよりも高い嬉しさと、マリアナ海溝より深い恥ずかしさの間で揺れていた。千里ちゃんが僕だと気づかずに僕の小説を読んでいることは、僕たちがまるで運命の出逢いであったことを証明しているようだった。


そうだ、千里ちゃんへの恋心を小説にしてみよう。僕は密かに恋をしている、それを小説として書けばきっと読んでくれる。



3日ほどが経ち、案外すぐに書き終えた。コンビニでバイトしている大学生・瀬川隆博(せがわたかひろ)が、同じ職場の後輩である西川美里(にしかわみさと)に恋をしたのだが、告白の勇気が出ずにいる。そんな躊躇(ためら)いを重ねている隆博の気持ちに気づいていた美里は、どうにか隆博から告白してもらおうと様々な誘いをしてみるが、その度に隆博は更に躊躇ってしまう。しびれを切らした美里は、隆博に恋愛話を投げかけ、隆博はその流れで美里に告白をし付き合うという、かなり王道の恋愛小説である。もちろん瀬川隆博は長谷川孝太、西川美里は西田千里のことである。


例にならって凛緒に読んでもらう。いつも通りニヤつきながら読み進める。


「これ、実話?」


読了した後の一言目に、僕はドキッとした。


「ちがうよ、妄想(フィクション)だよ。」

「妙にリアルなんだよなぁ。」

「書くの上手くなったんだよ、きっと。」

「それ自分で言うの?(笑)」


凛緒からは絶賛された。あとは掲載するのみ。千里ちゃんがこれを読んで、感想を言ってくれる日が待ち遠しかった。



そして迎えたこの日。案の定、千里ちゃんはその話を振ってきた。


「そういえば、先週話した小説読みました?」

「うん?あぁー、アマチュア作家さんのやつだっけ?」

「そうです!あのあと更新されて、新たな小説が出たんですよー!」

「へぇーそうなの。全然読んでないや。どんなお話?」

「ある男子大学生が、バイト先で出逢った女子高生に恋をするんですけど、勇気が出なくて告白できずにいるんです。でも女の子はその男の子の気持ちに気づいていて、男の子から告白をしてもらえるように仕向けるんです。それで男の子は勇気を出して告白をして、無事に2人は付き合い始めるんです!」

「おー、王道のラブストーリーだね。」

「もう終始キュンキュンしちゃいました。こーちゃんさんってどんな人なのかな…?すごく女心が克明に描かれていて、でも男心も応援したくなって、彼氏と付き合い始めた時を思い出しちゃいました。」

「え、彼氏さんいるんだ?」

「いますよ、もう2年くらい付き合ってるんです。」


このときの僕の感情を、誰かに理解されて堪るものか。僕はそんなことを聞き出したくてあの小説を書いたわけじゃない。恥ずかしがり屋な僕の恋心に気付いてほしかった。


「今度、こーちゃんさんにダイレクトメッセージ送ってみようかな。」

「え、そんなことできるの?」

「できるみたいです。どんな方なのか気になるし、近くに住んでたら会ってみたいなぁ。リクエストしたら、私たちのことを題材に書いてもらえたりするかな。」

「私たちのこと?」

「彼氏との他愛ない日常です(笑)」


自分がどんどん虚しくなった。千里ちゃんの笑顔が、少しずつ歪んでいくように見えた。こんな可愛い千里ちゃんに彼氏がいることくらい、ちょっと考えれば分かったことだ。どうかこれこそ幻覚(フィクション)であってくれ。


その日バイトが終わって家に帰ると、スマホに通知が来ていた。どうやらマイページにダイレクトメッセージが届いたらしい。ユーザーネームは『Chisato』。間違いない。あの子だった。


「こんばんは。突然のメッセージ失礼します。いつもこーちゃんさんの小説を読ませていただいています。こーちゃんさんの小説はいつも登場人物の心情が克明に書かれていて、読んでいるとその場に自分もいるかのような気持ちになるんです。もしお近くに住んでいるようでしたら、実際に会ってお話ししてみたいです。お返事待ってます。」


返信待ってますなんて言われたって、できるわけない。それどころではなかった。もちろんあの子に彼氏がいたって不思議なことではない。だけど僕の心のショックは大きかった。



悔しさそのまま、小説を新規作成しようとしていた。男子大学生・谷川孝(たにがわたかし)が、バイト先で出逢った女子高生・東田万里(ひがしだまり)に告白をするが、その子には既に彼氏がいた。それに失望した孝は、ショックで自殺してしまう。そんな泥沼化したカオス過ぎる小説である。


あくまでもこの物語は創作(フィクション)である。しかし僕が本当に死んだら、この物語はたちまち実話(ノンフィクション)となる。流石に死ぬことはないが、千里ちゃんが読めばこれがどのような話か、そして誰が書いたか一発で分かってしまうだろう。それでも理性を失った僕は、その小説を掲載した。



その次のバイトで、千里ちゃんと一緒になった。珍しく客が多く、話すような時間はあまりなかった。それでも勤務が終わる時刻が一緒だった僕たちは、上がり間際に言葉を交わした。


「あ、そうだ。孝太さん今日一緒に帰りません?」

「珍しいね。いいよー。」


意外にも、2人で帰るのは初めてである。どういう風の吹き回しなのか分からなかったが、歩きながらその目星がついた。


「孝太さん…だったんですね。」


微かな微笑みを浮かべながら訊いてきた。


「うん?何が?」

「小説です。私が何度か話したやつ…」


案の定、千里ちゃんはあの小説を読んでいた。


「うん。よく分かったね。」

「そりゃ分かりますよ、半年近く一緒に働いてる先輩ですから。」

「なんか、ごめんね。」

「謝ることないですよ!私だって、もし自分が書いていたとしても言えないですもん!それに、少し嬉しかったです。」

「ん?」

「あれ、孝太さんの本心(ノンフィクション)ですよね。何となく気づいてました。だけど私も彼氏がいるって言い出せなくて。」

「うん、気にしなくて良いよ。それにあれは実話じゃない、あくまでも創作(フィクション)だから。千里ちゃんのこと気になっていたのは事実だけど、現に僕は生きてる。あんなことで僕は死なないし、千里ちゃんが謝ることもないよ。」


他人を傷つけるような小説を書いてしまったこと、そんな自分に失望していた。


「でも、私も孝太さんのこと、人として好きです。バイトの先輩としてもいろいろ教えてくれるし、何より話してると…」

「そんなに言わなくて良いよ。千里ちゃんには彼氏さんがいるんだから。僕は嬉しいけど、僕以上に彼氏さんのことを心から好きになってあげな。」


強がってみたものの、千里ちゃんの目が次第に沈んでいく。それに気づいた僕は、


「でもありがとね。」


とだけ言っておいた。



それから2ヶ月が経っただろうか。僕が久しぶりに書いた小説「藤崎2丁目交差点」が、サイト内のアマチュア小説家を対象にしたコンテストにノミネートされた。1991年に藤崎2丁目交差点で発生した、修学旅行の高校生が乗った観光バスとバスジャックされた路線バスの衝突事故を描いた、完全なる架空(フィクション)の小説である。衝突された観光バスに乗っていた彼女を亡くした彼氏と、路線バスにのっていた老夫婦、そしてバスジャック犯の、決して交わるべきではなかった3組を結んだ事件について書いた。


ちょうどその頃、急に冷え込んだこともあってか凛緒が風邪を拗らせていた。暫く落ち着いていた喘息の発作も屡屡(しばしば)起こるようになり、4年ぶりに入院することになった。


「兄ちゃん、ごめんね。」

「謝ることないよ、凛緒が一番辛いはずだから。今はとにかく、ゆっくり休んでな。」

「うん…ありがと…」


喋ることはおろか、呼吸すらしづらそうな姿を見ると、涙目で抱きついてきた10余年前の凛緒を思い出す。あのときは本当に過酷だった。1日中発作を起こし、病院で検査すると肺炎が確認され、即入院が決まった。2ヶ月ほど入院が続き、僕も学校帰りに見舞いに行くのだが、苦しむ妹を前に何もしてあげられないことが何よりの苦痛だった。



幸いにも今回は2週間ほどで退院できた。帰りのタクシーの中で、凛緒が訊いてきた。


「兄ちゃんの小説読んだよ。もう本職にしたら?」

「え、小説家になれってこと?」

「うん。もうアマチュアのレベルじゃないよ。何かの賞に選ばれたんでしょ?」

「まあね。大賞は取れなかったけど、ホープ賞とかって2番目に良いの貰った。」

「兄ちゃんの小説は人の心を動かす力があるし、何より読んでて感情移入しやすい。これからもずっと小説を書いて欲しい。」

「良いけど、凛緒もずっと読んでくれよ?僕の小説の最初の読者は、絶対に凛緒であって欲しいから。」



そんな何気ない兄妹の会話から丸1年。凛緒が亡くなった。大学に進学した凛緒は明るいキャンパスライフを送っていた。僕は就活も無事に終え、朝の9時から夕方の4時までバイト漬けであった。両親も仕事で、家にいたのはその日は休講だった凛緒だけだった。昼休憩で連絡したときは、ちゃんと返信が来た。なのにバイトが終わって帰宅すると、蛇口から水が流れたままの台所で凛緒が倒れていたのだ。すぐ傍には、凛緒のお気に入りのグラスが割れた状態で床に散らばっていた。慌てて救急車を呼び、毎月通っている病院へ向かったが、懸命の処置も間に合わず息を引き取った。


非常に稀であるが、凛緒は風邪気味のときにものを食べると吐き出してしまうことがあった。この日も若干風邪気味であったが、症状は多少の寒気と微熱だけだったため、僕も軽視してしまった。昼に食べたものを戻してしまった凛緒は、1人でパニックになり水を飲もうとしてしまった。そのとき喉に残っていた吐瀉物(としゃぶつ)誤嚥(ごえん)してしまい、喘息の発作も起こし呼吸ができず、倒れ込んでしまったというのが医師の見解である。



最愛の妹を失った僕は、(おもむろ)に凛緒の身辺を見て回った。僕たちはこの歳になっても同じ部屋で寝ていた。凛緒の体調を考慮してということもあったが、まるで彼女のように一緒に寝たいというのが凛緒の口癖であった。今日から、いやこれからずっと、もう隣で一緒に寝る妹はいない。極度のシスター・コンプレックスに思われそうだが、欲を言えば天国で隣にいてあげたい。


同じ部屋で過ごしていたにも関わらず、凛緒の勉強机の中にあるノートの存在を知らなかった。黄色い表紙のノートを開くと、見慣れた凛緒の可愛らしい字が並んでいた。書き出しを少し読んでみると、それは凛緒が僕に触発されて書いた小説だった。


『ゴールテープ』


そう題された小説は、まるで自らの生活を題材にした日記のようだった。



『よく人生は、マラソンやトンネルに例えられる。「人生山あり谷あり」だとか「止まない雨はない」だとか、そんな一種の綺麗事に例えられる。しかし果たしてそれは本当なのだろうか。少なくとも私は、ゴールテープを切ることやトンネルを抜けることが喜ばしいことで、道が平坦になったり雨が止むことが良いことだとしても、それを人間の一生に重ね最期がハッピーエンドのように書かれることに苛立ちを覚える。それでも人は、いや生物は必ず死ぬ。それは物語において便宜上好都合だからとか、現実には起こらないような奇跡だとかの介入を一切含まない、ごく普通の自然現象である。もしかしたら、物語において死を描くことこそが、物語を明からさまな空想文学(フィクション)にしない方法なのかもしれない。』


そんな書き出しで始まった凛緒の小説は、僕の最初の小説『声が聞こえる方へ』を彷彿とさせるような拙さだった。現実と感情を交互に書く日記のような手法は、4作目の『或ル晴レタ朝、埃舞ウ』を意識したのだろうか。凛緒自身を主人公とし、持病に苦しむ自身を献身的に支える兄との何気ない日常を描いたこの小説こそ、真の実話(ノンフィクション)である。


物語は、その日は休講になり家にいた主人公と、バイトに行った兄が連絡を取った場面で途切れていた。それはまさに、僕と凛緒が最後に会話した時のことであった。


凛緒がこの物語をどのような結末で締めるつもりだったのか、それは今となってはもう誰にも分からない。ただ書き出しを見る限り、きっと凛緒は「死を描くことなく、明からさまな空想文学(フィクション)を回避する」方法を考えていたに違いない。そしてそれは同時に、「自分は生きる」という強い意思の表れでもあった。


その想いに心を動かされた僕は、凛緒への弔いとして、この物語を小説として書き上げることにした。最初の読者がいなくなった今、もう僕には一から小説を作る気力は皆無だった。


不自然に途切れた物語。その結末は、持病を克服し幸せに生き続ける「理想(フィクション)」ではなく、誰も手を貸せずに命を落とした「現実(ノンフィクション)」にすることにした。



『その連絡から何時間が経った頃だろうか。その瞬間は突然訪れた。』



『生きることができなかった。これが私の運命なのだろう。』



『この小説の結末も、私の命と共に終わらせるしかできないのだ。』



できる限り凛緒の文体に寄せた僕の文は、まるで本当に凛緒が書いたように思えてくる。あるいは、凛緒が乗り移って僕に書かせていたのかもしれない。


そしてこれは、僕にとっての最後の作品である。凛緒の想いが多くの人に届いてほしい、その一心で、「小説家になろう」のサイト内コンクールに応募した。最優秀作品に選ばれれば書籍出版され、小説家として正式にデビューできるらしいのだが、これが何かの賞を獲ったとしても、僕はもう小説を書くことはない。凛緒の小説が認められたという証にはなるので、そういう意味では受賞できれば良いなという願望はあった。



それから2ヶ月。凛緒の四十九日の法要も済み、僕も心の整理をつけ始めた頃、応募したコンクールの結果が届いた。


「ご応募ありがとうございました。審査を重ねた結果、あなたの小説が最優秀作品に選ばれました。」


その文面を見たとき、凛緒のことをこれまで以上に誇らしく思った。僕ですら7作目でようやく2番目の賞なのに、実質デビュー作が最優秀賞を獲るなんて、生きていれば間違いなく偉大な小説家になっていたはずだ。すっかり忘れていたが、これでも2年前は作文が文科大臣賞を受賞していたくらいだし、これくらいで驚くのは凛緒に失礼だったのかもしれない。


それからすぐに、運営局から書籍化と正式な小説家デビューの話が来た。凛緒の想いを金儲けにはしたくなかったため、規定されていた印税などは受け取らない無償掲載で合意し、小説家デビューについては前述のとおり、もう小説を書くつもりは一切無いため断った。


書籍出版に先立ち、特設サイト内で作品が掲載されるや、その反響はとても大きかった。数分おきに届く感想とシェアの通知で、僕はスマホから目を離すことができなくなった。その中に、僕はふと、見覚えのある名前を見つけた。それは小説の感想ではなく、僕へのダイレクトメッセージだった。ユーザーネームは「Chisato」。恐る恐る確認すると、それは僕が想像していた人と同一人物であった。


「孝太さん、ご無沙汰しています。お元気にしてますか?会えなくなってもう半年ほど経ちますね。小説読ませていただきました。またあのときみたいに、感想直接言いたいので、近々お会いできませんか?」


千里ちゃんは今年の3月、高校卒業と同時にバイトを辞めてしまい、僕らはそれっきり会ったり話す機会はなかった。彼氏の存在を知ってからは千里ちゃんへの恋愛感情はすっかり無くなり、むしろ最高のパートナーとしてバイトに励んでいた。



数日が経って、待ち合わせ場所の駅の改札前で立っていると、それまでポニーテールでしか見たことがなかった長い髪をすっかり短くした千里ちゃんが走ってくるのが見えた。


「遅くなっちゃってごめんなさい!乗り換えに間に合わなくて!」

「大丈夫だよ、そんな遠くの大学に通ってるの?」

「隣県の大学なんですけど、2回乗り換えしなくちゃいけなくて…」

「そっか、それは大変だね。ご苦労様。どこかカフェにでも入ろうか。」


駅前の喫茶店に入った僕らは、席につくや近況報告と、そう遠くない過去の思い出話に花を咲かせた。


「大学は楽しい?」

「めっちゃ楽しいです!サークル活動もしてるんですけど、何のサークルだと思いますか?」

「うーん、高校からの剣道続けてる?」

「あー、剣道は辞めちゃいました。今は文学好きが集まるインカレサークルに入ってるんです。」

「インカレの文学同好会か、お互い好きな本を持ち寄って交換回とかしたり?」

「それもしますし、自分たちで実際に物語を書いたりしてます。」

「そうだったんだ。じゃあ千里ちゃんもなにか書いてるの?」

「はい。正確には個人で書いてるというより、少人数グループごとに物語を作って、それを他大学の演劇科の皆さんによって映像化してもらったりしてます。」

「すごい、本格的だね。」

「孝太さんこそ、本格的な小説書いてるじゃないですか!」

「へへ、ありがとう。交差点の後に書いたやつも読んでくれてたの?」

「はい、読みましたよ。確か『輝けないダイアモンド』と『青いスウェット』ですよね。宝石店で発生した強盗事件のことを書いたと思えば、古着屋の店員とお客さんの恋愛を描いた物語だったり、凄すぎですよ。」

「いやいや、そんなことはないよ。でも最後の小説で最優秀賞獲れたのは良かった。」

「え、最後?あの小説がですか?だってあのコンクールって実際に小説家になれるチャンスが付与されるやつですよね?」

「そうなんだけど、いろいろ諸事情があってね。僕はもう小説は書かないよ。」

「そうなんですか…残念です。」

「きっと千里ちゃんは、2人いる僕の小説の大ファンのうちの1人だね。」

「それは自負してます(笑)」


凛緒の他にもファンがいたことを忘れていたが、それでも僕はもう書きたくなかった。


「大ファンついでに1つ訊きたいんですけど、良いですか?」

「うん、何だい?」

「あの小説、書いたの孝太さんじゃないですよね?」

「あの小説って?」

「最優秀賞獲った『ゴールテープ』です。文体が孝太さんらしくないというか、何か物足りなく感じるんです。もし孝太さんが書いてたら申し訳ないですけど、人に読ませる文学というより、自己満足のための日記のように思いました。」

「遠回しにディスるね(笑)。でも事実だよ、あれは僕の妹が書いたんだ。」

「いや、ディスってはないですよ!でもやっぱり、そうですよね。だけどクライマックスの亡くなったってところからは、孝太さんが書いてるんじゃないですか?」

「いや、全部妹だよ。妹が書いた最後で最後の小説さ。」


やっぱり凛緒にはなれなかった。凛緒の文体に寄せても、やっぱり凛緒が書いたものではないということが分かってしまった。

そして凛緒も、僕にはなれなかった。熱狂的な僕の小説のファンは、僕の小説か否かを容易く判断してしまうらしい。


僕の小説をそこまで見分けられてしまったことは少し嬉しかった。そして同時に、凛緒の文を物足りないと言われたことが悔しかった。たとえ凛緒にとっては自己満足のための日記のようなものだったとしても、それは僕らの永遠の思い出であり、凛緒の強い想いを書き記したものである。だから物足りないどころか、凛緒のすべてが詰まった大切な記憶なんだ。



「そういえば私、彼氏と別れたんですよ。」


帰り際、千里ちゃんが思い出したように口にした。


「髪切ってるからそんな気はしたけど、何で別れちゃったの?」

「すごく簡単なんですけど、私は大学に進学、彼は就職して会える時間が減っちゃって、お互い忙しくて考える時間もなく、自然に別れちゃったって感じです。」

「そっか、それは残念だね。」

「孝太さんは付き合ってる人とかいるんですか?」

「ううん、いないよ。」

「そうなんですね…あの、もし良かったら…」

「…断る。」

「…え?」

「今の千里ちゃんは、あの頃の千里ちゃんとは違う気がする。今でも別れてしまった彼のこと、まだ好きなんでしょ?」

「え…でも…」

「髪を切ったくらいで元彼を忘れられるなら、僕をまるで精神の穴埋めのような扱いはしないはずだから。それに、君は僕の小説をこよなく愛してくれているみたいだけど、僕はもう小説を書かない。だから君にとっての魅力的な僕はもういない。お互い変わってしまったんだ。ただそれだけだよ。」


あの頃と同じような突き放す言い方の影には、あのときは無かった明確な意志があった。大切な凛緒のことを貶す人とは一緒にいたくない。


やっぱり僕は、凛緒のことが大好きだったんだ。凛緒しかいなかったんだ。あの笑顔のために、僕は生きていたんだ。だとしたら、これからの僕は何のために生きれば良い?



大切な凛緒も、千里ちゃんの一途な心も、僕自身の生き方も、全てがどこかに飛んでいった。ありとあらゆる傑作(フィクション)を作り出した結果、僕のもとには目を瞑りたくなるような駄作(ノンフィクション)だけが遺されていた。


─終─

この物語はフィクションです。

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