魔女の独白
「これは?」
壁一面に広がる書架、そこに隙間なく並べられた書籍と書類、ファイルの数々。立派な城から離れた、比較的こじんまりと存在する施設のなかに、その書庫は存在している。バロック様式の建築物は内装も壮麗である。書庫の管理人の女――実質、この施設自体の管理者である――は、この過剰な装飾や、差し込む光を気に入っているわけではない。施設の所有者の趣味が反映されているだけである。
それで、その書庫でファイルの中の書類を確認していた男が、一冊のノートを取り上げて管理人の女に質問している。
「ああ、それは手記――だったと思いますわ」
「――それは海の魔女が?」
男の質問に、女は肯定する。
「海の魔女がここに来て、裁判の前に書いたものですのよ。ですから、魔女の記憶を失う以前のあなたですら知らない情報があるかもしれません」
「……読んでも?」
許可を求める男に、女は一言「構いませんわ」と答えた。
男は慎重にノートの頁をめくる。それは、目の前にいる女への感謝から始まっていた。
『このような手記を遺すことを快諾くださった弁護士さまに感謝の意を示します。
この先に控えている裁判にて、どのような結果が待ち受けようとも甘んじて受け入れる所存であり、どのような結果を迎えたとしても弁護士さまを責めるつもりは一切ありません。
少し、昔の話をします。私は遠い昔に薬師として暮らしていました。私の運命を変えたのは、あのお喋りな彼女との出会いでした。私はずっと彼女に魅せられていたのだと思います。陸での生活をあっさりと手離し、人魚の国で暮らすことにしました。
そこでの生活は穏やかでした。魔術と魔法について造詣を深めたのもこの国に来てからになります。彼女は英雄であり、そして何より王女でしたから、好きな時に会えるわけではありませんでしたが、十分な時間を彼女と過ごすことができました。
それから、彼女の末娘とはよく一緒に過ごしていました。私には夫も子供もいませんし、この国に来た以上それはもう望めませんが、あのお姫様のことは我が子のように大切に思っていました。人懐っこくて、それはそれは可愛かったのです。
お姫様は成長していくに連れて、王女によく似ていきました。十五歳になる頃には、私があの日初めて会った少女の姿が思い出されるほどです。人魚は人間よりも長寿のため、陸で出会ったときには彼女は見た目よりも長い時間を生きており、年齢の意味で言えば厳密には少女ではなかったのですが。
お姫様が陸に行きたいと言ったとき、私はそれを止めるべきでした。私が手を貸さなければ、お姫様はどうにかして陸に行ったかもしれません。人魚の国は概ね治安が良いといえますが、それでもそこが国である以上、陰はあるのです。あの時の私はそれを懸念して、あの判断に至りました。
魔術の準備を進めている時、素材が足りなくなったとお姫様に嘘を言って、私は王女に相談しに行きました。彼女は私の話を聞いてから、暫く沈黙し考え込んでいるようでした。結果的に彼女は了承しました。それに対して驚いたのは私の方です。彼女も陸に行っていますから、何か思い当たることがあったのかもしれませんが。
私は人魚信仰のことを思い出していました。人間が人魚に魅せられるならば、その逆も然りである――そういうものなのかもしれません。
それで、私はお姫様を送り出しました。その後のことは、あのおとぎ話のとおりです。
私はあの結末を知ったとき、何を思ったのか今でも上手く言語化できません。あの時願ったのはお姫様の幸せでしたが、それは酷く利己的な願いだったと今なら理解できます。お姫様がどうか幸せになってほしいと強く願ったのは本当です。でもきっと、本当はそれだけではなかったのかもしれません。
運命を捻じ曲げてから、おとぎ話の後の悲惨な結果を知りました。愚かにも、運命を捻じ曲げてから、様々な者の運命が狂ったことを初めて知ったのです。
王子との結婚を予定していた女性については、その後弁護士さまが気にかけてくださったと聞いています。私の運命の捻じ曲げを検知し、あの世界に赴いた時に偶然出会ったに過ぎないと弁護士さまは仰いましたが、それはきっと救いになったのではないかと、勝手ながらそう思うのです。私の立場からこのようなことを思うのは、大変烏滸がましいことであると理解しているつもりです。
当たり前ですが、運命を捻じ曲げてから私はあの国には居られなくなりました。彼女には別れも告げずにあの国を去りました。合わせる顔などありませんでした。
私はそれからお姫様が転生された世界を巡りました。時間だけはたくさんありました。人魚よりも遥かに長い時間を生きることになりましたから。ただ、お姫様が王子と結ばれる結末にはなかなかたどり着けませんでした。
それで、こうして私は死に至ることができました。結局、お姫様の幸せは王子と結ばれることにあったわけではないようですね。いいえ、良いのです。私よりもずっと、お姫様のほうが物事を理解していたということなのでしょう。
運命の捻じ曲げは毒と薬に似ています。呪いを受けることが毒ならば、抱えている問題が解消されることは薬でしょう。魔女は服毒します。薬が手に入るまで、終わりの見えない孤独に苛まれるのです。
あの日運命を捻じ曲げてから、私はずっと孤独でした。純粋に膨大な時間は人間を狂わせます。他者と異なる時間を生き、誰にも悲しみを共有することができない状況は苦痛だったといえます。でもこれも自身の選択の結果なのです。
私の呪いは解けました。願いが叶えられたことに喜びを感じます。ですが、それでも私は孤独です。孤独を癒す薬は、どうやらそんなもの、初めからなかったようなのです。
今でもずっと私は私のことを分かりません。私の本質的な願いは何だったのか。私はそれを求めるべきだったのか。いいえ、本当は分かっています。分かったうえでそれを望めないことを。
最後に、彼女にメッセージを残したいと思います。それが許されることなのかは判断ができません。許されることを願うばかりです。
ごめんなさい、ティーナ。でも、あなたの娘はきっと正しい幸せにたどり着きました。随分と長い時間がかかり、たくさん遠回りをしたけれど、これで大掛かりな魔術は完了したと思います。
人魚の効能について、あなたが言っていたことを思い出しました。薬となる人魚の身体も、天敵に対しては毒となる。そう言っていましたね。
もしかしたら、私には邪な思いがあったのかもしれません。だから、私の運命の捻じ曲げは薬となることなく終わったのかもしれないと、そう思うのです。
さようなら、ティーナ。あの日言えなかった別れの言葉をここに記します。
本作品をお読みいただいた全ての方にお礼申し上げます。
更新頻度が低く、連載完了までに多くの時間がかかり申し訳なかったです。
ありがとうございました。




