女王と吸血鬼、不思議の国にて
遠い昔のお話です。吸血鬼は確かに存在していて、人間たちは彼らの存在に脅かされながら生きていました。といっても、実のところ吸血鬼にとっても人間の存在は脅威だったのです。
吸血鬼は基本的に死ぬことも老いることもありません。基本的に、というのは例外があるのです。吸血鬼は人間の血を定期的に摂取できる限り、死ぬことも老いることもありません。
そうすると、吸血鬼がいくら人間のふりをしていてもやがては人間ならざる者と正体がバレてしまうわけです。吸血鬼は人間と同じ時間を生きられませんから。
もちろん、血を摂取しなければ人間と同じ時間を歩むことができますが、それは容易いことではなく、生命の危機が迫れば本能が血を求めてしまうわけです。それは種の保存という抗えない枠組みの中にあるといえます。
吸血鬼は不老不死ですが、無敵というわけではありません。それが吸血鬼が人間を恐れる理由の一つです。吸血鬼は肉体の損傷ーー加齢による細胞の劣化を含む――を吸血行為によって治癒します。肉体の損傷が酷く、細胞を再生するために必要な血液量が摂取できなければ、やがて灰になり消えます。これが人間でいうところの死の概念に相当します。
その昔、吸血鬼でありながら高僧であった者は生涯にわたり一度も人間の血を摂取することなく最期を迎えました。驚くべきことに、この者は灰にならず、まるで人間のように死を迎えたと伝えられています。血を摂取しないということは不可能といってよいほど難しいことですので、この言い伝えはほとんど都市伝説であり、その事実を確認できた者はいませんでした。
吸血鬼はある一定の年齢までは人間と同じように成長しますが、その後成長が止まります。人間でいうところの成人という概念に似ています。成長や老化が止まると人間のコミュニティでは生活ができませんので、吸血鬼は基本的に同じ場所でずっと生活することはできないのです。そのため、一族や家族に関わらず、個人として分散して生活することが常でした。吸血鬼の帰属意識が薄い理由はここにあります。
これも生存戦略なのです。個人がひっそりと人間社会に溶け込んでいる限りは、よほどのことがない限り生活は穏やかなものです。実際、人間からしても吸血鬼が本当に存在するのかどうかは疑わしいことでした。それくらい、吸血鬼は上手くやっているといえます。
エリスという吸血鬼は、人間の魔女の世話になっていました。人間も様々で、時には魔術や魔法を扱える能力を備えた人間――いわゆる魔女がいたのです。魔女もまた人間と隔たりがあり、共に暮らすことは難しかったのでした。そういうわけで、意外にも吸血鬼と魔女はよろしくやっていけたのです。
エリスはある日、見かけない兎を見つけました。不思議に思ったエリスはその兎を追いかけてみることにします。
もう何時間兎を追いかけたか分かりません。吸血鬼は痛覚がないので、疲労を感じることもありません。ですから、何も考えずに物事を始めるとこのようなことが起こってしまうのです。
どういうわけか、エリスは見たことのない深い森の中にいました。そこでエリスは少女に出会います。少女はこれから始まる裁判の被告人であり、エリスに証人になってほしいと頼みます。何も見聞きしていないのに証人とはどういうことかとエリスは尋ねましたが、時間がないと言って少女は質問を無視してエリスの手を引きます。エリスに事情はよく分かりませんが、最悪の事態が起きたとしても魔法や吸血鬼の特性でどうにかなるだろうと思い、抵抗はしませんでした。
エリスは庭園に辿り着きました。赤い薔薇が見事な、とても手入れの行き届いたそれは素晴らしい庭園です。その中央には美しい景観に不釣り合いな焼け跡がありました。どうやら茨が焦げて燃え尽きているようです。
気がつくと、少女とエリスはトランプの形をした奇妙な生き物に囲まれていました。魔女の元にいたエリスは、それらがゴーレムのようなもので、主の命令で動いている素材にすぎず、生命体ではないことに気がつきました。取り敢えず、抵抗せずにトランプたちに従うことにします。
少女とエリスは拘束され、立派なお城に連れてこられました。玉座に座っている者は女王のようです。どうやら少女は法廷から逃げ出したようで、それがトランプたちに拘束された理由のようでした。エリスはその巻き添えになったといえます。
少女は大罪人なのだと女王は言います。しかし、少女はそれを認めませんでした。全くもって裁判の体裁を保っていると言いがたい口論が続きます。少女も女王も自らの正当性を主張するばかりで、エリスに証言を依頼した少女さえ、エリスを気に留めません。エリスが暫く二人の会話に耳を傾けていると、少女が魔女だから処刑するのだと女王は主張していることが分かります。対して、少女は魔女だとしても処刑される筋合いはないといった、どうやらそういうことを言いたいらしいのです。
それで、漸くエリスの発言が許されたとき、エリスはただ一言「この者は無罪です」と言いました。予め少女に頼まれていた証言をしたにすぎません。
女王はエリスに尋ねます。
「其方は魔女であるか?」
「ええ、そのとおりですわ」
エリスは肯定しました。なぜならエリスは魔女の元で魔術と魔法を修得した魔女だったのですから。そこに嘘はありません。
エリスの返答に女王はわなわなと怒り出し、ついには少女もエリスも処刑すると言い始めます。
拘束されたままトランプたちに連れられたのは、あの庭園でした。先ほどと異なるのは、美しい景観に不釣り合いな焼け跡だった箇所に、燃え盛る巨大な炎が上がっていることです。やはりエリスは魔術や魔法に精通していますので、その炎がただの炎ではないことは分かりました。
処刑は一人ずつだというので、エリスから凄まじい炎のなかに放り込まれました。放り込まれる前に逃げることは容易にできたのですが、エリスは目の前の特殊な炎に興味がありました。結果として、そうしたことを後悔しました。その身を少し焼かれただけで、本能でこれはいけないと感じ、エリスはさっさと炎から脱出します。致命傷を負ったエリスは、女王の血を頂戴することにします。想定していたよりも炎の威力は凄まじいものでした。おかげでエリスは吸血の加減ができません。
何が起こったか分かりませんでした。通常であれば死に至るであろうに、女王は平然と生きているのです。そして、半狂乱になって叫んでいます。
「なんてことを、嗚呼! なんてことを!! お前は! お前は!! お前は――!!」
女王の血液のおかげですっかり元に戻ったエリスは、悲鳴を上げながら叫ぶ女王を暫く見つめることにしました。
どのくらい吸血すれば人間が死に至るのかエリスは理解しているつもりでした。先ほど頂戴した血液の量を考えれば、女王が生きていられるはずがありません。
周りにいたトランプたちは元の素材に戻っていました。女王を守る兵はいないというわけです。この騒動の間にいつの間にか少女は居なくなっていました。エリスにとってはどうでもよいことです。
女王の精神が落ち着いた頃――これにはなんと丸一日ほどかかりました――エリスは女王から事の顛末を知らされました。
女王の言う魔女というのは、どうもエリスの知っている魔女ではないようなのです。ここでは自らの運命を捻じ曲げた者を魔女と呼んでいるのでした。要するに、エリスが処された――実際には刑の執行が中断されましたが――ことについては冤罪だったのです。
女王は運命の捻じ曲げは大罪だと言います。罪を犯した者は刑罰に処されるべきであり、二度と生まれ変わるべき存在ではないとも言いました。また、これは世界の秩序のためだと言うのです。
それで、皮肉なことに女王は自らの運命を捻じ曲げてしまったのでした。これはほとんどエリスのせいといえます。運命の捻じ曲げとは、死の間際や深い絶望を経験したときなど、肉体や精神が危機に陥り追い詰められたときに生じやすいのだそうです。女王は絶命寸前に「この世に存在する全ての魔女の抹消」を願いました。これはつまるところ、この世に存在する全ての魔女があの業火に焼かれるまで女王はその命を絶つことができないということです。非常に強力な呪いといえます。
女王の法律に則ると女王自身が刑罰を受ける対象となりますが、自身が運命の捻じ曲げを行ったために誰にも――女王ですら――刑を執行できなくなりました。
女王はそれはそれはエリスを責め立てました。先の刑については冤罪でしたが、エリスは女王殺人未遂の罪で咎められることとなります。エリスは罪を償う気は毛頭ありませんでしたが、女王の魔女狩りを手伝うことに同意しました。
ただしエリスは魔女狩りを是としているわけではありません。エリスはあの業火に興味があったのです。
吸血鬼に死の概念はありません。エリスが女王の血を頂戴したように、血液さえ摂取し続ければいくらでも生き続けることができます。吸血鬼の性質は女王の使役していたトランプたちに近いかもしれません。血液の摂取によってもたらされるエネルギーが途切れればそれで終わりです。灰となって消失する、ただそれだけなのです。
永遠の命を手にした魔女の魂と、その魂を焼き尽くすあの業火は、どことなく吸血鬼に近しいものがあるとエリスは思いました。エリスに限らず吸血鬼は生と死の価値をそれほど大事にしていません。でも、人間にとっては、あの業火によって魂が完全に消失することはきっと酷く絶望的なことなのだと推測することはできました。
魂の救済といえば聞こえは良いでしょうか。エリスは魔女を救ってみようと思ったのです。これはほとんど思いつきにすぎず、決して慈悲によるものではありませんでした。そこには純粋な興味と利己的な思惑がありました。吸血鬼は生と死の価値に重きを置きませんので、エリスは常々吸血鬼という自己の存在を疑問に思うところがあったのです。この業火と魂の消滅については、その疑問の答えにならずとも、解決の要因にはなりそうだと期待したのでした。
エリスは魔女の人生を記録し収集することにしました。女王の要求に従うには魔女の呪いを解いてその魂を女王のもとまで連れて行く必要があったので、その記録をおとぎ話として世界に公開しました。記録された内容は魔女裁判で魔女を弁護する材料にもなりましたし、今後消滅した魂を復元するためのバックアップになるでしょう。
こうしてエリスは女王に従いながら、着々と書庫を充実させていきました。女王の目的がいつ果たされるのか、そもそも全ての魔女を消すことなどできるのか疑問ですが、エリスは書庫を管理しながら日々魔女の呪いを解くべく世界を巡っているのです。それはそれは気の遠くなるような年月の間、エリスはそうして生きていました。
最近収集した魔女の記録を編纂し公開されたおとぎ話があります。『人魚姫』と名付けられたおとぎ話です。
それがどのような結末を迎えたのかはまた別のお話です。




