12-07
「優海さん、大丈夫!?」
「怪我したって聞いたけどもういいの!?」
うん、ありがとう。もう大丈夫だよ。
夕美は爽やかな笑顔で、同級生の心配する声に応じる。
氷堂雪姫の起こした水族館凍結事件の後、夕美たちは駆けつけた救助隊によって保護されることとなった。何ということはない、音子と麗が助けを求めたのである。
世良は氷堂雪姫とともに消え、エリスもいつの間にか姿を消し、風紀委員の二人も早々にどこかに行ってしまった。
氷堂雪姫による異常気象と凍結は災害認定され、夕美は災害による事故で負傷した扱いとなり、軽傷ではあるが三日ほど入院することとなった。
ただ、この水族館の事故はかなり速いスピードで風化していった、ように思う。それはどうやら、この学校の風紀委員長の能力――過去に猫山邸で究極の『鈍感』と聞いたが――によるものらしい。しかし、世良の能力でさえ多少なり制限があるにもかかわらず、このような世間を巻き込む騒ぎを抑えられるものなのだろうか。能力の適用範囲が広すぎるような気もする。
後に、その疑問についてゆのとまゆに尋ねると「そうかしら? そもそもこの超情報化社会においては、どんなニュースも騒がれるのは最初だけ。メディア露出が減って、話題にする人々が減って……ただそれだけの話よ。ほら、昔から言うじゃない。『人の噂も七十五日』って」との回答を得た。つまるところ、全範囲に能力を適用する必要はなく、情報が過度にアウトプットされる小規模なクラスターに能力を適用すれば、後は自然の流れに沿って事は落ち着く……ということなのだろう。
入院している間に、吸血鬼事件のニュースを知った。あの水族館の事件の夜に、身元不明の女が亡くなっているらしい。そういえば、以前にゆのとまゆはこの事件は愉快犯の犯行ではないと断定していた。確かあの後、何か言いかけていたような気もするが、結局うやむやになってしまった。
魔女とその子らの不可思議な能力を嫌と言うほど知った身からすれば、確かに吸血鬼事件は愉快犯ではなく、魔女に関わる特殊な者たちによる犯行なのかもしれない。だからといって、この事件を今すぐどうこうしようという気概は夕美にはなかった。
病院を退院した後、夕美は自宅療養期間を設けた。その時に、音子と麗が自宅を訪問してくれた。
そこで初めて夕美はエリスの話、綺羅桜の話、そして前世で自身が身を滅ぼした後に起こったことの話を聞くことになる。
「お姉さんのことはその――」
夕美は切り出したものの、その後に続ける言葉を見つけられず、やがてはごめんと一言謝る他なかった。麗は無言で首を振る。もういいのよ、と麗は静かに口を開いた。
「私、お姉さんが――綺羅桜という人間が本当に存在していたことが分かって、それが何よりも嬉しいの。まだ整理はできていないけれど、姉の真実を知ることができて、それから氷堂さん――彼女に会うこともできて、それできっとよかったのだわ」
ふふといつも通り穏やかに微笑む麗に夕美は心が洗われる思いだった。
夕美が麗に初めて出会ったとき、笑顔の素敵なおっとりした少女だと感じていた。今もその印象は変わらないが、彼女は自分よりもずっと強く賢くて、そうして底なしに優しい、まるで春風のような人なのだと感じている。麗ならきっと大丈夫――そんなふうに夕美は安心することができた。
それから、夕美は世良のことを思い出した。音子の話によれば、それはつまり、世良はただ一人あの世界に残された当事者ということになる。世良――セイラが王子と、突然現れた足と声の不自由な少女をどのように思っていたのかは分からない。しかし、彼女がどのような感情を持っていたとしても、事の顛末が彼女にとって最悪なものであったことに変わりはないだろう。
あの日の薬売りのマリーの言葉が思い起こされる。
――魔術は都合の良い魔法ではないのです。対価を支払い、時には代償が伴う危険なもの――。
あの意味を、ユーミリアは理解していなかった。払いきれない代償、自身が招いた顛末の責任――自身で負い切ることができなかったそれらは、容赦なく他人が肩代わりすることになる。いや、実際にそうなったではないか。それが、王子とセイラ、マリー――様々な者の運命を変えてしまったのだから。
世良は復讐に興味はないと言っていた。しかし、決して許されることがないのは夕美も、そして音子も理解している。前世の結末の受け止め方と償い方には、もう少し時間が必要だった。それから、できることならば、マリー――魅魔真凛とも、もう一度会って話がしたいと思う。
さて、自宅療養もあり数日ぶりに学校に戻ると、最初こそ冒頭のように同級生に心配されたものの、それも午後にはすっかり落ち着いた。急に戻ってきた日常に夕美は不思議な感覚だった。
「まるで嘘みたいね」
授業も終わって放課後になり、同級生たちが皆教室から出ていったにも関わらず、席も立たずにぼんやりと外の景色を眺める夕美に、隣の席の音子は声をかけた。
夕美は音子のほうに振り向くと、「うん、本当に」と同調した。十二月中旬を過ぎると、十六時には既に空は暗い。しかし、日中は随分と晴れていた。あの事件の日から晴れ続きである。
「あなたがまた学校に戻れて……その、よかったと思うの」
音子はほんのりと頬を染めて、少し言いにくそうにそう言った。
「私もそう思うよ。猫山さんと綺羅さんがあの場に駆けつけてくれたとき、冷静になってみると嬉しさと心配が半々だった――でも、あの氷柱が迫ってきた時。あの時、君が助けてくれたんだよね。私、久しぶりに――王子様のことを思い出した気がしたんだ」
音子はその時のことを思い出した。あれは前世の記憶を取り戻したがゆえの行動だったかと言われると悩ましい。確かに、自身の能力が使えることは自信であったし、それが自身の行動を後押ししたとはいえる。けれど、あの時記憶が蘇っていなくたって、能力が使えなくたって、音子はきっと夕美を助けに向かったはずである。少し前の音子には考えられない勇気と行動力だ。そのきっかけを作ったのは夕美であり、それから同級生たちや風紀委員の二人、麗――いろいろな出会いと経験が音子を変えたということなのだろう。
音子――ルオトは自身の最期を迎える時、自らの記憶を封じた。そうして、もしもこの先生まれ変わることがあるならば、もう誰も傷つけたくない、誰とも関わりたくない、孤独で居れば誰も傷つけない――そう強く願ったのである。
ふふ、と音子は不意に微笑んだ。
「記憶の海の底にいた私を、光の届く世界に引き上げてくれたのはあなただったのよ。おかしいわよね、あなたは人魚で、私は陸にいたのに――」
放課後の、薄暗い教室。外はやっぱり寒くて、風の音が聴こえる。
夕美は言葉に表せぬ感情を抱いていた。それから、この世界で音子に初めて会った時、この世界で音子を見つけるまでに持っていた執着のような暗い感情が、いつの頃からかすっかりと消失していたことに今さら気がついた。
夕美にとって音子は音子である。夕美にとって大事なのは他の誰でもない――かつて恋焦がれた王子様ではない――目の前の少女、音子なのだ。
夕美は今生きている世界、自分を取り巻く世界、身の回りの人々とほんのささやかな幸福こそ大切にすべきなのだと悟った。きっと、ずっとそうだったのである。
「ありがとう猫山さん。随分遠回りしたけれど、おかげで見失っていた――見ようとすらしなかった、大事なものが何か分かったような気がするよ」
音子はふっと息を吐くように笑う。そして、同感だわと呟いた。夕美はじっと音子を見つめて暫く沈黙した後、瞬きをするといつもの調子で声をかけた。
「帰ろうか。明日も授業があるからね」
夕美が椅子を引いて立ち上がると、静まり返った教室にその音が響いた。続いて音子も立ち上がり、二人は教室を去っていく。
さようなら、人魚姫の物語――どうか全ての役者が幸福でありますように。




