12-03
迫りくる氷柱、その刹那。
現れた人影に夕美は過去の彼の姿を重ねていた。
「猫山さん――」
夕美が名を呼ぶと音子は向きを変えて夕美に駆け寄る。
「嗚呼、間に合ってよかった――私、心からそう思うわ」
泣きそうな顔で音子は微笑んでいた。実際、音子の心情はめちゃくちゃであった。夕美を目にした時、ほんの少し前に取り戻した記憶と、現在の記憶、それから複雑な心情が押し寄せ、それらは混沌のなかに独立して散り散りとなり、整理することが叶わなかった。これらを整えるには長い時間が必要だろう。
しかし、それはきっと今ではない。
――音子ちゃんもゆーみんも、特別な何かがあるでしょう。
猫山邸でゆのが切り出した話だ。まだ魔女について知らなかった頃、ゆのとまゆから『所有者』の話を聞いた。
記憶とともに失っていた自身の能力を、音子は思い出したのである。というよりも――。
「私が記憶を失ったのは、私自身の能力で自分の能力と記憶を封じたからよ」
音子の能力は、能力そのものの無効化だった。それはどうやら魔女に対しても有効のようである。雪姫はその場に立ち尽くしていた。
「一先ず時間はできたわね」
音子を連れてきたゆのが雪姫を遠目に安堵している。少し息切れしているようで、話していない間も白い息が漏れている。
それから、まゆもいつの間にか合流していた。音子との再会に喜んだのも束の間、夕美は改めて三人に状況を説明する。雪姫は山上智恵、藤ヶ崎それぞれと契約を交わしたこと、山上智恵が契約を継続する必要がなくなったこと、雪姫が魔女になった動機や契約が守られなければならない理由が分からないこと――。
「いずれにせよ、もう終わりよ。雪姫だって、本当はこんなこと望んでない。あんたたちの能力で雪姫を封じ続けることができるなら……雪姫はもう、それでも構わないわ」
能力を封じられた雪姫は、自身の置かれた状況を理解したらしい。自嘲的な笑みを浮かべながら、雪姫は夕美たちにそう言った。
「私、氷堂さんのこと分かった気がするわ」
不意に、しんとした場に穏やかな声が響いた。カツンカツンとヒールが地面を叩く音、その向こうから人影が雪姫の前に現れる。
「少しお行儀が悪かったかしらあ……優海さんの話を聴いていたの」
麗は微笑しながらそう言うと、雪姫の瞳をじっと見つめる。そうして真剣な面持ちで静かに、諭すように語りかけた。
「氷堂さん、あなたは最初からずっと――何も願ってはいないのでしょう」
雪姫の瞳孔が開き、彼女は何か言葉を発しようとするも麗はそれを見なかったことにした。
「きっと私のお姉さんと同じなのだわ。他者から呪を受けて――」
「一つ、確認したいことがあるわ」
雪姫は鋭い眼差しを麗に向ける。
「あなたの姉は今どうなって?」
「……それは」
麗は言葉に詰まってしまう。先ほどエリスから聞いた話をそのまま伝えればよいだろう。しかし、それが簡単にできるほどに麗は姉の件を綺麗に処理できていなかった。
「わたくしが回答しましょう。彼女の姉は転生した術者を始末して既に呪いから解放されておりますわ」
エリスが無表情に淡々と述べると、雪姫はふっと笑った。その後、乾いた笑いとともに、目尻から涙が零れ落ちる。
「嗚呼だめね。やっぱりそうなのよ。雪姫は正しかった」
一人で笑い続けるその様は、異様な空気を生み出していた。一通りの独り言と独り笑いが収まると、雪姫は自らの指先で涙を拭い顔を上げる。
「雪姫を呪った者を、雪姫が殺すことはできないのよ。神は殺せない――」
暗い瞳で雪姫は遠くを見つめる。
一連の様子を見守っていた夕美は、おおよその顛末が分かったような気がした。
雪姫は神に呪われ魔女となり、魔女の呪いを解くために、山上智恵や藤ヶ崎と約束――契約をした。その者の望む何かを与える代わりに雪姫の秘密を守ってもらう。『雪女』の物語によれば、それが守られなかった場合、その者は命や大事なものを失う。約束が守られたなら――きっと魔女の呪いが解けるのだろう。
「一つ尋ねたいことがあるんだけど……いいかな」
夕美が雪姫に問いかけても、雪姫は無反応である。夕美は構わずに続ける。
「交わした約束が守られることで君の呪いは解けると解釈しているけれど……それはどう判断している? 『雪女』の物語では、君が裏切られたのは偶発的だったように思ったのだけれど」
ああ……と興味なさそうに雪姫は応じた。もしかしたら、あの物語のこと、元夫のことなどを思い出したのかもしれない。
「いろいろな方法で試すのよ。数年の時を経て姿を変えて。それとなく話題に上がるように誘導すると大抵の人間は簡単に秘密を洩らすの。あの『おとぎ話』みたいにね」
雪姫にかけられた呪いは複雑なようで、契約した人間が契約そのものや秘密を忘れてしまっても解除できないものらしい。だから、雪姫が自ら試しに行くのだという。
「なるほど……ありがとう、よく分かったよ」
夕美は礼を述べると瞼を閉じて暫しの間考える。これまで起きてきたこと、見てきたこと、知ったこと――それから、まだ言っていないこと。
夕美はすうと息を吸い、畏まって氷堂さんと名前を呼んだ。
「藤ヶ崎さんは何も答えなかったよ。山上智恵の報道のことも、君が病室を訪れたことも、そして君の存在そのものも――その一切を、私たちに教えてはくれなかったんだ」
言い方を変えよう、そう言って夕美は雪姫を見つめる。深い海のような澄んだ碧緑色の瞳が雪姫を捉える。
「藤ヶ崎さんは確かに約束を守り抜いたんだ」
その瞬間だった。そこかしこでピシ……ピシ……とひびの入る音が聴こえてきたと認識した頃には、空気中の霧と雪が蒸発し、氷柱や氷が砕け始めた。
その瞬間というのは、夕美の発言によって、雪姫が藤ヶ崎との契約の完了を自覚した時点を示す。呪いとは自己を縛るものであり、その自縛を解くのもまた自己なのである。そういうものなのだろう、とエリスは魔女の様子を見つめながら一人納得していた。




