11-05
深夜、入院棟の一室にて。
異常な寒さに目を覚ました藤ヶ崎は、ナースコールに手を伸ばそうと、随分と自由が利かなくなった上半身を起こす。窓際のベッドだったこともあり、藤ヶ崎はすぐに異変に気がついた。窓に蔓延る霜、それから硝子一枚隔てた向こうにいる人影――普通ならば悲鳴を上げるところである。
しかしながら、藤ヶ崎はどこかでこんな日が来ることを予感していた。半世紀以上も前の記憶である。しかし、藤ヶ崎は一度たりとも、あの雪の日を、そして彼女を忘れたことなかった。
「ゆきちゃん」
藤ヶ崎は思わずその名を口にしていた。気持ちは焦るが、身体が追いつかない。まずはベッドサイドに向きを変え、足をやっと降ろし、形の崩れたスリッパに足を通して、膝に力を入れると、どうにかやっと立ち上がる。もちろん、ベッドのサイドレールに掴まって。
それで、足を引き摺りながら、ゆっくり、ゆっくりと窓に近づき、窓の鍵に手を伸ばす。金属でできた鍵は恐ろしく冷たかった。ナイトグローブ越しでも感じ取れるほどに。それに、窓の外からの冷気が充満していて、身体の芯から凍えるような、とてつもない寒さだった。
藤ヶ崎が鍵を開けて手を離した途端に、窓の外の人影は氷柱を使って窓をこじ開けた。心肺停止になるんじゃないかと思う暇もなく、藤ヶ崎が気がついた頃には室内は冷気と吹雪にさらされていた。藤ヶ崎はベッドのフットボードに掴まって、どうにか倒れないようにするのがやっとだった。
「あんたも雪姫のこと裏切るんでしょう!!」
長い髪を振り乱しながら怒号を浴びせる女は、とても正常ではなかった。およそ、衰え、今にも意識を無くしそうな老人に対する態度ではない。昔に比べて耳が遠くなった藤ヶ崎ですら、鼓膜が震えるほどの驚くような怒号で、何が起こっているのか理解できなかった。
「もう時間がないのよ! それなのに、あの女はきっと裏切る!!」
パキパキ……と辺りが凍っていく音が聞こえる。
訳が分からないが、ともかく目の前の女と話がしたい。藤ヶ崎がそう思うも、老体の藤ヶ崎にこの状況は酷だった。
いやしかし、本当にそれは老いのせいなのだろうか。このような危険な状況にもかかわらず、ふと藤ヶ崎は疑問を感じる。これまで、一度だって、彼女に追いつけたことが――手を伸ばしたことがあっただろうか。
もう先は長くない。彼女に会うことも、これを逃したらきっと最後になる。彼女が自身のもとを去って、ずっと引っ掛かっていたことを、もしもそれを今から取り戻せるのならば――。
「ゆきちゃん」
藤ヶ崎は両手で掴まっていたフットボードから、右手を離して、彼女へと伸ばす。彼女から発せられる冷たい強風、それから加齢で下がってしまった重い瞼では、彼女を正確に捉えることができなかった。微かに見える彼女に向けて必死で手を伸ばすも、彼女がどんどん遠ざかっていくような感覚に見舞われる。その手は何も掴めない。
藤ヶ崎の声は彼女に届くことはなかった。それどころか、自制の効かない彼女が無茶苦茶に発動させている能力が藤ヶ崎にも襲いかかる。迫りくる氷柱を目前にしても、藤ヶ崎は彼女から決して目を逸らさなかった。
藤ヶ崎は、自身の身体が急に軽くなった、そんな感覚を得た――それも一瞬の間に、自身がベッドの上に横たわっていることに気がつく。それとともに、嗅覚は潮の香りを捉えていた。
厚い雲の隙間から溢れる月光が、白衣を照らす。彼女の前に立っていたのは、赤毛の看護師だった。一週間ほど前から入院している藤ヶ崎が一度も見かけたことのない看護師である。昨今の服務規程の事情などは分からないが、少なくとも赤毛の看護師ならば、一度見かけただけで覚えていてもよさそうだ。
何が起きたのか、藤ヶ崎には分からなかった。一方、彼女の暴走はまだ続いているようで。
吹雪とともに、大小様々な氷柱が看護師に向かってくる。しかし、看護師は避けることなく、それらを波で呑み込んだ。空中から突如生まれた大量の水が、氷柱と吹雪を制したのである。彼女のように、この看護師もまた特殊な能力があるらしい。
「落ち着きなさい。何もかもを諦める前に」
自身の能力が制圧されたことに呆気を取られた彼女は看護師の呼びかけに応じる他なかった。
「……海の魔女がどうして」
質問には答えず、看護師は病室を巡回し、入院患者の安否を確認していた。そして、三人の患者を確認後、最後に藤ヶ崎の元を訪れる。
「失礼」
そう言うなり、看護師は藤ヶ崎の顎を掴んで容赦なく口を開かせると、小さな小瓶に入った液体を数滴、その舌先へと落とした。極少量の液体ゆえに咽ることはなかったが、藤ヶ崎は驚きで体が硬直する。一体何が起きているのやら。
「塩は氷を早く溶かすのだけれど、融解熱で気温が下がってしまうのよ。そうでなくとも、こんな異常気象、並の人間――ましてや、入院患者が耐えられるはずがないわ」
目の前の看護師が一体何の説明をしているのかまるで分からないが、暫くして、藤ヶ崎は自身の異変に気がつく。あれほど凍えていた自身の体が温かさを取り戻している。指先に血が巡り、皮膚の感覚が戻って来る。
どうやら、この看護師の先程の怪しげな液体の効果らしい。何とも信じがたいが、先程から続く異常事態に今更疑問を感じることもない。きっと、病室の他の患者も大丈夫なのだろう。藤ヶ崎は少しほっとした。
「ゆきちゃん」
再び、藤ヶ崎は彼女の名を呼んだ。彼女は神妙な顔つきでただ口を閉ざすばかりである。
「……山上友恵が、結婚するのよ」
そう呟くなり、彼女はぽつりぽつりと、話を始めた。まるで自分に言い聞かせるかのような、独り言のように。
――きっと、友恵は芸能界を引退するわ。そうしたら、ゆきとの約束は、もう何の意味も成さないの。だって、友恵の芸能界での成功の代わりに全てを見なかったことにさせたのよ。皆、そうよ。自分の人生に満足したら、望みを叶えたら、欲しいものを手に入れたら……途端に、忘れてしまうのよ。まるで、それが最初から約束でも何でもなかったかのように、良い思い出の一部みたいに語って……ピントのぼけた、過ぎ去りし日々はきっと美しいのね。そこには呪いがあるのに――。
「愚かね」
月明かりと逆光でよく見えないが、彼女は酷く恐ろしい顔でそう断言した。その様こそ、彼女の本質だった。
藤ヶ崎は彼女の話を真摯に聴いていた。そうして、山上友恵もまた自身と同様に、彼女と約束を交わした人間であることを悟った。ただ、その約束が破られそうであることが彼女の怒りと嘆きの要因となっていることや、約束が守られないことが何を意味するのか――そこまでの理解には及んでいなかった。
「ゆきちゃん、ありがとう」
藤ヶ崎が唐突に礼を述べると、ゆきはむっとした表情を見せた。先程の恐ろしさはそこにはない。
「会いたかった、ずっと。ゆきちゃんは、私なんかの手の届かないところにずっといたから――」
「あんたは相変わらずね」
藤ヶ崎の言葉を遮った彼女は、顔を歪めて微笑んでいるように見えた。呆れているような、安堵のような、ふっと吐き出された微笑みは、古い記憶の中の彼女と重なった。それは決して見下しているわけではないことを、藤ヶ崎は確かに覚えていた。




