11-01
「おや、珍しいね」
baccarat のワイングラス――持ち手部分の拘られた細工や丸みを帯びたフォルムが持ち主の形の良い手に良く馴染んだ――を片手に、革張りのソファに腰掛ける女に、男は声をかけた。
女は、暗い部屋で一人、大きなスクリーンモニタのブルーライトを浴びていた。座り心地の良さそうなソファに身を委ねることもなく、浅く腰掛けて前のめりでスクリーンを見つめる。少し、異様な景色である。
女は手持ちのグラスを、目の前の硝子のローテーブルに静かに置く。僅かに硝子と硝子がぶつかる音が響くが、些細なことである。
「『雪女』だったか。君が有名女優になるきっかけになった――舞台の DVD があったんだね」
そう言いながら、男は自然な動作で女の隣に座る。スクリーンモニタに映るのは、今男の隣にいる女の若かりし日の姿だった。へえ、と男は感嘆する。
女は無言でスクリーンモニタを見つめたまま、静かに口を開く。
「雪女はね、恐ろしいのよ」
「舞台の上の君は美しいけどね」
少し間をおいて、噛み合わない会話に女はそうね、と同意した。女は隣の男にほとんど興味を示していない。
「雪女はただの妖怪として定義するのは難しいわ。平気で人を殺す残忍さ、美しい容姿、母性、人情――様々な要素が雪女を雪女たらしめる」
「……それは君の役作りの話?」
「そう思ってちょうだい」
女は再びテーブルに置かれたグラスに手を付ける。
「彼女は最後まで救われないのよ。自らの子とも別れ、ずっと一人で存在し続ける――」
ふむ、と男はスクリーンモニタに目を向けた。
雪女の最後は、約束を破り秘密を洩らした夫との別れである。本来ならば夫は殺されるはずだったが、子供への情から、自らが消えることで幕を閉じる。あるいは、自らが消えることこそが、夫への罰になると考えたのかもしれない。
しかし、そもそも雪女がなぜ人間の命を奪い、また、約束を違えた夫に罰を与えなければならなかったのかは語られない。そういう怪異だと言われればそれまでであるが。
それはそれとして、めでたくハッピーエンドでは物語としてつまらないか、とも男は思い直す。
「『この世は全て舞台。男も女もみな役者に過ぎぬ』」
シェークスピアね、と女は反応した。相変わらず、男の方へと顔を向けることはしなかったが。男は頷く。
「君の演じた雪女は、あくまで創作で、舞台の上の話だよ」
でも、と男は否定する。
「もしも雪女のような――そう、彼女が存在するのだとしたら。幕が変われば救いもあるはず」
僕はそう思うよ、とモニタに映る女を見つめたまま男は言った。
シェークスピアは、人生は年齢に応じて七つに分けられると定義した。それは、人間とは異なる時間を生きる雪女にも当てはまるのだろうか。第一幕の誕生から、彼女は今何幕を生きて、どのような役を担っているのだろう。他の役者の介入があれば、彼女が救われる幕もあるのかもしれない。
ふふ、と女は静かに笑った。
「私、あなたとの結婚、それから引退を選択してよかったと思うわ」
男はモニタから目を離し、不思議そうに隣の女を見つめる。
「そうよね。女優という役を担うことは終わった……ただ、それだけのことよね」
この選択は彼女に影響を与えただろうか。何も、彼女を救うためには、平穏だけが効果的なわけではないのだ。
――私は女優。だから、何者にも、悪役にだってなれる。私が与えた綻びから、全てを壊し、そして再構築をする役目は他の誰かでも構わない。この時代に、それを担う誰かがいるはずよ。




