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独と薬  作者: R.藤間
転校生
7/84

1-06

 いつも通りの帰り道だ。

 先日、風紀委員の二人に忠告を受けてからというものの、夕美は律儀に下校時間を厳守している。我ながら聞き分けが良いなあ、なんて思いながら。それでも、彼女たちが自分をからかっているのであれば、些細な校則をわざわざ違反して揉めるよりもずっと割が良いと思わずにはいられない。

 厄介そうな風紀委員よりも、夕美が気になるのは音子のことである。音子は授業が終わるといつも足早に帰宅をしてしまう。話しかけたくとも、彼女はなかなか夕美に心を開くことはなかった。

 夕美が音子を特別視していることは明らかだが、実のところ夕美は音子のことをよく知っているということはない。むしろ、ほとんど何も知らないというのが事実である。

 この町に音子が越してきたのは中学生の頃らしい、ということは分かった。その情報も音子本人から聞いたものではない。音子と中学校が同じだったという同級生から聞いたものだ。音子がどこに住んでいるのかさえ、夕美は知らない。

 一緒に帰ろうと幾度と誘えど、音子が首を縦に振った試しはない。それでも、彼女が駄目だと言えば、夕美は笑って残念だと言う他無いのだ。

 音子のことを何も知らない夕美が彼女に執着――執着という表現を夕美は未だに自身で肯定できていない――していることには、ちょっとした由縁がある。

 夕美にはかつて想いを寄せていた男がいた。いや、それは今でも変わらない。彼は夕美にとってかけがえのない存在だったのである。

 音子はその彼と繋がりのある、やっと見つけた唯一なのである。

 夕美と彼とのそれは、きっとプラトニックな愛であったと断言できよう。それ故か、はたまた別の要因か、今となっては分からないが、夕美と彼が結ばれることはなかった。それが事実だ。

 運命というものは、事をそう上手く運んではくれない。夕美にとっては障害であったとしても、客観的に見たそれは異なり、また、それを理解していた夕美にとっても障害と呼ぶことには相応しくないと思っていた。

 夕美は、運命を分け隔てる決定的な日に、逃げるという選択をしてしまったのだ。それはもう、全てを放り投げて。

 夕美が消えることで彼は幸せになれるのだと夕美は信じていた。信じなければならなかった。しかしながら、それは表面的なセオリーにすぎず、夕美はきちんと理解していたのだ。それで彼が幸せになることなど無いのだと。

 彼に残酷な呪いをかけたのは、他でもないハッピーエンドを望んだ自分である。だからといって、当時の自分に成す術はそれしか無かった。夕美は今でもそうやって歪んだ正論を飲み込み続けるしかない。

 もしも自分が今も同じ立場であるのなら、同じ過ちを繰り返すかもしれないくらいに、それはどうしようもないことだったと。でも、だから、いや、叶うならば。どうにか成りたかった。どうにかなるために、もう一度やり直す。

 そのために、彼のために、夕美はきっと音子と親しくなる。それはもう、必然としか捉えたくはない。

 そんな古い記憶を思い出しながら夕美は学校から自宅へ向かって歩みを進めていた。空が陰ってきた。雨でも降ってくれたら、少しは涼しくなるのかもしれない。

 人通りの無い、少し暗い通り道だった。こういうところに、例の吸血鬼とやらは現れるのだろうか、とぼんやりと風紀委員の二人を思い出していた。まゆは校則は形骸化していると言っていたが、その通りだ。校門を跨いでしまえば、校則は守られる。いくらダラダラと歩みを進めようが、下校時刻はクリアーしているのだから。

 我ながらの言葉遊びに夕美はふふと一人笑ってしまった。

「楽しそうね」

 不意に向かい側に、夕焼け色の長い髪をおさげにした女性が立っていた。完全に油断していたものだから、夕美は咄嗟に後退りしてしまう。

 彼女は黒の帽子を深く被っているため、素顔は分からない。黒のブラウスに黒いリボンタイ、黒のハイウエストのスラックスに黒いロングブーツ。おおよそ、暑さの残る九月の服装とは思えない。燃えるような髪の朱が異様に映えていて不気味だ。その様子は正しく――。頭に過った風紀委員の二人に、今度は笑う余裕などない。

 一呼吸して、状況を確かめる。緊張感は拭えず、自然と体が身に覚えのない構えをとる。相手は余裕を見せているが、もしかしたら襲いかかってくるかもしれない。そんな恐怖に自然と体は防御反応を見せたのだ。

「優海夕美。警戒しなくていいわ」

 そうは言われても、見知らぬ不審者の言葉を鵜呑みにするわけにはいかない。いや、それよりもどうして自分の名を知っているのだろうか。底知れぬ得たいのしれなさに余計に緊張は高まってしまう。

 夕美の様子を見かねて、彼女は被っていた帽子を片手で軽く持ち上げる。視線が合う。

 燃えるような紅い瞳。

 それで、夕美は途端に理解した。肩の力が抜けていく。おそらく間抜けな顔をしているだろう。しかし、忘れるはずもない。今目の前にいる彼女は――。 

魅魔真凛(みままりん)。この町での私の名前よ」

 魅魔と名乗る女に、夕美は覚えがあった。しかし、彼女はここにいるはずのない人間のはずである。怪しいと疑うべきところを夕美が本人と信じられた事由は、言ってしまえば感覚にすぎなかった。彼女に流れる気の流れが僅かに異質であることを感じ取れる。それは夕美自身もまた異質な存在だからこそ認識できるものだ。

 彼女に聞きたいことは山ほどあった。質問攻めにしたいくらいには。

 それでも彼女が()()()での名前を口にするのだから、そこには夕美に計り知れない事情があるのだろうと察し、深く追求してはならない気がした。彼女も夕美の気遣いを悟ってか、淡々としている。

「猫山音子について知りたい?」

 目の前の彼女が何者であるか、夕美は理解しているつもりだ。だから、見知らぬ人から他人の情報を得るわけではないのであろう。いや、しかし。彼女と猫山さんに接点がなければ、それもまた無意味であり。

 彼女は夕美の欲しい情報を持っているのであろう。何てことはない、素直に頷いてしまえば良いではないか。

 夕美は音子が何者でどこに住んでいてどんな生活をしているのか。その全てを何も知らない。いや、夕美だけではない。同級生すら誰も知らないはずなのだ。だから、夕美は音子のことを知らない大多数の中の一人にすぎない。今ここで、音子を知ることができたら夕美は特別になれるだろうか。

 いずれにせよ、音子の性格だ。夕美がいきなり音子の身の上を知っていたところで、大して驚きもしないだろう。幻滅することも、特別な感情を抱くこともない。今までと何ら変わらない。

 だとすれば、後は夕美の問題である。結局、夕美は目の前のそれを断ることにする。そんなに深く思考せずとも、分かりきったことではないか。

「だって、フェアじゃないでしょう」

 そう伝えると、彼女は「そうね」と一言だけ返事をした。きっと、夕美が断ることは想定の範囲内だったのだろう。その証拠に、彼女はどこか自嘲気味に笑っていた。

 彼女はどこか悲しそうに夕美を見ていた。その理由を夕美は知ることはない。しかし、こんなところで出会うくらいだ。そこには夕美の想像できない何か複雑な事情があるのだろう。何も知らない夕美がそこに同情するのも違う気がした。

「きっとまた、あなたや猫山音子には会うことになるでしょう。その時には、あなた方が……いいえ、何でもないの。それじゃあ、失礼」

 ぼそぼそと何かを言い残して彼女は呆気なく去っていった。去り際に、ごめんなさいと小さく呟かれた声が、夕美の耳に厭に響いた。

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