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「さて、わたくしのお話はお終いですわ」
エリスはやはり無表情のまま、話を終わらせようとしている。音子も麗も、落ち着きを取り戻してはいたが、混乱していないと言えば、それは事実ではない。
しかし、麗は深呼吸して整理をすることにした。自分たちは水族館の火災――エリスの話によれば、屋上にいる魔女による災害――によって、館内に取り残されてしまった。元々は館内から脱出しようとしていたのである。
引き続き脱出を試みるならば、どこからともなく現れたエリスがこの場を立ち去ることを、止めたほうがいいのではないか。
「猫山さん……」
音子に相談しようと、麗が声をかけるも、音子がエリスに尋ねるタイミングと重なってしまう。
「私、屋上に行くわ。どうにかここから進めないかしら」
あ、ごめんなさい。そう言って、音子は麗の方を向く。謝罪は麗に向けたものらしい。
「綺羅さんは……」
「そうねえ。大丈夫よう。私も一緒に行くわ」
当初の目的とは異なるが、エリスの話によれば、夕美は屋上で魔女と対峙しているようであるから、音子が屋上に進むことを決断するのは麗の想定内である。麗自身に特別な能力がないため手伝えることはないかもしれないが、姉も当事者であった魔女とその子らを理解したいと思った。
「ええ、構いませんわ。ただ、屋上に繋がる扉近辺の氷を溶かすのに、少し時間がかかりますわね」
ありがとうございます、と音子は礼を述べる。最初に感じたエリスへの恐怖はかなり薄らいでいた。相変わらず感情の読めない無表情であるが、エリスとの会話のなかで、少なくとも何の理由もなく危害を与えるような人間でないことは理解できた。理解さえできれば、自ずと恐怖は退いてゆく。
そういえば、エリスは何者なのだろう。ふと音子は疑問に思う。古典的な魔女と自らを称しており、また自身も魔女の子であること、様々な者の前世をまるで見てきたかのように語ること以外、彼女の素性は何もわからないままだ。それから、音子に用事があると言っていたが、その用事とは何だったのか。
気になった音子は、断りを入れたうえで、思い切って質問してみることにした。
「あなたの用事は終わったのかしら。私に話があると……そう仰っていたものだから」
ええ、もちろん。エリスは即答した。音子は続く言葉を待ったが、どうやらそういったものはないらしい。尋ねれば、答えてくれるだろうか。音子は意を決して詳細を尋ねてみることにする。
エリスは暫くの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「わたくしには、役割がありますの。そのために、ルオト・カルヴァイネン――あなたに記憶を取り戻してもらう必要がありましたわ」
記憶……と音子は呟く。そこで、音子は思い出す。エリスが魔女の説明をした時、世良について、エリスは彼に手伝いをしてもらっていると述べていた。いつかの放課後に世良に会った時、世良は音子の記憶の回復を望んでいると言っていた。つまり、学芸会の乱入も含めて、世良の音子への接触はエリスの指令によるものだったと推測される。
「私が前世を思い出すことが、何に影響するというの」
世良からも回答を得られなかった疑問。エリスなら答えられるかもしれない、そう思ったら、そのまま口から言葉が漏れていた。咄嗟に音子は両手で口元を覆う。エリスは、いともたやすく、当然のようにそれに答えた。
「魔女ですわ」
エリスは静かに続ける。
「ユーミリア・シードルフ、それからルオト・カルヴァイネン。あなた方は、他者の人生に影響を与えました。それは世良――いえ、セイラ・クレティエもその一人。ですが、特筆すべきは海の魔女――彼女の運命を大きくねじ曲げました」
運命の、ねじ曲げ。それはつまり。
雪姫によって氷漬けにされた極寒の館内で、音子は自身の額から冷や汗が垂れるのを感じた。同時に、動悸も。
「人間は、責任の追求がお好きなようですわね。確かに、あなた方の選択と行動が彼女の運命をねじ曲げる要因の一端を担ったと言えますが、最終的に決定を下したのは彼女なのですから――回り始めた歯車は止められませんのよ」
ですが、とエリスは否定する。
「わたくしは、その運命をあるべき形に戻さねばなりません。ですから」
あなたの記憶の回復が必要でしたのよ。
エリスの暗い瞳がじっと音子を捉える。意志でも圧でもない、底の知れない暗闇が感じられる。音子は自身の体が小さく震えていることに気がついた。前言撤回である。この目の前の女は、自分の理解を超えている。理解など到底できない――音子はそれに気がついたがために、自身の中で恐怖が膨張していくのを感じた。
エリスは不意に音子に背を向ける。エリスの視線の先は、上り階段だった。
「では参りましょう」
エリスはカツカツとヒールを鳴らして、上り階段へと向かっていく。あの暗闇のような瞳から解放された音子はどうにか深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
いつの間にか呼吸を忘れていたようである。麗が音子の肩を優しく叩いた。それから、音子と麗は顔を見合わせて、頷く。
これから何が起きるのか、どのような結末を迎えるか、まるで分からない。それでも、二人はそれぞれの理由で、魔女に向き合いたいと思った。だから、エリスの後に続いて、屋上に続く階段を上るのだった。




