9-07
「藤ヶ崎悦子さんっていうんですね」
不意に、まゆが声をかける。
会話に参加していなかったまゆとゆのは、好き勝手に病室を調べていたようだ。藤ヶ崎の手首に巻かれた、入院患者のためのリストバンドの名前と生年月日から、本名を知り得たらしい。
藤ヶ崎は肯定しつつも、突如呼ばれたフルネームに、不思議そうにしていた。
「女優の山上友恵さん、お好きなんですか?」
先ほど世良が指摘したハンドクリームとナイトグローブが置かれた棚には、本来の折り目と異なる形状で折り畳まれた二紙の新聞が置かれていた。見出しは『女優・山上友恵結婚。芸能界を引退』。
別に思い入れはないのだと藤ヶ崎は答える。
「でも、少し不自然ですよ」
ゆのの指摘に、藤ヶ崎は顔をしかめた。
「そもそも、ね。あたしたちが追っていたのは、つい二、三時間前の出来事よ。この病院で起きた深夜の悪戯はそれよりも前」
ゆのはご機嫌に狭い病室を闊歩する。そして、病室の端まで行き着くと、くるりと華麗にターンをして見せた。
「山上友恵の結婚報告は昨日。でも、結婚による芸能界の引退報告がメディアに流れたのはつい先ほど。わずか二、三時間前の出来事なのよ!」
バーン! と勢いよく人差し指を突き出してポーズを決めるも、何とも空虚な雰囲気である。ゆのは気にしていないようだが。
結局、それが何を意味するのか、夕美はピンと来ない。しかし、思い返せば確かに夕美が水族館でスマートフォンを見た時、通知されたニュースは結婚と引退の双方を報道していた気がした。
ふふふ、と今度はまゆが楽しそうに笑い出す。
「この病院、一階にコンビニエンスストアがあるでしょう? だから、買えるのよね、夕刊」
つまるところ、藤ヶ崎の読みかけの新聞は、本日正午までにリークされた情報が掲載された夕刊であり、藤ヶ崎はわざわざそれを買ったか、差し入れてもらったのである。
「しかし、それが何だって言うんだ? 夕刊を買うこと自体は何もおかしなことはないだろう?」
世良の疑問は最もだった。しかし、ゆのはふっふっふと、何とも自慢気である。
「夕刊を買うことに、重要な意味はないのよ。でも、普段夕刊を買わない人が、ある日突然、夕刊を買う――そこには動機と理由があるはずだわ」
例えば、今すぐに確認したいニュースがあるとかね、と言って、ゆのは視線を新聞にやる。
「藤ヶ崎さんが、恒常的に夕刊を買っていたかどうかは、ちょっと調べればすぐに分かるでしょう」
まゆが追い討ちをかけるも、やはり藤ヶ崎の表情が変わることはない。藤ヶ崎の様子に対して、夕美は、物的証拠はないのだし、自分たちが好き勝手に妄想を披露しているだけだったら困るなあ、と今更ながら、少々の不安を感じ始めた。全くでたらめなわけではないと信じつつ。
「お嬢さんの言うとおりだよ 」
ふう、とまたも息を吐ききってから、藤ヶ崎は珍しく、こちらの言い分を肯定した。
藤ヶ崎の説明では、夕刊を買ったのは本日のみ。コンビニエンスストアに行き、新聞を二紙購入した。一紙は全国紙で、昨日の事件の続報が気になって購入に至ったとのことである。もう一紙は通俗なスポーツ新聞の夕刊だ。こちらは、全国紙を買う際に、一面に応援している球団が取り上げられていることに気が付いたので購入したのだという。普段はスポーツ新聞を買うことはないのだそうだが、入院生活がなかなかに退屈らしい。
藤ヶ崎の説明に、不審な点はない。しかし、またも、ゆのは斬り込んでゆく。
「今の発言は正しいと思うわ。でも、それが全てじゃない」
失礼、と述べてから、ゆのは棚に置かれていた夕刊を拝借する。
「夕刊を購入したメインの理由は、山上友恵の引退報道のはずよ」
ゆのは、山上友恵の記事を指差す。そこには、僅かな油染みが複数見受けられた。
「きっと、ハンドクリームを塗って、乾かないうちに新聞を読んだのね」
まゆが補足すると、ゆのは頷いた。他の紙面にもハンドクリームの痕跡は見られたが、何度か手に取ったように、山上友恵の記事が掲載されている面には痕跡が集中しているようにも見える。
うーん、と藤ヶ崎は唸り、微妙な顔をする。夕美も胸の内を明かすと、さすがに藤ヶ崎に同情し始めている。少し、いや、かなり言いがかりではないのかと。
「お嬢さんたちには悪いけれど」
やっぱり、お嬢さんたちに協力できることはないみたいだね、と藤ヶ崎は答えた。
ゆのとまゆが展開した事実は、スポーツ新聞の山上友恵の記事の掲載面に複数回手が触れたということだけだ。その面には他の芸能情報も含まれているし、藤ヶ崎と山上友恵の記事の関係性は依然として不明である。それに、そもそも藤ヶ崎が山上友恵の報道を気になったとしても、何ら問題はないのだ。ただのファンの可能性だってあるのだから。
結局、四人には決定的な証拠がなく、これまでのやり取りはほとんど言いがかりと捉えられても仕方がないのかもしれない。
落胆する夕美を見かねてか、ごめんなさいねえ、と藤ヶ崎は謝った。先ほどまでの無表情と異なり、眉尻を下げて申し訳なさそうな表情をしていた。夕美たちとしては、こちらの方が罪悪感を覚えてしまう状況である。
「いいえ、十分ですよ。あたしたちもいきなり訪ねてきて、こんな尋問みたいなことしてすみません。ありがとうございます、悦子さん」
「さ、帰るわよ。ゆーみん」
意外にも、ゆのが礼儀を弁えていることに夕美は少々驚きながら、一方でまゆの言葉には反論せざるを得ない。
「いいのよ、ゆーみん。もう私たちは前に進めるわ」
自信を以て言い切るまゆに対し、夕美は「でも……」という言葉をつぐむことにした。
病室を去る前に、藤ヶ崎に改めてお詫びと礼をする。下げた頭を上げると、藤ヶ崎は複雑な表情で夕美たちを見送っていた。
四人が病室を去った後、藤ヶ崎だけが残された――正確には、他の入院患者は眠っている――病室で、藤ヶ崎は大きなため息を吐いた。
「ごめんなさいね、騒がしかったでしょう」
不意に、看護師姿の真凜が、藤ヶ崎の元を訪れる。藤ヶ崎は首を横に振った。そして、呟くように真凜に疑問を投げかける。
「……どうして、あの子達を私と面会させたんだい?」
ふふ、と真凜は笑った。
「藤ヶ崎さん。私はね、あなたが優しく誠実な人間だということを知っているからですよ」
微笑みながらも、真凜の目はまるで笑っていなかった。しかし、真凜のその違和に気がつきながらも、藤ヶ崎は「そうかい」と一言を返すだけである。
結局のところ、真凜の思索の全ては分からずとも、藤ヶ崎は彼女のある程度を理解しているつもりだった。例えば、目の前の女が看護師でないことも、異様に病院内が静かなことも――。




