6-02
夕美がこの町に引っ越してきたのは、ただの偶然だった。父の仕事の都合であり、そこに夕美の都合は絡まない。夕美は海の見える町で育ち、電車で十五分程度の高校に通っていた。
引っ越しが決まったとき、以前の高校に通いながらも、入学手続きや下見などで何度かこの町を訪れていた。
七月の、梅雨がまだ明けていない頃のこと。海がない町というのは、やはり少しばかり不思議な感じがする。潮の香りやベタつきが感じられない。
鈴蘭女子高等学校は、少し老朽化が見てとれる外観だったが、有名な建築家がデザインしており、ロマネスク様式が取り入れられているようで、とても趣がある。外観のみならず、学校の歴史も古く、伝統を重んじているとのことだった。附属高校でもなく、偏差値や有名大学への進学率が特別に高いわけでもなく、何か特色があるわけではない。しかし、学習環境が十分であることや穏やかな校風から、地元では人気が高い高等学校なのである。たまたま在籍人数に空きがあったことで夕美は転入できたが、いつでも転入できるような学校ではなかった。
良い学校だな、という感想を素直に持っていた。母と共に、教頭先生に連れられながら、校内を歩く。生徒や教師の人数に比べて、建物は随分と大きい。そのためか、休み時間とはいえ、静かで落ち着いた時間が流れていた。どこからか聴こえてくる生徒たちの話し声も心地が良いと思えるくらいに。
途中、何名かの生徒とすれ違った。興味深く「なに、なに?」とこちらを観察する生徒や、ごきげんようと丁寧に挨拶する生徒など様々で、夕美はそれぞれに小さく会釈を返していた。
一通り、校内の案内が終わったあと、書類の説明があるとのことで、来客室に戻ることになった。夕美は一人、お手洗いに行くことにし、母と教頭先生は先に来客室へと向かう。
建物が新しいわけではないため、お手洗いの設備は整っているわけではなかったが、丁寧に清掃されていて清潔である。用を済ませて、夕美も来客室へと向かおうとしたところ、俯きながら廊下を歩く生徒とすれ違う。夕美は取り敢えず、例のとおり小さく会釈をすると、相手の生徒は少し不審に思いながらも会釈を返してくれた。その時、俯いていた生徒の顔が少しばかり露になる。
宝石。ルビーのような綺麗な紅の瞳。
その瞬間、夕美は全てを取り戻したのだ。嗚呼、あの悲劇。記憶の底に眠っていた、あの海の思い出たち。そして、焦がれていたあの想い……!
そうして、父の転勤も、今回の転入も、全ては運命なのだと夕美は悟った。少し出来すぎた展開に思えたが、夕美は都合よく解釈することにした。これはきっと、チャンスなのだ。奇跡は三度は起こらない――いつか聴いた言葉が蘇る。ならば、これは必然だ。運命が前世を覆す準備を進めている。そうに違いない!
夕美は押し寄せる記憶と巡り合わせに、暫しの間興奮を抑えられなかった。学校の外はいつの間にか暗くなってきて、今にも雨が降りだしそうだった。仕方ないのだ、梅雨は明けていないのだから。
少々呆然とした後、深呼吸などして落ち着きを取り戻し、来客室にて用事を済ませる。教頭先生の説明も母の質問もほとんど頭に入らなかった。案内してくれた教頭先生に挨拶をして、母と共に学校を後にする。よかったわね、良い学校じゃない、と母は夕美に感想を述べた。そして、あらいやだ、雨が降るのかしら、駅まで持つといいわね、急ぎましょう、と母は少し早足に歩き出す。
駅へと向かう帰り道で夕美は入学後のことを考えていた。そうだ、きっとあの子と仲良くなろう。そうしたら、きっと私は救われる。彼女は――彼は覚えているだろうか、私のことを。
最寄り駅にたどり着く。母の鞄に入っていた折り畳み傘の出番はなかった。ホームで電車を待っていると、冷たい雨粒が線路と小石を濡らした。夏の雨だから、きっとすぐに止むだろう。それは少しばかり、激しい雷を伴うかもしれないが。




