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独と薬  作者: R.藤間
人魚の国
32/84

5-06

 世界はあまりにも簡単にひっくり返る。いかほどのスピードで、と問われれば、それは一年かもしれないし、一週間かもしれない。

 マリーの場合は一晩だった。

 いつもどおり深夜近くまで患者の家を駆けまわり、病状をよく聞いて薬を処方して。くたくたになって、家へと戻る途中でマリーはふと思い出していた。そうだ、今夜は見知らぬ少女が家にいるのだ。もう何年も身寄りのないマリーにとって、帰る場所に人がいるというのは何とも不思議な感覚だった。

「ああ、マリー。おかえりなさい。遅かったのねえ。あんまり遅いものだから、もう何冊か本を読みきってしまったわ。それにしても大変なのね。そうそう、疲れて帰って来たあなたにお茶を煎れて差し上げたいわ……ふふ、あなたの家なのに変かもしれないわね。ああ、気を悪くされたのならごめんなさい」

 家の扉を開けるや否や、ティーナの歓迎は止まらなかった。おかげでマリーは家のなかに入れない。

 ところで、ティーナの脚はどうやら少しは良くなったらしい。こうしてマリーの元へ出迎えにきて、さらには自らお茶を煎れようとするくらいには。

「ええ、そうなのよ。完全に痛みが消えたわけではないけれど、何だか調子が良いのよ。あなたのおかげだわ、ありがとう」

 その後、ティーナは本当にお茶を煎れてくれて、二人は少しだけ話をした。湯気と共にエルダーフラワーの香りがふんわりと漂う。

 マリーが不在の間、ティーナは人魚信仰や流行り病に関しての本や記事を読んでいたようである。それについて、領主の行動――日が上る前から日が暮れるまで自分の傭兵や使用人に人魚を捜索させているだとか、領主本人も時には海に繰り出しているだとか――だったり、自身の仕事――町の医師や薬師が交代で患者を診ていることや、この生活がいつまで続くのかまるで見通しが立たないこと――だったりを話題に取り上げた。ティーナは興味深くマリーの話を聞いていた。時折、質問を投げ掛けられれば、マリーはそれに答えた。

 特に疑問に思ったことは何一つとしてなかった。ティーナが外部からやってきて、この町の情勢に興味を持つのは極めて自然なことである。そこにマリーが警戒心や疑心を抱くことは無理な話であった。



――



 明朝、領主の訃報を受けた。死因は心不全だという。

 この日、この町から失くなったものは三つある。一つは領主の命、もう一つは町を取り巻いていた流行り病、そして最後はティーナだった。

 朝一番にマリーが号外を読んだとき、一気に肝が冷える感覚に気持ち悪さを感じていた。部屋には誰もいない。マリーはソファで、彼女はベッドで眠っていたはずなのだが、寝室に彼女はいなかった。寝具の温もりも残っておらず、少しだけ乱れた毛布だけが彼女の存在を物語っていた。突然現れて一夜にして消えた彼女と、亡くなった領主。それらが関係しているかどうかは分からない。だが、嫌な予感ばかりがマリーの脳裏を過っていた。

 マリーは取り敢えず、いつもどおりに薬師としての仕事を始めることにした。仕事仲間に会えば何か情報を得られるかもしれないと期待してのことだった。

「ああ、マリー。奇跡よ! 奇跡が起こったわ!」

 仕事場へと踏み入れたその瞬間、町の医師はマリーの元へと駆け寄ってきてそう言った。

「患者の病が治っているのよ! それも一晩のうちに! こんなことってあるのかしら!」

 彼女は喜びを隠しきれない素振りであったが、急にすっと神妙な顔付きになる。病が治っていることはありがたいが、治癒の原因がまるで分からないことを不穏に思っているらしい。当たり前だが、何かの特効薬があったのであれば、それには体に害をもたらす副作用がないかどうかも慎重に考えねばならないからだ。それに、一夜にして町から病が消えたというこの現象は誠に不可思議で、気味悪さも感じているのだという。大勢の患者が同じタイミングで病がぴたりと治ることなど、ほとんど不可能なはずなのだから。

「患者さんからは、何も?」

「ええ。ただ眠っていただけらしいの。でも、おかしいのよ。病に罹患していた患者は呼吸が苦しくて夜は眠れない人もいたはずなのに、どうしてか昨日は皆がぐっすりと眠っていたと言っているの」

 不可思議なことばかりだが、不思議がってばかりいてはどうしようもない。強い違和を感じながらも、マリーは医師と共に患者の経過観察を始めることにした。

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