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結局のところ、ユーミリアはあの人間のことが気になって仕方がなかった。
あの後、次女にはとても心配されたのだった。天気は悪くなり海は荒れる、妹が時間どおりに帰ってこない……心配材料としては充分である。
「ごめんなさい。急に海が荒れるものだからどうしたらよいか分からなくって。海で呆然としていたのよ」
咄嗟に、ユーミリアは人間を救助したことは伏せてしまう。何となく、あの出来事を次女や家族には話すべきではないと思っていた。
城へ戻ると、父と母は娘の姿を見て心底ほっとしていた。そうして、その日は人間界で体験した自然現象のことを聞いたり、他愛ない会話をしたりして、次の日からまたいつもと変わらない一日が始まった。
「小さなお姫様、なんだか最近は様子が変わられましたね」
薬売りの女性は、何気なくユーミリアにそう言った。今日は彼女が城下町の医院に薬を卸す日で、ユーミリアは彼女を見かけると話しかけてきたのである。当たり障りのない世間話をしていた最中の、ふとした出来事だった。
「そうかしら。特別な何かはないのだけれど」
ユーミリアは不思議そうにしながらも、彼女の言葉に思い浮かべたのは、あの人間の鮮やかな紅い瞳と、手から伝わった微かな温もりだった。
「そうですか。いや、私はね、ここの生まれではないものだから、変化には少しばかり敏感なんです」
「そっか、あなたはここ以外の世界も知っているのね。陸のことも詳しかったし……」
そう言いかけて、ユーミリアは次の言葉を呑み込んだ。薬売りの女性がどこから来たのか、問おうとしてやめたのである。
ユーミリアは母に尋ねたことがある。いつものど飴をくれる薬売りの女性は何者なのかと。物心ついたときから、彼女がよく接してくれていたように思い、ふと母に聞いてみたくなったのだった。
母は答えた。
「私の古い知り合いよ。もう長い付き合いになるわね」
あなたが十五歳になって外の世界を知ることができたら、直接彼女に聞いてみるといいわ、と母は言った。
そんなことはすっかり忘れていた。その時は、少し不思議に思いながらも、ユーミリアは幼かったので素直に母の言葉に頷いた。そうして、彼女と親しくなるに連れて、そういった個人的な話に疑問を抱くことを忘れていったのだった。
「お姫様?」
暫しの間考え込んでしまったユーミリアに彼女は不思議そうに声をかける。ユーミリアははっとした。
「ねえ、聞いてもいいかしら」
「答えられることなら何でも」
「あなたのことを聞かせてほしいの」
ユーミリアの言い回しに、彼女は少し驚いていた。ユーミリアはしまった、と思い、ああ、違うのよ、そうなのだけれどそうではなく、例えばあなたの故郷だとか、私のお母様との出会いだとか、つまりはね……と弁明する。
少々困っているユーミリアに対して彼女は落ち着いていた。ええ、大丈夫ですよと優しく答える。
「よろしければ、私の仕事場でお話しましょうか」
ハーブやスパイスばかりで、あまり環境はよいものとは言えないかもしれないですが……と彼女は加える。
ユーミリアは驚きと興奮の混じった表情で、是非とすぐに返事をする。
「嬉しいわ! 私、一度薬を作る場所を見てみたかったの! さっそくお母様に伝えてくるから少し待っていて」
絶対よ! と言う頃には、ユーミリアは彼女から遠ざかっていた。
先ほどとはまるで異なる反応のユーミリアを、彼女は微笑ましく思う。すぐに小さくなっていく影を穏やかに見守っていた。
――
城や集落から離れた丘に、彼女の仕事場はあった。庭と思われる敷地には無造作にハーブや花、様々な植物が育てられている。
集落から離れていて街灯が極端に少ないからか、辺りは薄暗かった。家の外に吊るされたランタンだけが、橙色に燃えている。
「もちろん薬売りを商いとしておりますから、清潔にはしているのですけれど、少し雑然としているかもしれません。それでもよければ、どうぞお上がりください」
構わないわ、それにこの雰囲気、私は好きよとユーミリアは答える。
屋内はとてもミステリアスで、ユーミリアが知っている世界とは異なる文化を感じた。少し古びた木製の本棚やテーブル、上質な生地がピンと張られたソファ。何よりもランプが茜色の火を灯していることが異質だった。
人魚の国では、建築物や家具には石や石灰、粘土が使われるのが主流で、全面的に木材が扱われるというのは珍しい。街の照明についても、人魚の眼に優しい青白い光が一般的である。
ところで、人魚の暮らしは人魚の魔力によって支えられている。人魚は生まれながら、科学では証明できない不思議な力を備えており、そのエネルギーは国の中央、城の中庭に聳え立つ大きな水晶によって吸収されている。そうして、人魚たちは自身たちの生活に役立てられるように集まったエネルギーを変換して利用していた。例えば照明、それから穀物や野菜の栽培、日用品から建築物に至るまでの劣化防止……などである。
それで、彼女の仕事場は、そのような人魚の一般的な住まいとはどうにも様子が異なっている。ユーミリアは素直にそれを言葉にすると、彼女はそうですね、と肯定する。
「あなたのお母様にも言われたことがあるのですよ、とても人間的だと」
私は元々人間だったんです、と彼女は続ける。
ユーミリアは驚く一方で、様々なものが腑に落ちた気もしていた。彼女はユーミリアの様子を伺いながら、遠い昔話を始めた。




