5-02
「ここが、人間の世界……」
ユーミリアは思わず呟いた。もっと、はしゃいでしまうものかと思っていたが、空の青さや木々の緑、色彩の豊かさに暫く身動きが取れない。
それから数分後、少しばかり辺りを泳いでみる。遠くに見える人間の営みを見つめては、あれが二足歩行なのね、と興味深く観察する。そのうち、青かった空は厚い雲に覆われ、辺りが暗くなってきた。遠くからおどろおどろしい低くて大きな音が聞こえたかと思えば、雲に光の筋が通り抜け、気がつけばまた大きな音がする。加えて、空から冷たい水が一様に降りてくるので、少しばかり痛かった。後に、それは雷鳴と雷、そして雨というものなのだということをユーミリアは知る。
ユーミリアは途端に心細く、恐怖を感じていた。初めて目の当たりにする光景に、どうしてよいのかまるで分からなかった。もう帰ろうと思った矢先、微かに悲鳴が聞こえてきた。見れば、少しばかり遠くに大きな塊が風に煽られている。その大きな塊と風のことをユーミリアは知っていた。人間が海を自由に往来するために作った船と呼ばれるもので、大きな帆と風を利用して動いているのだと。そして、そこには人間がたくさんいるから不用意に近づいてはならない、とも。
まずい、と思ってユーミリアは水中に顔を引っ込める。海のなかも波が激しく、視界は悪かった。それでも、少しばかり先の方に小さく人影が覗いている。
人間は、人魚のようには泳げないし、水の中で呼吸を続けることはできない。以前、薬売りの女性から話を聞いていた。
人間は数分も水中にいればたちまち気を失い間もなく死ぬ、と。ユーミリアは死という概念をあまり上手く理解できていなかった。でも、そんなに呆気なく息絶えるということは、きっと悲しいことなのだろうと思っている。
だから、ユーミリアは人影を追ってしまった。それは間近では初めて見ることになる人間だった。既に意識はなく、荒波に揉まれながらゆっくりと水中に沈んでいっている。
ユーミリアは人間を抱き抱える。薬売りの女性から、人間は人魚と同じように陸では鼻と口で呼吸を行っていると聞いていたので、取り敢えず人間の顔が水面から出るように持ち上げる。そのまま、陸へと向けて押すように泳ぐ。そうこうするうちに、やがて痛い雨粒も、恐ろしい雷鳴もすっかり止んでいた。
人間の気配がないことを確認してから、気を失った人間を陸へと押し上げる。念のため、手首から脈も測っておくことにした。人間の救護方法はあまり詳しくないが、脈の計測は人魚も人間も変わらないはずだ。
そして、わずかではあるものの、何とか脈を確認することができた。もしかしたら、このままではよくないのかもしれないが、ユーミリアは一安心する。
暫くのうち、ふとした人間への興味から、ユーミリアはまじまじと顔や体、脚を観察し始めた。人間をこのように間近で見られる機会などそうないのだろう、と思う。まず気になったのは下半身だ。二本に分かれているのは、見慣れない脚と呼ばれるもので、これらを交互に繰り出すことで歩行というものをするらしい。それはとても不思議だった。
次に、上半身に目を移す。こちらはあまり人魚と大差はない。強いて言えば、エラが見当たらないくらいだ。顔だって、人魚とほとんど変わらない。睫毛は長いし、肌は陶器のようで、黒髪が美しく……そう、人魚とはほとんど。今更ながら、ユーミリアはその人間が整った顔立ちをしていることに気がつき、目を閉ざしているその様をまじまじと観察していた事実に顔を赤らめてしまう。一人、数回ほど顔を横に振り、顔の熱を冷ますことにした。
誰もいないにも関わらず、こほんと一つ咳払いする。ユーミリアは気がついた。そういえば、この人間の性別をまるで気にしていなかったということに。小柄だから女性だろうか。人魚は長寿のため人間の年齢は分からないが、見た目は自分とそう変わらないように思える。
何を思ったか、ユーミリアは手を伸ばし、人間の頬に触れる。肌は恐ろしく冷たかった。急に不安になったユーミリアは、両肩を軽くたたき、声をかける。
「もしもし、大丈夫ですか? 聞こえますか? もしもし!」
徐々に声を大きくしていくと、微かに反応があった。そして、人間はゆっくりと細く目を開けた。
「ああ、よかった……」
僅かに伺える瞳は、まるでルビーのような綺麗な紅だった。どうにもまだピントが合わないようで、瞬きを繰り返している。
「きっともう、大丈夫よね。あなたのこと、本当はきちんと助けてあげたいのだけれど、私にはそれができないの」
さようなら、そう言ってその場を離れようとした矢先、ユーミリアの腕を誰かが捕らえた。もちろん、横たわる人間のものだ。
「待って……」
すぐにでも振り払える弱々しい手は、やっぱり酷く冷たかったけれども、ユーミリアは少しばかりの体温を感じることができた。その手を優しく解き、両手で包み込む。
「大丈夫よ、あそこに人が見えるわ。こちらへ向かってくる。あなた、きっと助かるわ」
「君は……」
「だからね、私はここへは居られないのよ。残念だけれど、仕方のないことなの。それじゃあね、今度こそ。さようならよ」
両手で包んでいた人間の手を静かに浜の上へと戻す。何だか名残惜しく感じてしまうが、向こうから人が来ているのは確かであったし、この人間が完全に意識を取り戻しては不都合なので、ユーミリアは海へと戻っていく。
それでも気になるのはどうしようもなく、少し離れた海の中から人間の様子を見ていた。間もなくして、他の人間に発見されたことを見届けると、ユーミリアは深海へと戻ることにした。




