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深い、深い、海の底。そこには文明があった。
珊瑚と貝殻で造られた家々と、一際大きな城。暮らしているのは上半身は人間、下半身は人間の脚の代わりに魚の尾である生命で、それは人魚と称された。
文明や言語は人間社会とあまり大差はない。王族は民を束ねて、小さな海底の国を統治していた。この国では人間の存在を認知していたが、積極的に外交を行うことはしなかった。むしろ、人間は脅威であるというのが定説だ。
人間を含む外界の脅威から国を守るための掟がいくつも存在し、その中の一つに渡陸制限があった。十五歳未満の民に、陸とその周辺海域に立ち入ることを禁じていたのである。
当時の国王であるオーロフ・シードルフには六人の娘がいた。その一番末の娘は十四歳と幼いが、王族からも民からも大層愛されて育った。金とも銀ともつかない煌めいたお髪、白い肌に薔薇色の頬、長いまつ毛に果実のような唇、そして、海の底で一番美しい歌声を持っていた。
「ああ、早く人間の世界を見てみたいわ。お姉様たちは仰っていたわ。空というものは、この海のように青く綺麗だと。いったい、どんなものなのかしら。ね、あなたはお空を見たことがある?」
「小さなお姫様、私は海の中からですが、見たことがありますよ。まるでこの海を映したかのように真っ青でしてね、白くふわふわしたものが浮かんでいるのです。この海が好きなお姫様なら、きっと気に入ることでしょう」
娘はユーミリアという名があったが、民は小さなお姫様と呼んで親しんでいた。ちなみに、姫の質問に答えたのは、薬売りの女性である。彼女は城に薬を献上する傍ら、いつもユーミリアに自家栽培しているハーブと蜂蜜でこさえた特製ののど飴を贈っていた。
ユーミリアは幼い頃から小さな広場でよく歌を歌っていた。それは同年代の子供たちとの遊びの範疇であったが、ごく稀に城のパーティーで歌声を披露することを国王が許可することもあった。そうすると、大抵の大人はよく感心したものである。この薬売りの女性も例外ではない。ユーミリアは容姿だとか愛嬌だとか様々に恵まれていたが、とりわけ才があったのは歌だったのである。
「楽しみだわ。早く十五歳にならないかしら」
今か今かと待ち望んでいたその日はすぐにやってきた。
前日の夜は胸の高なりに上手く眠ることができなかった。朝、ユーミリアが家族に今日までの感謝を伝えるも、心ここに非ずというのが見て取れたので、姉達は笑っていた。
父はそれでも厳しく「陸は危ない」と何度も説いた。母はともかく心配しており、途中まで同伴しようかしらとまで言い出してしまう。
「いつもそうなのよ。私のときも、姉様のときも、二人は同じ様子だったわ」
すぐ側にいた二つ年上の五女がユーミリアに耳打ちする。
「懐かしいわね。私たちは二人一緒だったから、事情は少し違ったのだけれど」
続けて、三女と四女が顔を見合わせて微笑んでいた。二人は双子で、初めて陸を見たのも一緒だったのだ。
「母様、私がユーミリアと途中まで一緒に行きますから、どうか落ち着いて」
そう切り出したのは次女である。
「そうね、それが良いわ。あなたも妹想いになったのねえ」
少しからかうような口調で感心したのが長女である。
母は娘たちの会話に、落ち着きを取り戻した。そして、次女の申し出を受け入れ、自分は城で待っていると伝える。ユーミリアが帰ってきたらケーキを食べてお祝いしましょうね、と付け加えて。
それから用意が整うと、ユーミリアと次女は陸に向かうことにした。陸といっても、ただ空に向かって泳ぎ進めればよいというものではない。人魚が海面に顔を出してよいポイントはきちんと決まっていた。闇雲に海から顔を出しては、人間に見つかってしまう恐れがあるし、人間が漁業を行うために仕掛けた罠で怪我をしてしまうこともある。そういった危険を回避するために、陸へのルートは定まっていたのである。
「ここから上にあがれば、陸を眺めることができるわ。三十分もあれば充分でしょう。私はここで待っているから」
所定の場所へたどり着くと、次女はユーミリアにそう言った。あれだけ楽しみにしていた陸のはずなのに、いざ姉の元を離れて一人で未知の世界へ行くとなると、少しだけ怯んでしまう。しかし、ここで姉に頼ったり泣きついたりする気にはなれなかった。
ありがとう、行ってまいりますと、会釈とともに伝えれば、ユーミリアはすいすいと泳いで行く。次女はその様子を見て、懐かしく感じていた。
海上に近づくに連れ、ユーミリアは辺りが明るくなってきたことに気がつく。おそらく、それが日の光、太陽と呼ばれるものなのだろう。横を通り抜ける魚たちも、いつも見かけるそれらとは異なっていた。
やがて、視界が真っ白に拓けた後、そこには初めて見る世界が広がっていた。




