3-02
『深い深い海の底
大きな大きな貝殻のお城
六人の姫の末っ子 私は人魚姫
透き通る肌に薔薇色の頬
美しい声と吸い込まれそうな瞳
いつか見てみたい 陸の上の世界を
いつか見てみたい この海とは違う景色を
ああ、早く十五歳にならないかしら
いつかしてみたい 恋というものを
いつか見てみたい この海と同じ色の空を』
くるくると躍りながらまばゆいばかりの笑顔で歌うのは、香里奈だ。
人魚姫の溌剌とした大きな動作をしながらハイトーンで歌い上げるという難易度の高い役を見事にこなしている。衣装担当が心血を注いだ人魚姫の衣装も、香里奈の動作に合わせてシフォン生地がふわりと揺れ、ライトに照らされたスパンコールやビーズは輝き、香里奈が主役であることを一層際立たせた。先のファッション・ショーにも負けていない。
出だしの掴みは好調だ。観客の注意を舞台へと引き込めている。
舞台の裏側で、監督の美羽は緊張しつつも、満足そうに頷いていた。一方、夕美は舞台袖で待機している。いつも余裕そうに見える夕美も、実のところ緊張していないということはなかった。
音子のことに一生懸命で本人もつい忘れそうになってしまうが、夕美は主役の王子なのだ。あの香里奈と対等の演技を求められるのもまた王子役なのである。
夕美は長身で舞台映えする容姿を持ってはいても、演技となれば別である。むしろ、演技が上手くなければその強みは却って仇となるだろう。
音子と共演するという強い願望から役を引き受けてはいるが、それでもクラスを裏切るような真似はできない。クラス全体がこの学芸会のために長い時間と多分な労力を費やしていて、この機会をとても大切にしていて、懸命に励んでいて、皆が成功させたいという思っていることを夕美は十分に理解している。それに自身の願望をクラスの皆に呑ませたのなら、それ以上に皆の期待に応えることが当たり前とさえ思っていた。何事も人の恩恵を享受するだけすればよい、ということはない……というのが夕美の考えであった。
「もしかして、あなたは緊張をしているのかしら」
不意に話しかけられる。夕美の隣に音子が来ていた。
「あなたでも緊張するのね。そう思うと、私、少し安心したかもしれないわ」
音子は珍しく柔らかな表情をしていた。音子からは、夕美が緊張とは無縁な自信家に見えていたのだろう。これまでの音子に対する夕美の行動を考えればそうなのかもしれない。
けれど、それは音子だからなのだ。音子のためでなければ、夕美はここまで活動的になどなれないだろう。
なるほどね、と一言だけ夕美は返した。嗚呼、どうして忘れてしまっていたのだろうか。クラスの皆や香里奈の才能、場の雰囲気に呑まれて気がつけなかった大事なこと。どれも重要なことだが、この演劇は音子のためのものだ。だから、夕美は音子のためだけに演じればいい――酷く、簡単なことだった。
図らずも、音子がきっかけで夕美の緊張は落ち着いていた。「自信家でも緊張する夕美の人間らしさ」が音子の緊張を和らげたのなら、そこに少しの申し訳なさを感じるということに今さら気がつくくらいには。
「私も、猫山さんと話していたら、少しは緊張が和らいだよ」
ありがとう。私たち一緒に頑張ろうね。
そう伝える夕美は、微笑んでいた。音子はその笑顔に少しばかり意表を突かれる。
何が異なるのか音子には分からなかったが、強いて表現するとすれば、それはいつもよりも自然体な夕美だと感じられたのだった。




