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第8節 姫君と御曹司

「では、行ってくるよ」

 そう挨拶して、弦朗君げんろうくんは馬首を門へと向けた。瑞慶府ずいけいふ府治ふちに出勤する主君を、家令からレツィンに至るまでが揃って見送る。


 ――乗りたい。


 レツィンは遠ざかる馬の尻を見ながら、渇望に身を焦がしていた。光山府こうざんふに来て半月にもなるが、その間ただの一度も馬に乗っていない。だが先日、あのような事件を起こしてしまったからには、当分乗ることは許されないだろう。


 溜息をつき、後房に戻ろうとしたレツィンは、主君の去った方角とは反対側から門に入ってきた人間に気づいた。レツィンにも見覚えがある顔だったが、誰だったか思い出せない。

 だが、駆け寄った家令が「柳の若様」と呼んだところで、やっと過日に瑞慶宮で会った若者だとわかった。あの時は浅葱色の官服だが、今日は深い臙脂えんじの常服だったので、全く印象が違って見えたのだった。

 承徳しょうとくはレツィンに気づき、目をくるりと回した。


「やあ、先日会ったね。ラゴ族の姫君だっけ?」

「ええ。でも今は光山府の侍女になっていますけれど」

「噂には聞いているよ、何でも見習い初日に主君の馬を駆って、一人で炎山府えんざんふにまでお使いに行ってきたって?」

 レツィンは耳まで赤くなって俯いた。

「よくもまあ、山房のなかでも最も権勢があるあの炎山府にねえ。お咎めがなかっただけましだと思いなよ。それはそうと大変かい、姫様なのに侍女みたいな仕事をさせられて」

 レツィンは笑って首を横に振った。

「姫とは名ばかりで、ラゴでは私も普通に働いて過ごしていましたから。私達の部族が厳しい自然を生き抜くためには、身分の高下を問わずそうしなければならないのです。でも確かにあなたの仰る通り、故郷とここでは勝手が色々異なるので、日々まごついて周囲に迷惑ばかり……でも、早く慣れなければいけませんね。主君は無論のこと、トルグや皆さんのおかげで何とかやっていけそうですが」

 承徳はにやりと笑った。

「皆さんか…そのなかに『あいつ』も入っているのかな?」


 また「あいつ」が出た。一体誰だろう…?まさか――。


「おい、今日はお前の休沐日きゅうもくびだろう、承徳。せっかくの休暇なのだから、ここに来なくても、家にいればいいのに」

 いきなり背後から声がして、レツィンは飛び上がった。振り向くと、書物のちつをいくつも抱えた趙敏が立っていた。

「あーあー、せっかくの休みに、わざわざ居心地の悪い場所になんかいるわけがないだろ?」

 首筋をぽりぽり掻いて、承徳は明らかに人を小馬鹿にした声を出した。


「敏、いつもお前は俺が邪魔だから追い出しにかかっているんだろうけど、あいにく俺様は『やるな』と言われると、それをやりたくてたまらなくなる性分なんでね」

「そんなこと、はなからわかってるさ。で、わざわざ柳家のお坊ちゃまが我が府にお出ましになったのは、まさか日がな一日ここでごろごろなさるおつもりで?それとも先の考課こうかで坊ちゃまが食らった最低の評定の汚名返上をするため、休沐日返上で精励してくださるので?」


 敏の精一杯らしき嫌味も、鉄面皮の相手には全く通じなかった。

「まさか!今日は何にもしないの。俺は休沐日だからお仕事はお休み、あんた達はとっとと働きなさい」

 敏は毒蛇のようなひと睨みを承徳にくれてやると、踵を返して正堂に消えていった。そしてこの間、彼はレツィンのことをまるで無視し、その場にいないかのように振る舞っていた。


「やれやれ…あいつ、出仕が俺より遅れたからって、最近態度が悪いな」

「…でも、あなたのあの態度では、他人がそうなるのもわかるように思いますけど?」

 呆れた調子でレツィンは返した。確か、弦朗君が承徳のことを「周囲とすぐに揉め事を起こす」と評していたが、さもありなんである。


 承徳はまじまじと彼女を見て、にやりとした。

「なかなか言うねえ、あんた。気に入ったよ」

 レツィンは仰々しく一礼した。

「あら、柳家の若様にお近づきになれて何という光栄なことでしょう。でも、私を気に入らない人間もこのお邸にはいるようですけどね」

 その刺のある言い方に、承徳は眉を上げた。

「敏のことか?……うん、まあそうだろうね」

 語尾に若干の言いよどみを感じ、レツィンはかえってその正直さに感心をした。そして、この曲者の貴公子かつ「あいつ」の知己らしい男に、全てを話したい気になっていた。


「どうやらあの人は、私が、というよりラゴ族が気に入らないみたいよ。でも不思議なのは、同じラゴ族でもトルグにはもっと態度が柔らかいのに、なぜ私にはあんな…」

「まあ、いろいろあるんだろうさ、彼も。それに……嫉妬かもね」承徳は、また両目をくるりと回した。

「嫉妬?」

「いきなり、自分と同じような立場のあんたが現れて、主君のちょうを奪われるといきり立っているんじゃないかな」

「そういうものかしら?」

「いやまあ、あいつの気持ちなんか分からんけどね」

 承徳は手をひらひらと振った。

「そりゃ、全ての人に気に入られる必要はないけど――無視するだけでなく、そこかしこ嫌悪感をじわじわと出してくるのよ、彼は」

 段々と怒りを募らせてくる彼女を前に、承徳は天を向いて笑った。

「そりゃ、俺だってあんたを気に入ったと言ったけれども、別にあんたに関心があるわけじゃないしね。……気を悪くした?」

「いいえ、そう言ってくれたほうがかえって安心する。私だって、さほど親しくないあなたに愚痴をこぼして、ごめんなさい」

 二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。


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