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第50節 翠浪を駆ける

 気が付けば彼女は馬に乗って蒼穹を駆けていた。馬は、弦朗君の愛馬「白峰はくほう」である。

 眼を瞬く間に山が一つ、また一つと凄まじい速さで後方に過ぎ去り、蹄のひと蹴りで大河を軽々と越える。あれほどの嵐はすっかり止んで、世界には陽の光と平穏が戻っている。

 眼下の河は段々と幅が広くなり、やがて緑なす大地の果てにきらきらと銀色に輝く帯が見えてきた。その正体を確かめたくて、レツィンは馬の高度を上げた。銀色の帯かと思ったものは、青い水だった。空よりも深い青を湛えて大地とせめぎあっている。


 ――もしかして。

 レツィンは太陽に向かって駆けていたので、額に手をやって日光を遮り、目を細めてはるかかなたに広がる青の帯を凝視した。

 ――あれが、海。……海!?

 砂浜をひと飛びで越え、ついにレツィンは海の上空に出た。


 ――なんて広い…なんて果てしないんだろう。


 彼女は嬉しいというよりも、あまりの海の広大さに恐怖を覚え、呻き声を挙げた。その瞬間、乗っていた白峰がふっと消えた。


「きゃっ――」

 彼女は真っ逆さまに落ち、頭から翠浪すいろうに突っ込む。痛みを通り越した衝撃が身体を貫き、塩辛い水が大量に口の中に流れ込む。


 ――そうだ、私は敏と一緒に『神の眼』に身を投げたんだった。では、私はもう死んでいるのかしら。この海は、死後の夢?それとも、これから死ぬのかしら。それより敏はどこに?せっかく海を見られても、敏がいなければ――。


「ともに同日にて死なん」と神前で誓った言葉は真実となったが、死んだ後は離れ離れになってしまうのだろうか。

 ――それでもいい。もし私達が昊天こうてんの上下、輿地よちの両端に別れてしまっても、私の魂は必ず敏の魂を見つけ出せるはず。


 ふと彼女は、全身にのしかかる水の重さが消えているのに気が付いた。そして、青のなかに立ち尽くす。そこには高さも底も左右もない、青だけで囲まれている空間だった。

「…ここはどこ?」

 本当にここは海なの?


 ――おーい。

 そこに、彼女が一目会いたい人物の、まさにその声がした。

 ――レツィン、どこにいる?

「敏――!ここよ、ここにいるわ」

 あたりを必死で見回して、レツィンは叫んだ。


 青の幕の向こうから、ぼんやりとした明かりが見える。レツィンはそちらに向かって手を振り、それでももどかしくついに駆けだした。近づくと明かりはますますはっきりし、ぼんやりとした人影が次第に輪郭を取っていく。元宵節げんしょうせつの燈明を手にした夫がそこにいた。

「敏!」

「レツィン!」

 敏は燈明を放り出して駆け寄り、レツィンも大きく両手を広げて抱きついた。

「…良かった、もう会えないかと思った」

「本当に……本当に」

「烏翠の神様とラゴの神様のおかげだ」

 互いの胴に腕を回し、その力をますます強くする。


「…いまそなた等は、私の名を呼んだな?」


 いきなり青の向こうから声が響き、夫婦が仰天して辺りを見回すと、すぐそばにあの二廟の塑像とまったく同じいでたちで、右にラゴの男神、右に隻眼の女神が並んで立っていた。そして、彼等の足元には、何かの生き物がうずくまっている。

「やれやれ、またラゴ族の娘のせいで妻に捕まってしまったよ」

 日輪の冠を頂いた男神がぼやくと、月輪の瓔珞ようらくを提げた女神はただ一つの眼で傍らの夫をじろりと見やった。

「あなた、なぜいつも私の腰帯から三山を盗もうとするの。いつになっても、世界を支えるかなえの脚ができやしない」

「欲しいと思った、ただそれだけだ」

「全くもう……呆れたものよ。私だけではなく、天帝の御心を騒がせ申し上げ、地上の民草も大いに迷惑するのに。さあ、早く衛州えいしゅうを返して」

 女神は溜息をつき、きらきら光る自分の腰帯に手をやった。そこには五色の糸に結われた山が二つ下がっていたが、男神が指をぱちんと鳴らすと、二つの山が三つに増えた。


 レツィンと敏は眼前に繰り広げられる情景を信じられない様子で呆然と見ていたが、次に男神が懐からあるものを取り出すと、二人は同時に声を挙げた。

「それは…」

 取り出されたのはレツィンの三つの宝、すなわち弦朗君からの拝領の扇、承徳の作った毬、そして敏が与えた真珠であった。


「昔と同じ、この三つをラゴの娘が私に与えたばかりに、私は三山をまた獲りそこなってしまった。しかも、思わず命を助けてしまった。だがまあいい、次の機会を待つさ。この三つはもらっておいてもいいか?」

「ええ…どうぞ」

 若い夫婦は魂の抜けたような声で答えた。

「次の機会などあってたまるものですか」

 柳眉を逆立てた妻を目の前にしても男神はどこ吹く風である。

「そもそも、我らの娘がこのラゴの娘にお節介をしたのが良くないのだ」

 その言葉を受けて、足元にうずくまる影がひゃっひゃっと笑う。


 ――神様達の娘?でもこの声はどこかで聞き覚えがあるけれど?


 首を傾げたレツィンは、影の正体を見極めようとして、あっと声を上げた。

「占い師の――」

 ゆらりと立ったその影は、まさしく烏翠への旅の途中で、レツィンを占ったあの老婆である。

「ひゃっひゃっひゃ。そなた、ラゴ族のお嬢さん――ほれ、何もかも私の占いの通りであったろう?」

 歯の抜けた口腔を見せて高笑いする占い師に、レツィンは眼をしばたたいたが、はっと我に返ると勢いよく首を縦に振った。

 そこへ、

「失せものは見つかりましたか。いつまで経ってもお戻りにならないから、心配してさいと二人で探しに来たのですよ」


 レツィン達の背後からまた別の声が聞こえ、振り向くと今度は背に白い翼を生やした白髪の男神と、その隣には紫の瞳をきらめかせ、右手に毬を持った妃神が並んで立っている。これも二廟での烏翠の神像に瓜二つで、人間の夫妻は文字通り腰を抜かさんばかりになっていた。

「ええ、おかげ様でね。あなた方が夫の行方を教えてくれたおかげです、ありがとう」

「何の、隣同士のよしみではありませんか」

 白烏の神は悪戯ぽく笑い、男神の帯を指さす。

「それは?」

 ああ、と男神は帯にたばさんでいた紙切れを取り出す。

「真珠がくるまれていた紙だが、交差した棒が書かれているだけだ。ただ、血の匂いがするから不思議なものだと思って…」

 籤――レツィンと敏は、それを一瞥して思わず大声を上げた。紛れもなく、元宵節にレツィンが引いた観燈の籤だった。


「それはこちらに頂きましょう。我が山河を守り、我が妻の子孫たちを救うことになった一枚の紙ですから」

「これを?血の匂いがしますなあ」

「ええ、これから先も烏翠には多くの血が流れる日々が続きます。でも結局は、このたった一枚の紙で山河は滅びずに済み、いつか国運を盛り返す日も来るでしょう」


 そして、烏神は籤を受け取り、レツィンと敏に向き直る。


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