第40節 賀宴
明徳太妃が七十の賀を迎えたというので、その祝いのため明徳殿は朝から人が入れ替わり立ち代わり忙しく働いていた。もちろん、レツィンもその一員である。殿舎のそこかしこの飾りつけ、酒を太妃に献じて寿ぐ式次第の点検……するべきことは山のようにあった。
だが、この張りつめてぴりぴりした明徳殿のなかで、ある一角だけ全く別の空気が流れている。
「あら、お母様。御変わりもなく慶賀に堪えませぬ。……と申し上げたいところでございますが、改めてよくお顔を拝見いたしますと、やはり寄る年波には勝てず、ですわねえ」
そこでは、不敬な発言ならびに高笑いが殿の天井を叩く。明徳太妃の御前で忙しく扇を煽ぐのは、かの安陽公主であった。
相変わらず、華やかな顔立ち、はっきりした色目の衣装と大ぶりの珊瑚の装飾品で、どこにいても彼女が場の中心となってしまう。明徳太妃は娘の舌の回りように顔をしかめ、飲んでいた茶碗を卓に置いた。
「はっきり『老けた』とおっしゃい。まったく、いい歳して夫も子もいるくせに、いつまでも気ままに振る舞って」
「それにしても、つまらないわ。あの甥っ子……ではなかった、王はもっと盛大な賀宴を催そうと思っていらしたのに、お母様がお断りになったせいで、内々《うちうち》のこじんまりした宴になってしまったのよ」
「馬鹿なことを。去年も凶作、今年も作柄よろしからず、いままさに民草が飢え苦しんでいるのに、これ以上無用な費えは御免ですよ」
公主は母の説教が耳を素通りしているらしく、自分の話したいことだけを話している。
「それでも、お母様のために今日は私が贔屓の戯班を差し向けたのですから、それくらい楽しんでくださいな」
さすがのレツィンも準備だけですっかり疲れてしまっていたが、それでも王が明徳殿に臨御して祖母君に賀詞を述べ、宴が始まる頃になると元気を取り戻した。彼女は宝座の太妃よりも少し離れた場所で、肉料理を取り分ける係として侍っていた。
王母の慈聖太妃は不予の名目で臨御しなかったが、同輩の蘭香曰く、慈聖太妃は義母である明徳太妃とはかねてより折り合いが悪く、これは常套手段だという。
そして、あの紫瞳の弟君もまた姿が見えないが、本当に彼は周囲から「存在しないはずのもの」として扱われているようだった。
太妃の長寿を祝う酒盃が何度も捧げられた後、宴たけなわの頃になって、殿庭から銅鑼や篳篥のにぎやかな音が響いてくる。太妃や王、そして王族達は殿の階上に置かれた座に遷り、安陽公主差し回しの俳優たちが、殿庭でこれから芝居を演じるのである。
公主は笑みを浮かべて、芝居の外題が並ぶ金縁の目録を恭しく母親に差し出した。
「ここに侍るのは、宮廷の戯班にも劣らぬ技量と華を持つ役者達ですよ。お母様のお好みの演目を考え、私が自ら選びました。どうかご所望を」
そこで太妃は目録のなかから、恋愛劇と、賑やかで動きの激しい芝居の二つを選んだ。
「さあさあ、皆さま。我らは星空を幔幕、大地を舞台とし、拙き芝居や芸をお目にかけて口を糊する伶人どもにございますゆえ、今日恐れ多くも太妃様の御覧に興ずることとなるとは、思ってもみませんでした。太妃様のご長寿とご威光を仰ぎ、まずは一曲唱ってきかせましょう…」
口上とともに芝居が始まり、隈取をした俳優達が歌ったり踊ったり――レツィンにとって烏翠の芝居を観るのはこれで初めてである。
二曲目の外題に入り、やがて主役の俳優と、悪役の白い隈取をした俳優との剣舞が始まった。
はじめは宴の疲れもあり、半ばぼんやりとその撃ち合いを眺めていたレツィンであるが、やがて悪役の俳優から視線が離せなくなった。
――たとえ、芝居がかっていたとしても、あの体躯、身ごなし、剣さばき。そして、想像しうる隈取のない顔。
それら全てにレツィンは覚えがあった。いや、覚えどころではない、かつて慣れ親しんだものに間違いなかった。
――雑劇の班に『彼』がいる?行方知れずだったはずなのに。
いまにも自分の心臓が口から飛び出しそうである。
――でも何のために?
顔に隈取を施し、俳優に扮した敏が、剣を手に舞っている。緩やかな動きがだんだん早くなり、剣の動きも大きくなっている。
――何かおかしい。
レツィンは剣舞を観察していて、はっと気が付いた。
――この舞には殺気がある!
レツィンも剣舞を嗜むゆえにすぐ察しがついた。間違いない、繰り出される剣、鋭い眼差し、明らかに「ことを起こそうとしている」者の殺気である。
そっと玉座のほうを窺うと、王や太妃、太后は気づかぬ様子で、少し離れた場所に座す弦朗君もまたゆったりとした面持ちで剣舞を見つめている。
――いったい誰を殺すつもり?まさか太妃様や弦朗君様ではあるまいし。では王様?
とすれば、大変なことになる。殺気が現実のものであれば、成功もしくは失敗を問わず、敏の命はその場で潰えてしまうだろう。悪くすると、戯班やこの場の者達もただでは済まない。
――何故こんなことを?父上の敵討ちのため?
「王宮では慎重に、でなければあっというまに骸と化す」
混乱するレツィンの耳に、弦朗君の忠告がよみがえる。
――それでも。
父の敵討ちとすれば、たとえ骸と化しても敏は満足するかもしれないけれども。
――いいえ。
レツィンはその考えをすぐに打ち消した。事の正否を問わず、及ぼす影響が大きすぎる。いまや剣舞は、激しい剣戟へと移行していた。刀の打ち合わさる鋭い音が、列席者の鼓膜を叩く。
――それに、たとえあの王が暗君でも、いま弑逆されればそれで皆が救われるといえるのだろうか?いや、確かに救われるのかもしれない。このまま王のもとで国が滅ぶのを座して待つよりは…。でも一体どうすれば?殺気に気が付いてしまった私はどうすべきなの?
いまや彼の剣は殺気どころか狂気すら帯びて、レツィンの逡巡を嘲笑っているかのようだった。




