第38節 明徳殿の女官
秋風に乗って、明徳殿に笑い声が響く。声の主は殿舎の主人である太妃と、孫の弦朗君であった。
「海星のよく気が付くこと仕事の的確なこと、さすが光山府のお仕込みと見える」
弦朗君は額をかいた。
「いえ、この子のもともと持っていた資質ですよ。それに、私がぼうっとしているうちに、我が府の者達が寄ってたかって育て上げてしまった次第で…」
笑みをこらえ澄ました顔で侍立しているレツィンに、弦朗君は声をかけた。かつての主君の瞳には、悪戯気が浮かんでいる。
「もうすっかり海星も『女官顔』になったね」
「?……女官顔ですか?何のことでしょう」
「そう、権高くて、つんとした顔つきのことを『女官顔』というのさ」
「まあ、弦朗君様!」
レツィンの怒った声に、柳眉を逆立てた他の女官達の抗議も重なる。
「ははは、昔のレツィンに戻った」
レツィンは照れながらも、この人に対する叶わぬ想いを思い出していた。女官の名を賜ったことでその恋は終わりを告げ、いまは懐かしく、暖かな思い出となっている。
「そうだ。何時だったか、海星に絵を描いてあげる約束をしていたね…どれ、今日は秋天高くといった塩梅だから、お祖母様のお許しを得てここの庭で描いてみせようか」
――はて、絵の約束などしたかしら?
レツィンは首を捻ったが、明徳太妃に準備を促され、殿庭に卓と椅子を並べ、筆や紙など文房一式の箱を置いた。
「さあ、何を描こうか…四君子の絵はもう飽き飽きだな、いっそのこと神獣や妖怪の絵とか、かえって海星らしくて楽しいかもねえ。でもおどろおどろしいから、壁には飾ってくれないかな?それにしても、忝くもこれだけの上質な紙、墨のおりの良い硯を使わせていただきながら、描くものが妖怪の絵とは、太妃様からおしかりを頂戴するかもしれないけれども」
かつての主従で積もる話もあろうから――。
太妃のそんな配慮でレツィン一人を脇に侍らせ、弦朗君はうきうきした口調で、流れるように次々と動植物や妖怪の絵を仕上げていく。レツィンは元の主君の優しさと絵の変わらぬ技量に感心すると同時に、そのいささか突飛とも思える言動には疑念を抱かざるを得なかった。
「さあどうしよう、『帝江』は描きやすいが、『魁星』はちょっとやっかいだね…」
傍らのレツィンに話しかけながら、弦朗君の右手は忙しく動き、いっぽう左手はさっと絵の上に一枚の小さな紙を置く。それには、あらかじめ何かが走り書きされていた。不思議に思い、レツィンは覗き込む。
〔――敏の姿が消えた〕
それはまさしく弦朗君の麗筆である。レツィンは驚きの声を喉に押し戻すのに、多大の労力を要した。だが、書いた当人は鼻歌を歌いそうな勢いで次々と絵を描いていく。そして、また次の走り書きが卓に乗る。
〔密かに探させているが釣果なし。承徳も心配している〕
そしてやおら大きな声で、
「やれやれ、描き損じがこんなに出てしまった。すまないが、手桶に火を起こしてきてくれるかい?」
レツィンが急いで炭の熾った手桶を持って戻ると、弦朗君は「これは駄目」「あれも上手く書けていない」と言いながら、走り書きを巧妙に混ぜて燃やし、レツィンのための数枚を除き全て灰になるのを見届けたのち、そしらぬ顔でぱっと席を立った。




