第32節 烏翠の国君
レツィンはかつて一度だけ瑞慶宮に入ったことはあったが、今回が正式な入宮となる。そして、女官として明徳太妃に仕える身になるとはいえ、ラゴ族の名代としての立場もあったので、国君に拝謁する栄誉を賜った。
乾元殿では、山水の屏風を前にした、鋭い目とがっしりとした体躯を持つ王が玉座に座り、右側には人形のように生気のない王妃、そして左側にはレツィンの新たな主君となる明徳太妃が座している。実は王宮にはもう一人太妃がいて、それは王母の慈聖太妃であるが、この場には出御していない。
レツィンは教えられた作法通り、両膝を床につき恭しく一礼した。
「このたびは烏翠とラゴの盟約を持ちまして、私レツィン・トジン・パーリ、すなわちサウル・トジン・パーリの娘、またサウレリ・トジン・パーリの妹が瑞慶宮にまかり越してございます。王様とお妃様、そしてお二人の太妃様のご健康と長寿を祈念申し上げますとともに、末長く、心をこめてお仕えいたしたいと存じます」
何度も練習した通り、流れるように華語の賀詞を啓上したレツィンは、ほっと息をつく。だが、王は探るような眼を彼女に向けてきた。自分の肩先が強張るのを感じる。
――この方が、刑場の少女を苦界に沈め、我が友人の父君を殺したのだ。
レツィンは、王の面立ちや体格はあの炎山鳴海君に似ていると感じたが、ただ両者の雰囲気は真逆で、鳴海君が威厳を保ちつつも一種の温かさを漂わせているのに対し、王のそれは冷酷でどこか暗い。もっともそれは、彼が苛政でもって多くの人々を粛清してきたという事実が、彼女にそう思わせているのかもしれない。
「…そなた、身分こそは明徳太妃様づきの女官であるが、もとはラゴ族の姫君であろう。そなたに、女官の服はさぞ窮屈ではないか?」
「いえ――」
「そなたがラゴの服を着て太妃様の御前で舞ったこと、評判が玉座にまで聞こえてきたぞ」
「恐れ入ります――」
頭を下げるレツィンの背中を、冷気が撫でる。
「太妃様も、宮中で鎮魂の舞を舞わせるなど……よりによって謀反人の処刑の当日に」
王の口調に苦々しいものが混じったが、明徳太妃は全く動じず、
「そなたも存じているように、私は毎日、祖宗の霊前に跪いて魂魄の安寧をお祈り申し上げているのであり、何も鎮魂の舞を舞わせたところで何の問題もありませんでしょう。それとも私の殿で起きたことと『謀反人の件と関わりあり』との証明はお持ちですか?そうそう、よほど政務に精励なさってご多忙なのかもしれぬが、そなたはこの頃、祖宗の礼拝に見えませんね」
穏やかな口調だったが、レツィンは太妃の言葉に刺を感じた。
やはり、太妃があのとき自分に鎮魂の舞を所望したのは、冤罪に落とされた鄭要明の魂を鎮めるためだったのだろうか――。
明らかに王は不機嫌となったが、客人の前だと思い直したらしい。やや口調を和らげて、レツィンに問うた。
「まあ、いい。そなたは何も知らずに舞ったことだ。そもそも、ラゴとの盟約により入宮したのであり、女官でありながら女官にあらず。皆と同じに処遇すべきものではないだろう。第一、そなたにはラゴの服が似合いこそすれ、女官の服は馴染まないのではないか。今後はラゴ族の服、ラゴ族の名でこの宮中を過ごしても良いぞ、何なら我が殿舎づきになるか?」
――女官ではなくラゴの名と服で?太妃さまではなく王のお側近くで?
レツィンは眼を見開いた。王の真意が読めない。
「それもまた、二重に恐れ多いことで――」
彼女はこんな言葉を返すよりほかはなかった。そのとき、間髪入れず、明徳太妃が答えた。
「王よ、それはいけませんね。彼女は女官の職責を担う身なので、あくまで女官として扱うことにせねば、後宮の秩序に乱れが生じます。それに光山が申すには、この娘は府きっての働き者だったとか。まさかこの老いぼれ婆から有能な女官まで連れて行ってしまうおつもりですか?」
笑顔なれど笑顔にあらず、そのひやりとする視線にレツィンは縮み上がった。
――もしかして、太妃様と、王様は仲が悪くていらっしゃるのかしら。実の祖母上と孫君なのに?
「いや、冗談でございます、お祖母様」
王は笑いに紛らわせたが、太妃を見返す表情もまるで氷のようだった。
そして、レツィンには百年の長さにも感じられた謁見が終わり、明徳太妃は自分の殿舎に戻ったあと、レツィンを御前に呼んだ。彼女は、主君が先程とは打って変わって優しい顔となっていることに安堵した。
「…先ほど、王からの仰せを私から断ったが、そなたにはいろいろと合点が行かぬことと思う。私はかつて『ラゴの心を忘れぬよう』という言葉をそなたに贈ったはず、その気持ちに今でも揺らぎはない。では、なぜラゴの服を着て、ラゴの言葉を話せる絶好の機会を捨てさせたのか、そなたにはわかるか?」
「…いいえ」
首を振るレツィンに、太妃は微笑みで応えた。
「じつに、そなたがあの仰せに従うは危ないのじゃ」
「とおっしゃいますのは…?」
「もしそなたがラゴの服を着て王の側に侍したら、見る者はどう思う?」
レツィンはそこまで言われて、はっとした。
「それでは傍目から、ラゴ族が完全に服属したように見えてしまう――」
太妃は頷いた。
「その通り、そなたの出自を知る宮中の者だけなら問題はないが、生憎そうではない。我が殿と異なり、王の御前には、天朝や他国からも使者や賓客がたびたび参るでの。もし、何も知らぬ彼等が玉座の傍らに侍るラゴ族の娘を見れば、ラゴと烏翠の関係についてどう思うだろうか?王はそうしたことを考えておいでだ。これからも注意しなさい、王だけではない、宮中の誰に対しても、そしてむろん、この私に対してもじゃ」
レツィンはこの最後の一節に目を丸くした。
「そんな…」
相手の反応に、太妃はふふっと笑った。
「そなたにはすまない、まだ入宮したばかりなのに随分脅かせてしまったようじゃ。……おや」
太妃はレツィンの手に目を止めたが、見られたほうはあわててその手を隠そうとした。光山府ではずっと水仕事などもしていたので、ひびが入ったり、ささくれが目立つからである。
「やはり弦朗君の話は間違いないようじゃな。あれは折に触れ、そなたのことを書状で知らせてきた。働きもので、武術も料理も得意で、誇り高く、やや怒りっぽいが、誠実で情に厚いと」
眼を細める太妃に対し、レツィンは「恐縮です」と答えるのがやっとであった。さらに、太妃は平たい函を女官の一人に持って来させ、レツィンに受け取らせた。彼女が着る女官の服である。
「この宮中にあって烏翠の服を着ていても、烏翠語や華語を話していても、そなたは紛れもなくラゴ族の娘。その猛き心と熱い感情を忘れずに、な」




