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第30節 折れた翼

 晩夏から、虫の鳴く季節に移った。だが秋は足早に過ぎ去り、あっというまに冬が到来することだろう。


 レツィンはその日も光山府の使いで都の南側に行き、涼の混じり始めた風に慰めを見出した。敏が府を去ったあと、レツィンの心もぽっかりと穴が開いたかのようだった。このところ、無性に彼のことが思い出されるのだ。


 ――元気に暮らしているだろうか。会いたい。


 初めて会った時の冷たい態度、命がけの争闘で見せた怒りに燃えた目、観燈踊る自分を見つめる穏やかな表情。二人で舞ったときの艶を含んだような眼差し。高い上背、骨ばった手。そんなものばかりが、レツィンの脳裏に浮かぶ。

 だが。


 ――まあ、思い通じるとはこのことね。


 進善橋しんぜんきょうのたもとで、懐かしい人の影が見えた。

「ここはよく使いで通る路だから、きっとまた会えると思っていた」

 最後に光山府で別れを交わして以来、敏は一層やつれてしまっていた。表情に宿るのは、諦めとも、過去への決別をし切れていないとも取れる、曰く言い難いものだった。


「…元気にしていた?府の皆も心配しているのよ」

「…そうか」


 趙家の家産は没官となったが、幸いなことに邸だけは残された。だが、敏の出仕も家門の再興も許されないのであれば、維持していくことは難しい。


「そうそう、承徳があなたをとても恨んでいるわよ、何度あなたに会いに行っても追い返されるって。ただでさえ、敏のお父様の処刑前後には、承徳は光山府への出入りを主君に差し止められてしまったばかりか、実家に閉じ込められていたでしょう?」

「無理にでも、承徳に大人しくしていてもらって良かった。あの日に何かしでかされたら、大変だったろうから」

 敏は笑ったが、ずいぶん無理をしているように見えた。


「それに、あいつにはこんな情けない姿、見られたくない…」

「嘘。彼をこれ以上、自分の家のことに巻き込みたくないせいでしょう?で、これからどうするの?」

「主君の御尽力により、奴婢には落とされずに済んだけれども――家も再興できないし、さあ、どうするかな。」

「どうするって…」

「まるで他人事みたいに聞こえるな、自分でもそう思うよ。原籍地の明州めいしゅうに帰るか、それとも…。不思議だな、父は俺に失望しておられ、あまり顧みてくださることもなかったが、こうなってみると、いまさらながら父が慕わしく、継がぬ家のことも口惜しい」

「敏…」

「それにしても、人間は欲をかく生き物だな。助命されただけでも僥倖ぎょうこうだというのに」

 敏は恥ずかし気にいうと、橋を上がって半分ほど進み、川面を見下ろした。レツィンも彼に倣った。


「…覚えているか、この橋のたもとの店」

「もちろん。観燈のときに、あなたと来たことがある」


「そう……それから、踏青もしたな。つい半年のことなのに、もう十年も前のことのようだ。あれもこれも、いまになってみれば楽しかったが、暖かさが失われた冬になって、人は春を思うものだ。あの踏青のとき、山を遠くに見ながらレツィンは確か海のことを問うていた、いつか海を見てみたいものだと」


「ええ、今でも見てみたいと思っている」

「ならば、これを受け取ってほしい」

 敏はレツィンに目をつぶり、手を出すように促した。言われるままに目を閉じたレツィンが右手を差し出すと、ふっとごくわずかの重みが掌に広がる。

「……?」

 眼を開けたレツィンは、突然掌に生まれた小さな世界に驚き、困惑した。

 手の上には、親指の先ほどに光る白く、見た事もないくらい美しい珠が乗っていた。触ると、石の硬さではなく柔らかさがある。


「これは何?」

「俺はもう出仕することはできないから、官命で主君のお供をして海を知り、お前に話してやることも叶わない。本当に申し訳ないと思っている。まあ、承徳が代わりにその役目を果たしてくれると思うが――だから、約束を守れぬせめてもの詫びに、レツィンにはこれを受け取ってほしい。母上の形見の品で、『真珠』という」

「これが、真珠なのね。昔話にしか聞いたことがなかったけれど……見るのは初めて」

「そう、海から来た竜神の宝物だよ。母上が天朝から嫁いだときに持参したもので、これほどに色艶の美しく、大きな珠は王妃様の婚礼の御衣裳でも見当たらない。……あの荷車の代価としてはとうてい価値が足りぬが――どうか受け取って欲しい」


 聞いているレツィンは胸がつぶれそうだった。踏青の日、母の墓前で敏が誓った数々の言葉。志を叶える手段が、彼から突然奪われてしまったのだ。彼に残されているものは――あとは何があるだろう。


「代価だなんて…駄目よ、受け取れない。私達は代価云々で成り立つ関係じゃないでしょう?それにお母様の残された大切な宝など…」

「頼む、もらってやってくれ。でなければ、預かってくれ。趙家の財産は没官となったが、これだけは取り上げられなくて済んだのだ」

「……」

 自分の両手でレツィンの手を包むようにしてその真珠を握らせると、敏は視線を逸らして、再び川面を見た。


「弦朗君様を仰ぎ見て、命官として勤務に励み、たまさかにでも宮中でお前を遠くから眼にして……それだけが望みだったが、儚いものだったな…」

 そして視線を天に投げる。そんな彼は身体が透けてしまいそうに、脆く、危なげに見えた。


――どこかに行ってしまうの?


 ひょっとすると、彼がここから消えてしまうのではないか、あるいは死んでしまうのではないか。そんな予感にさいなまれたレツィンは、思わず叫んでいた。

「代価なんて要らない、そんな儚さなんて要らない、…」

 レツィンは相手の背中に両手を置き、頭を押し付けた。自分の額が、彼の熱と心臓の鼓動の音を拾う。


「…お願い、何があっても生きていて」


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