第26節 双舞
新緑もまばゆい季節となり、井戸の水の心地よい温度にまもなく夏の訪れを予感するレツィンである。
そして、今朝は早くから邸内がざわざわしていた。厨房師とトルグは竈の前にかかり切りとなり、レツィンは数々の皿や鉢を前に、せわしなく箸を動かしながら料理を盛りつけていく。
「…外の支度は出来たが、こちらで何か手伝うことは?」
敏がひょいと、厨房の戸口から顔を覗かせた。レツィンは振り返り、自分の前の鉢を指さした。
「ちょうど供え物が仕上がったところよ。これ、一緒に持って行ってくれる?」
敏とともにレツィンが皿を捧げて外に出ると、中庭の北側には天幕が張られており、その中央には屏風が立て巡らせてある。祭壇代わりの大きな卓には酒瓶と盃二つが既に載っていた。二人がその横に皿や鉢を置き、何度か厨房と中庭を往復すると、卓上は供え物で一杯になった。
「それはそうと、本人達は?」
レツィンの問いに、敏は笑って彼方を指した。ちょうど中庭に面した小部屋から、まず赤い盛装に身を包んだ三十過ぎの女性と、続いて同じくらいの年頃の男性が青い常服を着こんで出てくるところだった。
女の名は玉娘、男のほうは冬二という。元宵節の日、山査子の蜜漬けを巡って冗談口を叩いていたあの二人が今日の主役であるが、いつもの元気や威勢はどこへやら、所在なさげにもじもじし、俯き加減である。中庭に集まっていた邸の者達がそんな彼等に口笛を鳴らしたり、にこにこ顔で野次を飛ばしたりしている。
「花嫁さんと花婿さん、熱々でこちらが倒れそうだよ」
「馬子にも衣装とは、このことを言うんだな」
だが、その歓声は途中で静かになり、皆は同じ方向に顔を向けた。
「…さあ、準備はできたかな?」
その言葉とともに正堂から庭に下りてきたのは、彼等の主君である。弦朗君は常服に光山府の徽章を肩にかけており、一礼する新郎新婦を前に目を細めた。次いでレツィンと敏にうなずいてみせると、若い二人はそれぞれ新郎新婦に付き添った。両人とも、特に夫婦の希望で婚儀の介添えという大役を担うことになったのだ。敏は鈍色の常服に青の飾り帯と肩掛け、レツィンはラゴ族の装いで、ともにいつもよりおめかしをしている。
屏風を背にした主婚人の弦朗君の前に、東西差し向かいに冬二と玉娘が立つ。敏は緊張していたのか、赤い紐が結びつけられた婚礼の酒瓶を取り落としそうになり、またレツィンも花嫁の脇でつんのめりかけた。
「二人とも落ち着きなさい、そなた達が結婚する訳ではあるまいし」
弦朗君が笑いを噛み殺して介添え人を窘めると、中庭には哄笑が沸き起こり、当のレツィン達は耳まで真っ赤となった。
新婚夫婦はまず神に、ついで主君の弦朗君に、最後に当人同士で拝礼を行う。家令が神に捧げる祝詞を渋い声で歌い、盃が三度献じられて婚儀は終わった。その後は、一同待ちかねていた酒宴である。祭壇の前には弦朗君の宝座が設けられ、光山夫人の面倒を見に行ったトルグの代わりに、主君の傍らにはレツィンが侍っていた。
「もう嫌だわねえ、こんな歳になってまさか結婚するとは…」
花嫁が刺繍も美しい袖で顔を覆いながら自嘲すると、花婿は照れ隠しか、酒を立て続けに三杯煽る。
宴たけなわの頃、レツィンが奥から戻ってきたトルグに頷いて座を立ち、剣を片手に庭の中央に進み出た。かねてからの玉娘の頼みで、彼女は婚礼の舞を披露することになっていたのだ。もう一人、すなわち敏もまたレツィンの隣に立ち、揃って弦朗君と新郎新婦に拝跪する。
実のところ、この剣舞は一人でも舞えるが、本来は男女二人の双舞であり、レツィンは逡巡の末、敏に相手役を頼んだのだった。
――でも、ラゴ族を仇のように憎んでいた彼が、果たしてラゴの舞を承諾してくれるだろうか。
レツィンからの提案に予想通り敏は驚き、ためらう素振りを見せもしたが、やがてふっと笑みを浮かべ
「あの二人のためなら……それに、レツィンの頼みは断れないし」
と頷き、舞い手を快諾してくれた。
伴奏の楽については、邸内で楽器をよくする者が幾たりかいるので、レツィンは彼等に頼んで旋律を覚えてもらい、いっぽう敏には振り付けを教えて、月明りを頼りに幾夜も稽古を重ねた。
そして今、二人は七尺ほど間を開けて向かい合って立ち、足拍子を取り始める。すると、楽器もそれに合わせて旋律を紡ぎ出した。取り囲む者達の数十もの眼が、ひたすらに二人を追う。そして、トルグがラゴの言葉で歌い始める。
鳳凰が羽ばたけば天空は煌めき
鴛鴦が囁きかわせば水面は揺れる。
いともめでたきかな、美しきかな
魂魄寄り添いて永遠に離れじ。
男神が寿ぎて女神は祝し、
青龍が駆ければ白虎は蹲る。
いとも美しきかな、めでたきかな
誓詞結びあわされ永久にあらん。
二羽の鳥が互いに愛を歌い、羽を広げて永遠を誓う、華やかで美しい連れ舞である。決して激しい動きではないが、滑らかに踊るにはそれなりの技量が要る。二人の剣がゆるりと宙を切り、片足が地面を撫でるように差し出された。レツィンの薄茶色の眼と敏の杏仁型の眼が互いの剣の動きを追い、その視線が幾度も交差する。レツィンは艶やかに嫋やかに、そして敏は凛々しく力強く舞い続けた。少女の弓のような背がしなり、少年の長い腕が弧を描く。
やがて舞が終わり、二人が弦朗君と新郎新婦に向かい一礼すると、拍手と歓声を惜しみなく送ってた皆は、やがて次々と立ち上がり、宝座の弦朗君がにこやかに見守るなか、小さな輪、大きな輪を作って踊り出した。花嫁も花婿も、敏もレツィンもはしゃぎながら手を打ち、足を踏み鳴らして踊る。賑やかな楽にまさる人々の笑い声で、光山府はいつになく賑やかにさざめいた。
――いつまでも、このままでいられたらいいのに。
めでたい席にもかかわらず、レツィンはふと寂しくなった。優しい主君と同輩達、小奇麗な部屋、掃き清められた庭、居心地の良い場所。しかし、それらはみな数か月後には手放さねばならぬものだった。
そんな彼女の手に一瞬、敏の手が触れた。二人の指先はすぐに離れたが、レツィンは痺れたような感覚になった。思わずレツィンは手を引っ込めて相手の顔を見上げたが、彼は一瞬真顔になった後、彼女から視線を逸らした。




