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第9節 鬼哭啾啾

 とはいえ、レツィンはどうにもびんの態度に納得が行かなかったので、彼に直接体当たりをしてみることにした。

 その日は幸いなことに、弦朗君げんろうくんの出勤後すぐに敏をつかまえることができた。彼は光山府こうざんふの家政を手伝うため、後房で数々の一件書類を揃えているところだった。


「…ねえ、あなたに聞きたいことがあるんだけど」


 彼の前に立ちはだかったレツィンは、腰に両手を当てて敏を見上げた。後房にある主君の書斎は古雅な文具で飾られ、花窓からは柔らかな光が差し込んでいる。それらは二人の醸し出す、ぎすぎすした雰囲気にはとうてい似つかわしくなかった。


「別に、そなたからものを聞かれる覚えはないが」

 つっけんどんなその物言いに、レツィンは顔をしかめた。彼に会う前は、多少は穏当な態度に出ることも考えていたが、相手の冷たい声にその気も失せた。

「私に何か不満でもある?なぜそんな態度を?」

「別に」

 取り付く島もない。

「私がラゴ族であることに、何か含むところでも?それとも私がこの府に来たことが、あなたの不利益になるの?」

「いや、…ただ」

「ただ?」

 敏は眉を上げた。

烏翠うすいでも、ラゴでも、がさつな人間は嫌いだ」

「私がそうだとでも?」

 苛立った調子の問いに敏は答えず、「用事があるので」と言い捨てざま、彼女の横をすり抜けていった。レツィンは追いかけることこそしなかったが、訳の分からぬ理不尽な仕打ちに肩を震わせていた。


 さすがに二人とも、主君の前でそのような態度を出さなかったつもりだったが、日に日にレツィンと敏の仲は険悪になっていった。

 むろん周囲の大人達も黙認していたわけではなく、レツィンはトルグから再三お小言を頂戴しただけではなく、敏が家令にこの件で叱責されているのを遠くから目撃したこともある。

 

 さらに、承徳しょうとくは思うところがあるのか、過日には珍しく真面目な調子で、

「腹が立つのもわかるけど、あいつも色々苦労しているから、もう少し様子を見てやって欲しいな」

とレツィンに言って寄越した。だが、彼女は訳がわからない。

「どうして?彼の苦労と私と、いったい何の関係が?」

 いつも歯に衣着せぬ物言いの承徳が、その時ばかりは珍しく言を左右にした。

「まあ、何というか、実家の事情でね。それに、おたくの部族とも関係があることだし…」

 それ以上、承徳も口をつぐんだきり答えない。

 レツィンはそれを聞き、

 ――結局のところ、承徳は敏の友人で、もと同輩だから庇っているのだろう。

と少々心が毛羽だったのだが、思えばこの承徳が何だかんだ言って敏を気遣っているのだから、よほどの事情があるに違いない。なので、むやみに彼を責めることもできかねた。

 それのみならず、承徳はラゴ族との因縁もにおわせていたが、実のところ、レツィンにもそれが何なのかはうすうす感づいている。しかし、「そのこと」はレツィンにとっても軽々しく口にはできない。


 ――それにしても。ああ、腹が立つ。


 ある夜、寝床のなかで今までの敏とのやり取りを反芻はんすうし、怒りに任せて勢いよく寝返りを打ったレツィンは、ふと尋常ならざる音を聞いた。


 耳を澄ませてみると、それは遠く低く、不規則に聞こえてくる。まるで狼か、いや、人の声のようで――すすり泣いているとも、喚いているともとれた。それの正体が何にせよ、まるで地の底から響いてくるような不気味さだった。鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうとは、まさにこのことである。


 ――全く、何なのよもう!

 輾転反側てんてんはんそくにも飽きて、レツィンは布団を頭から勢いよくかぶった。


 そして、薄氷を踏むがごときレツィンと敏の緊張関係が、ついに破局を迎えるときがきた。

 それは全くつまらぬこと――後で二人とも正確に思い出せぬほど小さな出来事がきっかけで起こったのである。



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