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夢の魔

愛と安心

作者: 緑麿
掲載日:2016/08/29

「おめでとう、女の子ですよ」


助産師が赤ん坊を取り上げた女医と目配せをした後、報告してくる。

私はぼんやりと天井の照明を眺めていた。

背中を支えていた夫の存在に改めて気づいて、でも、特に何もせずにそのまま支えてもらい続ける。


痛みとか、いきむとか、ついさっきの修羅場がもう忘却の彼方へ去ってゆく。

産まれたての赤紫色した赤ん坊が私の腹の上へ乗せられた。


「ほら、見てあげてください」


女医は後産の処置に移るべく私の足の間へ視線を戻す。

助産師達が私の両脇を取り囲み、厳重に赤ん坊を支えていた。

私は無意識に手を伸ばし、小さな背中を触ろうとする。


「ああ、危ないから。無理しないで。また後でね」


少し触れただけで赤ん坊は分娩室の奥へ助産師と姿を消した。

後産と縫合の間、男の子じゃなかったんだ、と、たった二分の一の確率を喜びも惜しみもしなかった。


ただ、私はこれから娘や女や妻だけでなく、母親にもなったことに実感がわかなかっただけなのだ。



新生児である娘は頼りなく、いつ死んでしまってもおかしくないくらい弱々しい印象だった。

しかし、三千グラム以上の体重で産まれてきたので授乳室で見た二千グラム台の赤ん坊と比べると一回り大きいようだった。


「詩織」


それが娘の名前になった。


夫が色々考えていたようだったけれど、私は名付けに関しては譲れない理由があった。

それは、自分が付けた名前じゃないと可愛がれない気がしたのだ。

ゲームの主人公の名前など自分で付けないとモチベーションが上がらなかったのだ。


周りの母親達は初産の人は少なく、居ても私より年上ばかりで授乳室で挨拶する程度しか親しくなれなかった。

助産師からは色々とアドバイスをされたが、あんまり憶えていない。

この温くて柔らかい生き物を腕に抱き、私はただ茫然としていた一週間だった。


おむつ替えと授乳、一か月で私の母乳は止まった為、ミルクを与えることで詩織の赤ちゃん期間は過ぎ去った。

それ以外にも色々あったが、でもそれが全てだった。

常に睡眠不足で、常に詩織の泣き声の幻聴が頭にこびりついていた。


詩織が二歳半になると、すぐに保育園に入れ私は勤めに出るようなった。


仕事はきつかったけれど、子育てから解放されたことが思いのほか嬉しかったようで毎日があっという間に過ぎて、詩織が産まれる前の私に戻れたようだった。


詩織は大人しい子供に成長していた。

私と二人で居る時はあんまり喋らなかった。

しかし、夫や私の両親の前ではずっと喋っていた。


「しーちゃんはお喋りだね」


私以外の家族は頬をほころばせ言う。

詩織はしつけもしていないのに手のかからないまま小学校へ入学した。


「意欲的で問題のないお子さんです」


担任の教師が家庭訪問の時、自信たっぷりに言った。


子供を持つってこんなに身軽なことなんだろうか。


私はふと、立ち止まったがあまり深くは考えなかった。

夫からは二人目の打診があったが、水を飲んだだけでも吐く、食べられなくても太る、十月十日別の命を腹に抱えている負担、陣痛の想像を超越した痛み、それら全てを引き換えにしてまで子供は欲しくなかった。


それに……

台所のテーブルで小さな手に大きく見える鉛筆を握って宿題をしている詩織を眺める。

それに、詩織はいつか死んじゃうでしょ。

産まれたんだから。



詩織は成長するにしたがって段々と反抗的になってきた。

私は密かにほっとする反面、いちいち相手にするのが面倒くさくなってくる。

大人ぶってる私達は分かりきったことでも、詩織には納得できないことを説明するのがしんどい。

気の優しい夫に託す。


「お母さんは他の家のお母さんと全然違う!」


ある日、詩織が私を敵意を込めて睨んできた。


「そりゃそうでしょうよ、人それぞれ違うんだから」


私はさらりと受け流し、ベランダへ出る。

洗濯物を取り込みながら、詩織が言わんとすることを考える。


他のお母さんみたいに愛してくれない


きっとそう言いたいのだろう。

テレビや周りの親子の関係を私に求めても無理ってもんだよ。

部屋の中で犬のぬいぐるみにブラッシングしている詩織の後頭部はとても儚げで、抱きしめたかった。


詩織が中学生になるといよいよ、母親の違和感に気づいて、しかし、それを逆手に取って自分の主張を盛んにし始めるのだった。


「赤点ぎりぎりじゃない」


定期テストの成績について口を出せば特にそうだった。


「いいじゃん、まだ受験生じゃないんだし、こんな時だけうるさく言わないでよね」


大人しい詩織の顔が生意気に歪んで、今すぐひっぱたきたい衝動を必死で押さえつける。


「しーちゃん。でもね、勉強しとかないと高校行けないよ?」


すっかり胸もお尻も出てきて、いっぱしの女に変貌しようとしている詩織のソファーで横たわる姿は、我が家の王女そのものだ。


「知らない。行きたい高校なんてどこにも無いし」


きっと女王であった私は今や詩織の侍女なんだろう。

政権交代。

夫も詩織に逆らえないのだから。


今度は私が言うのだろう。


詩織は他の家の子と全然違う、と。


もっと親を安心させる子供でいてほしい、と願いを込めて。



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