サポーター
彼女を怒らせてしまった。
よくわからないが、地雷を踏んでしまったようだ。
大学のあるスポーツ大会のあとのことだ。
僕と彼女は、大学で出会った。
うちの大学で練習試合をしていることも知らずに友達と遊ぼうとして体育館に行った際に、僕が、活躍している彼女の姿に目を奪われたのがきっかけだ。彼女にみとれている僕の姿を、何故か彼女が気に入ったらしく、彼女からのアプローチで僕たちの交際がスタートした。
彼女は、スポーツ特待生として入学していた。元々才能もあったようだが、努力も怠らない人で、その練習の成果を結果として出す人だった。
どんなにこっちが辛そうだと思っても、笑顔が絶えない彼女に、僕はどんどん惹かれた。
頑張る彼女の姿が好きで、僕は応援した。
「どうしてそんなに頑張れるの?」僕は訊いたことがあった。
「私より頑張っている人なんて、もっとたくさんいるよ」彼女は言っていた。「私は、好きだから。好きだから、頑張れる。たまたま好きなモノがちょっと上手だっただけだよ」
「自慢?」好きなモノも得意なコトもない僕は、皮肉のつもりで言った。
「うん」彼女は、悪戯っぽくニッと笑った。「良かったと思っている。幸せだな、って」
その日も、彼女を応援していた。
最近の彼女はスランプ気味で、笑顔も少なくなっていた。
僕は、普段以上に応援した。
しかし、どんなに僕が声を枯らしたからといって、結果に影響を及ぼすことなんてない。
こういう時、僕は無力感や歯痒さを覚える。それと同時に、思うことがある。
スポーツの代表選手なんかが勝った時によく「みなさんの応援のおかげで勝てました」なんてことを言う。だったら、負けた時は、僕たちの応援が足りなかったのか?
個人競技で世界の頂点に立った人がいると、その人を「我が国の誇りだ」なんて言う人がいる。だけど、僕は思う。スゴイと思うのは勝手だが、まるで自分のことのように得意気になったり過剰に喜んだりするのは、なんか違う気がする。
関心がないワケではない。人が汗を流す姿に心打たれることもある。
でも、頑張る人達と僕との間に、遠く隔たった距離を感じてしまう。僕なんかが応援することすらおこがましいような気がすることもある。頑張っている人に頑張れなんて、とても言えない。現在そこに至るまで培ってきた物をろくに知らないのに、何かを意見することなんてできない。応援することも、批判することも出来ない。
気の利いた言葉も、思い付かない。
だから僕は、彼女に「お疲れ」とだけ声をかけた。
彼女は、悔しそうにうつむいていた。
夕日が沈むのを感じながら、体育館の出口で彼女が出て来るのを待った。
結局、「お疲れ」以外の言葉は見付けられず、僕は、彼女と帰り途を歩いていた。
「どこかでご飯食べていく?」
「……うん…」
彼女は頷いた。
僕が、「何食べたい?」と訊くと、彼女は「決めていいよ」と僕に決定権をゆだねた。しかし、僕はいつものように「僕は特に何も…」と応える。
いつもなら、ここで彼女が「じゃあ」と言って僕を引っ張っていく。
だけど、この日は違った。
「決めてよ」
彼女は、言った。
「いいよ、まかせる」
「決めて」
「ん~」
「……もういい」彼女は、踵を返してしまった。
「帰るの?ご飯は?」
「いい」
その短い返事だけで、彼女の機嫌が悪いことが良くわかった。
どうしたらいいかわからなかった僕は、不用意に「どうしたの?」と訊ねてしまった。
「別に」
「…疲れた?」
「別に…」そして彼女はぽつりと「ごめん」と言った。
ほっといてくれ、そう言われた気がした。
だから僕は、遠くなる彼女の背中を黙って見ていた。
あの日から、僕と彼女の関係はギクシャクしてしまった。
理由は、わからない。
けど、きっと僕にあるのだろう。
元の楽しく笑いあえる関係に戻りたい。
そのためにも、謝りたい。
けど、なんて?
とにかく今の関係が嫌だったので、なんて言えばいいのかわからないまま、電話をかけてみる。「あのさ」と切り出した。
すると、彼女は「謝らないで」と言った。
「え?」僕は、面食らった。
「あなたが悪いワケじゃないの」
そのまま会話はなく、どちらかが電話を切った。
たぶん、沈黙に耐えられなくて、僕が切った。
どうしたらいいかわからないまま、二週間以上経った。
二週間近く、いろいろ考えてみた。
僕が、何をしてしまったのか?
僕は、どうすれば良かったのか?
僕は、何故彼女と一緒に居たいのか?
ほとんどの疑問に答えは出なかった。
だけど、頑張っている彼女の姿に心惹かれたという事実だけは、思い出せた。
僕は、彼女を喫茶店に呼び出した。
ここで二人の関係を修復するつもりだ。
しかし、なのか、やはり、というべきなのか、何も言葉が出て来ない。
冷たくなったコーヒーを、一口含んだ。
すると、「あのさ」と彼女から声をかけて来た。
「ん?」
「あのね、例えばだけど、売れないミュージシャンが自己満足で作ったCDを、潰れかけのCDショップで売っていたとするでしょ。でも、なかなか売れないの」
「うん」そりゃあそうだろうな。
「情けをかけたのか、在庫を少しでも処分するためか、それともただの気まぐれかもしれない、ある日、そのCDショップの店主がそのCDを店先で流すの」
「うん」情けかな。
「店先で曲を流していると、それを偶然耳にした若者がいた。その人はもともと音楽には興味はないのだけれど、何故かその曲には惹かれるものがあった。百万人の心には響かない音楽も、たった一人の心を揺らすだけの力はあったの」
「うん」極微々たる力だな。
「その音楽に感動した若者は、CDを買い、時間が許す限りずっと聞き入った。それまで消えてしまいたいと思っていた程に暗い絶望しか感じなかった世界に、ほんの微かな希望という光を見た気がするの。こんなすばらしいものがこの世にあるのか、って」
「うん」どうせすぐ消える、ちっぽけな光だ。
「そして、生きることに前向きになれた彼は、それまでの無気力さが嘘のように活動的になる。動くと、お腹も空くし、喉も渇く。せめて渇いた喉を潤す為にとミネラルウォーターの入ったペットボトルを持ち歩いていたら、すごく喉がカラカラに渇いてしまったという人と出会う。彼は、その人を気に掛け、水を譲るの」
「うん」突然水を渡されたら、僕なら疑うな。
「ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲み、脱水症状や熱中症の危険から免れたその人は、実は、将来的にこの国を代表するスポーツ選手としてベンチ入りするの。その未来の為に熱心にトレーニングしていたから、体内の水分が枯渇してしまったわけ」
「うん」自己管理が出来ないようではベンチウォーマーのままだな。
「いまいち 活躍できない状況が続くのだけれど、とある国際試合でその人は出場し、記録に残るようなプレイをするの。それは、長い試合の中の一瞬の出来事だったけど、その姿は世界中にテレビ放送されていて、多くの人の眼に映った」
「うん」劇的な作り話だ。
「その人の姿に感動し、力をもらった人は、大勢いた。そして、そのもらった力で、いろんな人が別の何かを生むの。その中のゼロコンマ数パーセント、でも数にすると十数以上の出来事は、もしかすると命を救うことがあるかもしれない」
「う…ん」飛躍しすぎでは?
「短い例え話だけど、そういうこと」
「どういうこと?」というか、短くはないが。
「スポーツ中継に感動して、それを原動力に生きる人もいるだろうし、将来的に人を感動させるスポーツ選手を脱水症状から救う平凡な青年もいるだろうし、売れないミュージシャンの音楽で救われる命もあるかもしれない」
彼女は、熱心に語っていた。
僕は、頭の中を整理するのがやっとで、彼女の言わんとしていることを、まだ理解できていない。
しかし、ここで「どういうこと?」と再び訊ねたら、また彼女を怒らせかねない。
僕の目が泳いでいることを察してか、彼女は「あなたはさ」と口を開いた。
「ギターを弾けても、弾かないでしょ」
「弾けないからね」ギターも持っていない。
「水を持っていても、誰かにあげようとしないでしょ」
「あげるさ」…たぶん。
「才能があっても、自分で限界を作るよね」
「そんなこと…」
僕は、強く言い返せなかった。
才能なんてない。でも、あったとしても、活かせたかどうか分からない。
「何かを持っていたとしても、どうせ僕は、それを活かすことなんてできない。ピッチで活躍できる人には分からないと思うけど」
「分かっていないのは、あなたの方」
「え?」
「ピッチに立って活躍することだけが全てじゃない。たとえ大勢の人の眼に映る活躍はできなくても、見ている人はいるから。声を枯らして応援してくれる、見守ってくれる、それで力が湧くから。あなたが私を思ってくれるだけで、私は頑張れる」
「サポーターが一人欠けても、勝敗に影響はないさ」
「…そうかもね……」
彼女が次の言葉を探している、そう見えた。
こう間が空いてしまうと、彼女がどんな言葉をかけてきても、それを疑ってしまいそうだ。サポーターが一人欠けても問題無い。僕がいなくても、大丈夫。
「でも、私は寂しい」
「寂しい?」
「たとえ批評ばかりの人でも、自分を応援してくれるのは嬉しい。自分に関心を失くす人が、サポーターが減るのは、やっぱり寂しいよ。だから、自分なんて必要ないみたいに思わないで。もっと自分を大切にして。自己主張の強いサポーターだって、いいじゃない」
「もしかして…」僕は、ふと思った。「僕の消極的な態度が気に入らなかったの?」
「うん、少しね」彼女は、苦笑した。「あの時は、私ばっかり主張して個人プレイに走っちゃっているみたいに思えて」
理由が分かると、僕は納得できた。
納得できると、彼女の言いたい事が少しわかった気がした。
与えられた環境で精一杯、咲き誇りなさい。
そういうことなの? と彼女に訊くと、彼女は「そうそう、そんな感じ」と笑った。
さもないサポーターかもしれないけど、僕は、彼女を応援しよう。そう決めた。
「……ところで、あの例え話は…?」
「分かり難かったよね。もう少し詳しく話せばよかった」
「いや、そんなことは」
運動だけは得意な彼女を応援しよう、サポーターの僕は、そう思った。
「がんばる」ってことは、それだけですごく大変で難しいことなんだろうな。時として、不安や孤独感と戦わなければならないこともあるだろうし。がんばっても「運」がなくて、報われないこともあるだろうし。
でも、応援する方もしんどい時があるのよ。がんばっている人に何もできない無力感を歯痒く思うこともあるし、それに比べて自分はってひねくれることもあるし。
そういうことを書きたかったんだと思います。