赤ん坊の溢れる風景
どっかの。
多分、南の島かなんかで蟹が大量繁殖し、島中を覆ってしまったというニュースだかドキュメンタリーだかよく分からないものを子どもの時分に見た記憶が、微かにある。
確か――。
テレビを見ている姉ちゃんは、好奇心旺盛なガキだったから「うへぇ」と顔を顰めながらも「ねえねえ、島の人。蟹を踏みつぶしているよ」とか「うわー、ミソが出ちゃってる」なんて、野次馬根性を全開にして、島中を覆い尽くす蟹のニュースだかドキュメンタリーだかを食い入るように見ていたっけ。
テレビクルーの車が道路を走ると『パキパキ』という蟹が割れる音がする。その音を聞きながら、二人で「ひえー!」なんて抱き合って、凄い勢いで死んでいく蟹を飽きもせずに覧ていたモノだ。
今から思えば、なんであんなに夢中だったのかと呆れてしまうが、子どもにとっては物珍しかったのだろう。
命が、ゴミのように潰されていく様が。
ならば、子どもの頃の俺は、この光景を見て、目を輝かせて喜ぶのだろうか。
町中を覆う、手のひらサイズの赤ん坊の群と、それを無表情に踏みつぶす人々や自転車や車や電車などを見て、楽しそうだと目を輝かせるのだろうか。
手のひらサイズの赤ん坊。
夏になると、この街はそれに占拠される。
何が原因か分からないが、いつからか、この街では大量の赤ん坊が発生するようになった。手に収まるぐらいの大きさの、人間の赤ん坊。おむつをしている個体もあるが、していない個体の方が圧倒的に多い。まるで異常発生した新種の生き物のように、それは排水溝だとか、側溝だとか、用水路のような水気のある所を通ってやってきて、路上や家の庭先をハイハイする。
時には、家の中にまで入り込む事もある。特に水場を好むので、気が付けば、風呂場やトイレを這っている事も少なくない。そういう時、この街の住人は嫌そうな顔をして、排水溝に流してしまう。
誰もが、大量発生する赤ん坊に嫌気が差している。
専門家は、したり顔で語った。
「異様な小ささをしていますが、掴まり立ちとハイハイができることから、生後八ヶ月から十一ヶ月の人間の赤ん坊で間違いありません」
まあ、だからどうしたという話である。赤ん坊を指差して、これは赤ん坊ですと言われて、はいそうですかと頷くような余裕を、我々は四十年前に捨ててしまった。かつて、ドリフにいた荒井注は『This is a pen!』なんてギャグで一世を風靡したが、そんなのを知っている人間はもういない。
専門家は、激昂した市民にフクロにされた。
そんなわけで。
俺達は赤ん坊をどうにかしなくちゃいけない。
だが、南国を占拠する蟹のように、手のひらサイズの赤ん坊は路上に氾濫してしまっている。それを全て、処理する事なんて誰にもできない。
とにかく、数が多すぎる。
都心に積もった大雪のように、赤ん坊は大量なのだ。
しかも、雪と違って赤ん坊は溶けない。溶けて消えてくれれば楽だけど、赤ん坊が溶けるなんて話、どこにもない。
それでも世の中には善人とか呼ばれる人が居て、何とか氾濫する赤ん坊を全員助けようと主張する人もいる。枝豆だか緑豆だか、よく分からないが、そんな感じの人達だ。
悪い人達ではないだろうけど、正直、彼らは頭は良くなかった。保護活動家は、赤ん坊を保護したが、あまりに数が多すぎて訳が分からなくなり、最期には赤ん坊の海に溺れて窒息死した。
「こいつらを助けようって言ったてさ。数が多すぎて人の手に余るよ」
テレビのニュースを眺めながら、スーツをビシッと決めた姉さんが呟いた。俺は、姉さんに追従するように頷く。
子どもの頃から続く力関係は、未だに更新されていない。
死んだ両親も「お姉ちゃんの言うことをよく聞くのよ」と言い聞かされてきた。その時に「お前は拾った子だけど、お姉ちゃんはちゃんと私達の子なんだから」なんて、酷い冗談を言われたりもした。
だから、俺は未だに姉に絶対服従をしている。
「んじゃ、出勤するよ。車出して」
「はい、姉さん」
俺の職場は隣町にあり、姉さんは都心に通勤している。だから、俺は出勤するとき、少し早めに出て姉さんを駅まで送るのが日課だ。
ずっと前、俺達は別々に出勤をしていた。
けれど、こうなってからは――。
赤ん坊の氾濫する夏という季節になると、俺は姉さんを駅まで送る。
「……別にさ。平気は平気なんだよ。でも、踏みつぶすと血が付くだろ。だから、まあ、行きぐらいは気を遣いたいのよ」
「うん」
そんな風に。
姉さんの弁明を聞きながら、俺は玄関のドアを開ける。すると、街を赤ん坊が埋め尽くす光景が、俺の目に飛び込んでくる。
真っ白い、生まれ落ちたばかりの綺麗な肌をした赤ん坊が、俺達の家の玄関先を、その先の路上を、庭を、花壇を、そこら中を、おぎゃあおぎゃあと不快な泣き声を上げなら、頭をふりふり、ハイハイしたり、掴まり立ちをしたりして、こっちを見てくる。
見慣れてしまった、あまりにおぞましい光景だ。
俺は、玄関に立てかけておいた箒を手に取ると、それを使って赤ん坊を掃き出した。姉ちゃんの為に、道を作ってやらないといけないから、赤ん坊が邪魔なのだ。
箒で掃くと、赤ん坊は凄い勢いで飛んでいく。大半は赤ん坊の群にぶつかって事なきを得るが、中には塀にぶつかるモノもいる。それは体を強く打ったり、頭を割られたりして死んでしまう。脳漿が飛び出るモノもいる。
そんな光景を見ながら、眉一つ動かさず、俺は箒で道を作る。やがて、細い道がなんとか出来て、それを通って俺と姉ちゃんは車に乗った。
「それじゃ、出すよ」
「おう。安全運転でよろしくな」
キーを回して、エンジンをかける。その時、ふと友人から聞いた話を思い出す。車のエンジンルームに赤ん坊が潜り込んで、エンジンが焼けてしまったという都市伝説。昔、それの猫版を聞いたことがあるから、単純な噂話なんだろう。けれど、この季節になると妙にその話を意識してしまう。
頭を振って、ミラーを確認。
路上は赤ん坊だらけ。
スリップ防止にスノータイヤを履いているが、それでも安全運転をしないと危ない。動物を轢いたことのある人なら知っているだろうが、生き物というのは意外と滑る。
安全運転を心に命じて車を出した。車は、赤ん坊を踏んで、ガタガタとよく揺れたが『パキパキ』という蟹が割れるような音はしなかった。水っぽい音がするだけだ。
そうして。
姉ちゃんを駅に送り届け、俺は会社に向かった。
元々、姉の出勤時間に会わせているので時間の余裕は沢山ある。だから、十分な余裕を持って、通勤する事が出来る。
潰れた赤ん坊で路上がぐちゃぐちゃになっているから、できるだけ時間に余裕を持つに越したことはない。途中でスリップしている車があった。ノーマルタイヤの車だった。見てられねぇと、脇をすり抜けて会社に急いだ。
「おはよう」
「おはよ」
受付嬢の佐藤さんに挨拶をし、俺は職場へと向かう。後は、部屋で缶詰になりながら、企画会議をやってみたり、同僚とディスカッションをしてみたり、神様にお祈りを捧げてみたりと、ごく普通の仕事風景が流れるだけだ。
昼休みなんかは同僚と和やかな会話をする。
その話題は、夏の間はいつも赤ん坊の事だ。
「それにしても。赤ん坊どもってどこからくるのかね」
「知らないのか。コウノトリが運んでくるんだ」
「いや、そういう与太話じゃなくてだな。あの水場から沸いてくる赤ん坊の方だよ」
「専門家の先生は宇宙から飛来したとか言ってたぜ」
「お前の言う専門家ってたま出版じゃねえか! そういうのじゃなくて、ちゃんとした専門家だ!」
「赤ん坊の専門家、産婦人科の先生か。その人らなら、たぶんセックスって言うと思う」
「そうじゃないよ、莫迦! 真面目に、あの赤ん坊共はどこから来るのかって話だよ」
「真面目にか」
「真面目にだ」
「なら、与太話が一つある」
そんな風に。
いつも鈴木は、どこで聞いたのかも分からない与太話を俺に教えてくれる。
今日、教えてくれた話は、こんなのだ。
「この街が、赤ん坊の発生源なんだとさ。水回りの仕事をしている知り合いが居るんだけど、夏が近くなると、この街からお前の住んでいる街に赤ん坊共が遡上してくる事があるそうだ。他の街からこの街に、赤ん坊がやってくるってのは無いらしい。必ず、ここからお前の住む街の方なんだと。だから、この街が、赤ん坊の発生源じゃねえかってさ」
その話を聞いて、俺はなんとも気味が悪くなった。
そんなこんなで。
色々とやっていると夕方になった。
日が暮れて、俺は会社の外に出る。
とりあえず何か腹に入れるかと、会社の近くのコンビニに向かう。今日は、仕事が長引いて、かなり残業しなくちゃいけない。姉ちゃんにメールを一本入れて、栄養ドリンクとサンドウィッチの一つでも買うべと、テクテク徒歩で歩いている。
ここは隣町なので、赤ん坊の数はかなり少ない。せいぜい、道の側溝に何人か固まっているぐらいだ。
だから、路上は平和そのもの。
マロニエの並ぶ優雅な町並みを、気軽な感じでぶらつける。
我が町でも、赤ん坊を踏みつぶし続ける覚悟があるなら、何の問題も無く出歩けるが、銅付き長靴ぐらいは用意した方が快適だろう。
そんな訳で、コンビニへ向かって歩いていたら、道ばたでしゃがみ込む少年を見かけた。眼鏡を掛けて、大人しそうで、目つきの悪い、感じの悪そうな少年だ。
何をしてるんだ。
そう思って覗き込んでみたら、少年が口から泡のようなモノを吐いていた。それを道の側溝に流し込み、しばらくじっと見ていたが、やがて、満足げな顔をして立ち去った。
明らかに不審な行動。
俺は、少年が居なくなったのを確認してから、そっと側溝を覗き込む。すると、少年が吐いていた泡の中には――小指大の赤ん坊の入った球体が、大量に浮かんでいる。
それを見て、俺は理解した。
これは、赤ん坊の卵だ。
どこからともなく現れた小さな赤ん坊は、こうやって生まれているのだ。ああいう風に、母体である少年が、水場に卵を産み付けて、それが孵って我が町へ向かっているのだ。
その大半は死ぬだろう。
人間に踏みつぶされて、車に、電車に轢かれて、犬猫カラスの食べられてしまうのだろう。
だが、運良く赤ん坊が生き残る事もある。
そうして、成長した赤ん坊は少年となって、この街に帰って来るのだろう。そして、こんな風に繁殖するのだ。
なんて、おぞましい。
赤ん坊のおぞましい生態を認識した俺は、強烈な吐き気に襲われ、少年の産んだ卵の隣に吐瀉物をぶちまけた。
すると。
なぜか。
吐瀉物の中に、小さな卵が幾つか浮かんでいた。
それは小指大の大きさの、赤ん坊の入った球体で、俺は――子どもの頃の事を思い出す。
なんかの。
南の島のニュースだかドキュメンタリーだかよく分からない番組を、俺は家族で見ていた。家族は「きゃーきゃー」と声を上げてみていたが、俺は無表情で画面を眺めている。
やがて。
「ぼく、同じことできるよ」
そう言って、俺は食卓の上に卵を吐いた。
勉強の得意な子どもが百点を取ったテスト用紙を見せびらかすように、運動の得意な子どもが運動会のトロフィーでも見せびらかすように、虫取りが得意な子どもがカブトムシを見せびらかすように、俺は赤ん坊の卵を吐いて見せびらかせたのだ。
すると、当たり前だが、姉ちゃんが悲鳴を上げて、大泣きした。
父と母は、凄い剣幕で俺を叱った。二度とそんな事をするんじゃない。そう言って、俺の頭にげんこつをくれた。
それがとてもショックだったから――
それ以来、俺は必死に人間らしく生きようとしていた。
けど。
そうか。
俺は、ずっと昔、赤ん坊だったのか。
卵から生まれて、水場を使って街に向かって、そこをおぎゃあおぎゃあと泣き喚きながら、路上をハイハイする生き物だった。それが、何かの間違いで両親に拾われて、ここまで成長してしまったのだ。
参ったなぁ。
抑えられない吐き気と酷い頭痛を覚えながら、俺は側溝に嘔吐を繰り返す。その度に、俺は赤ん坊の卵をそこに産み付けてしまう。泡の中に生み付けられた赤ん坊は、パチリと目を開けて俺を見つめてきた。
我が子を――それが、生物学的な意味で実子であるのかよく分からないが、それを見ながら、俺は考える。
こいつらは、卵から孵ったら、俺の住む街へと遡上を開始するのだろう。そうなると、俺はこいつらを踏みつぶしたり、轢き殺したりしながら生活を送らなくてはいけない。
それは、少し嫌だなぁ。
どうにか産卵地でもある、こっちの街に引っ越せないか。
そんな事を考えながら、俺は赤ん坊の卵を際限なく吐き続けた――。