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おぼろ月  作者: KIKI
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ヒロユキは知っていただろうか。

深刻なフリをして話をしている大人達が、とてもくだらないことに。

例えば会社の会議に出るときなど、いつも思う。どうでもいいことを、みんな顔をしかめて、さも深刻そうに話をする。深刻ぶる大人は、本当に滑稽で、気色が悪い。


ヒロユキはそんなことはなかった。いつでも深刻そうにはしない。いつも一定で、揺らぎのない強い精神力のある人だった。若干、情緒不安定なところがある私にとっては、彼に身を委ねるのが、唯一精神を安定させる術だ、と思っていた。

深刻そうにはしないが、感情が一定過ぎて、情熱もない男だ。ある意味、お坊さんのような、仏さまのような、悟りを開いてしまった人のようだ。一生懸命彼を愛していた私は、一生懸命、私を愛してくれないヒロユキを、やはり冷たい男だと思った。彼は誰も愛さないと言った。誰も愛せないのだと。


ヒロユキの心の奥に何があるのか、興味がなかったワケではない。

でもそこに触れるのは、誰にも許されないような気がした。とても怖かったし、何より、きっと知ったところで、哀しく絶望的になるのはわかっていたからだ。







今日は雨だ。

シトシトと、穏やかな雨だった。朝なのに太陽の気配はなく、湿気が多いのか少し霧がかってて、冬の暗い夕方のようだった。

まったく憂鬱だ。雨が嫌いなわけではないが、まだ今日は水曜日で、会社に行かなければならない。雨の日に外出するのが、ひどく憂鬱なのだ。

一日中家にいれば、雨が強く降れば降るほど、とても心地がいい。外は豪雨で嵐なのに、自分はこの家の中にいて、優雅に珈琲を飲みながら読書をしていると、この全く異なった状況が、世界がふたつに別れたような気がして、家の中の世界は、平和で守られている感じがして、自分がそちら側に居るということに、何だか幸せな気分になるのだ。


服や鞄や靴が、雨にぬれるのを、私はひどく嫌う。

なので、今日はTシャツに古ぼけたチノパン、ひと昔前のくたびれた合皮の鞄に、エナメルの靴を選んだ。買ったばかりのものや、本革の鞄や靴、家で洗濯できないようなお洒落着を、雨に濡らすのは絶対に嫌だからだ。

「雨の日こそ、憂鬱な気分を吹き飛ばすために、お洒落なお気に入りの服を着て、気分を上げよう」などということを聞いたことがあるが、お気に入りの服をもし雨で汚してしまったら、それこそ憂鬱のどん底だ。雨の日の憂鬱な気分を、これ以上下げたくない。

エナメルのバレエシューズは、そんなつもりで買ったのではないのに、最近は雨の日専用になってきている。ぺたんこのバレエシューズなんて、以前は絶対に履かなかった。絶対に、靴は5cm以上のヒールがあるものでなければ、履けなかった。女らしくしなければ、自信を持てなかった。


会社までは、家から徒歩10分だ。10分という時間は、結構歩くものだ。

10時始業なので、9時半ごろに家を出て、いつものコンビニに寄る。ここは、会社の最寄り駅と会社の間の通勤路にないので、誰にも会わずに済む。徒歩通勤は、私だけだからだ。

コンビニでお昼ご飯を買う。結局今日もインスタントパスタにした。やはり決して美味しくはないし、このコンビニに売っているのは2種類の味しかないのだが、なぜかかなりの確率でこれを選ぶ。安いし、何だか、食べやすいからだ。胃に入って、エネルギーになれば、何でもいい。美味しいものを食べる贅沢なんて、最近の私は興味がない。


「おはよー。今日はずっと一日雨みたいよ。憂鬱ねー。」


事務所に入ってすぐ右側に、給湯室がある。いつも一番乗りで出勤している、浅野さんが、そこから声をかけてきた。中学生の息子がいる彼女は、私よりもひとまわり以上も年が離れている。華はないが、決して地味ではない女性だ。今日は黒のシンプルなチュニックに、細身のデニムという出で立ちだった。

あえて少し無造作に整えられている短めショートカットの黒髪からのぞく、深紅の小さな石のピアスが、不思議なほど彼女に似合っていて、初めて会ったとき、それが印象的で、とてもお洒落だと思った。浅野さんはいつもこのピアスをつけている。たまに、それは熟れた柘榴を思わせる。


「おはようございます。そうですね・・・。太陽が出てないと、カラダも目が覚めてないというか、何かダルいです、今日。」


嘘をついた。本当は毎日が気だるい。どうでもいい、私の日常が。

視線は無意識に、柘榴のピアスに向いていた。


「そうよねー。もう梅雨はてっきり明けたと思ったのにね・・・。ああ、洗濯物も干せないし、いやだいやだ。」


沸かしたての珈琲をカップに注ぎながら、浅野さんは言った。

朝、会社に来たときに、この事務所内にいっぱいに広がる、芳ばしい珈琲の香りが、何よりの癒しだと思う。

朝の珈琲を沸かすのは、なぜか、いつも一番早く出勤するのが浅野さんなので、いつの間にか彼女の役割になっていたらしい。

始業15分前になっても、私達二人以外は、誰もまだ来ていない。きっと今日は予想外の雨だったから、皆色んな事に、油断していたのだろう。


「横田さんも、飲む?」


「あ、はい。」


浅野さんが、私の水色の柄なしのシンプルなカップを棚から取り出し、珈琲を注いでくれた。

短く切りそろえられた爪には、柘榴のピアスと同じような深紅のネイルが塗られていた。


「ありがとうございます。」


狭くて座るところもない給湯室で、それから皆が出勤してくるまでの2、3分ほど、無言で突っ立ったまま二人で珈琲を啜った。

なぜかこの人との沈黙は、嫌じゃないと、カラダにカフェインを染み込ませながら、思った。







中学二年生の時、同級生の佐藤さんのお母さんが死んだ。

佐藤さんとは、中学校からの同級生だし、個人的には全く仲良くなんかなく、彼女の母親など見た事もない。

だが、同じクラスというだけで、お葬式に参列させられた。


かなり大きなホールで式は行われた。

遺影の中にいた、母親の顔は、全く覚えていない。ただ、真っ白い花に囲まれた棺のすぐ傍らに、佐藤さんはいた。

制服を着て、顔を覆って泣いていた。そのすぐ横には、寄り添うように彼女の肩を抱いている、宮村さんが居た。

宮村さんは小学校からの、佐藤さんの親友だったらしい。

宮村さんは、心配そうに、そして悲しそうに眉をひそめながら、終始佐藤さんの傍にいた。まるで親族のように、親族よりも近く、ずっと彼女の隣にいた。


全然知らない人のお葬式に出るのは、何だか損をした気分になる。何だか、もったいないような、何か自分にとってマイナスになるような、とにかくよくわからない心境だった。

悲しいなんて感情はそもそもおこるはずもなく、かろうじて、もし自分の母親だったら、とこの状況を置き換えて考えてみた時に、少し胸が痛むだけだ。

深い悲しみの念と涙の匂いに満ちた、重苦しい空気とは裏腹に、私は全く別のことを考えていた。(お腹が空いた。今日のお弁当には、昨日の夕飯の残りの唐揚げが入ってたな。)

前にいた、いつもおふざけが過ぎる三人の男子生徒が笑いをこらえて、肩を揺らしていた。眠たいお坊さんのお経と、木魚を叩く間抜けな音が、ツボだったらしい。隣の女子生徒も、あくびをしていた。

どうせ、彼らも私も、ここでは場違いな存在なのだ。


それから約1年経った頃、佐藤さんがひどく宮村さんを嫌っていると言う噂を耳にした。

理由が何でだか知らないが、その時はとても不仲らしく、一緒にいるところなど全く見かけなかった。

中学を卒業して、私が進学した公立高校には、宮村さんも一緒だった。

佐藤さんは私立の女子校に進学した。高校在学中に、一度だけ繁華街で、偶然佐藤さんを見かけたことがある。

三人並んで歩いていて、真ん中に彼女はいた。みんな同じ制服を着て、みんな馬鹿みたいに、同じような格好だった。

茶髪の、くるくるしたパンのコロネのような長髪で、真っ黒い目、とにかくごつごつしてて派手なものを、体中に身につけていた。

スカートは危ないくらいに短く、紺のハイソックスで、細すぎるバンビのような華奢な足が際立っていた。

もちろん、声をかけることはなかった。いつも髪をふたつに結んでいた、眉も整えていなかった素朴な感じの佐藤さんが、あんな変貌を遂げたから、というわけではない。単に、もうクラスメイトでもない、私にとっては、ただの顔見知りの他人だからだ。

同じ高校に行った宮村さんは、中学の頃と変わらず、黒髪のボブで、素朴で可愛らしいままだった。化粧もせず、ピアスもあけず、スカートは膝丈で、ずっと、私の知っている限り高校卒業までは、そのままだった。

彼女とも特に仲良くもなかったし、佐藤さんを見かけたことは、話していない。おそらく、もう二人はとっくに親友でないような気がしていた。


今でもたまに、あのお葬式での佐藤さんの泣き顔と、心配そうに眉をひそめる宮村さんの顔が、浮かんでくる。







「あ!この人綺麗じゃない?俺、好きだなこういうの。今話題のモデルさんだよね?」


営業の久保さんが、お昼休みに休憩室でファッション雑誌を読んでいる、事務の吉岡さんの手元を覗きながら、言った。


「そう?なんだか性格悪そうだけどねえ。」


吉岡さんの隣でお弁当をつついていた小坂さんが、意地悪そうに顔を歪めて話に割りいる光景が、目の前にある。この人はもともと、真顔でも意地悪そうだと思った。


「そうですか?目とかさー、大きくって可愛いし、それにアヒル口もセクシーだな。こんな彼女欲しいなあー。」


「でもこの人、俳優と付き合ってるんだよ。あんた俳優って言うより芸人に向いてる顔だから、無理だよ。」


嬉しそうに彼の肩を叩きながら、毒づく。それに周りの女子社員が可笑しそうに笑う。


「そうだよな・・・。やっぱこんな綺麗な彼女は俺じゃ無理かあ・・・。」


無理無理、と小坂さんが言って、またみんな笑う。この人は自分でムードメーカーと思っているらしいが、ちっとも面白くない。

不意に、意地悪な顔が私の方を向き、言った。


「横田さんは彼氏いたっけ?」


「いないですよ。」


インスタントパスタを咀嚼しながら答える。今日はカルボナーラだ。


「え、そうなんだあ、若いのにねー。今募集中なの?」


本当に気持ちが悪い顔だ。背が低くて太っていて、肌は老いて汚いのに、いつも化粧をしない。これが浅田さんと三つしか年齢が上でないというのだから、驚愕だ。経理担当だからか、アパレル会社なのに、ファッションには全く興味がないようだ。今日も昨日と同じ、ヒップと裾のところに変な刺繍が入ったストレッチパンツを履いている。ウエストがゴムになっているやつだ。


「別に募集はしてないですよ。今はどうでもいいんです、そういうのは。」


「あら、何で?じゃあ久保君と付き合っちゃえば?」


何でいきなりそうなるんだ、と思い苛立ったが、愛想笑いで誤摩化す。この人は見た目だけでなく、話が荒すぎるのも問題だ。


「ちょっと小坂さん、社内恋愛は一応禁止ですよー?」


口に手をあて、くすくすと笑いながら吉岡さんが言う。

この人の服はいつもヒラヒラで、ふわふわテカテカしている。ほとんど毎日スカートだ。


「そうですよ小坂さん。それに、俺じゃあ釣り合わないですよ、横田さんとは。」


にこにこしながら久保さんが答える。この人のこの笑顔は営業スマイルではないのか、といつも疑ってしまう。いつでもにこにこしているので、どれが本当かわからない。


髪をくるくる巻いて、リボンのついたカチューシャをつけた吉岡さんが言った。


「沙織さん、由理の彼氏の友達で、今彼女いない子がいるから、紹介しましょうか?」


この子も余計な事を言う。私より一つ年下だが、職場では一応先輩だ。もう25にもなるというのに、自分のことを名前で呼ぶ。


「そんなのいいわよ、本当に今はいいの。」


本当に、今の穏やかで怠惰な、この日常が、安心する。もう下手な刺激は与えて欲しくない。もう私はずっと、このままでいいと思ってさえいる。


「もったいないなあ。」


小坂さんの後ろで、砂糖がたっぷりかかったドーナツをかじって話を聞いていた、久保さんがつぶやくように言った。

だが、吉岡さんの、何で〜?というねっとりとした、でも良く通る高い声にかき消され、誰もそのつぶやきは聞こえていないようだった。

つい、彼の顔をじっと見てしまった。もぐもぐとドーナツを咀嚼しながら、吉岡さんの雑誌をいつの間にか横取り、ぱらぱらとページをめくっていた。

まさに営業マン風な、爽やかすぎる顔だと思った。


「そんなのお昼ご飯に食べたら、胃がもたれません?」


雑誌から顔を上げた久保さんの顔は、少し驚いている様子だった。


「だって美味しいよ、これ。俺、甘いものが好きだし。ていうか、横田さん若いのに、そんなこと言う?」


薄い唇に、みっちりと揃い過ぎた白い歯を見せて笑う。まるで彼の周りにそよ風がふいたかのように、ミントのように、爽やかだ。


「何、急に。話変えちゃってさ。それに久保君は、草食系男子だもんね。」


ソウショクケイダンシ。ここ最近の流行語のような言葉を、この愚鈍なおばさんが言うと、どうしても不自然だ。


「あ、ところでさ、この前言ってたドラマさ、昨日やってたけど観た?あの韓国俳優本当にかっこいいんだから!すっごい体鍛えててさ、草食系の久保君とは大違いよ。」


耳に障る、笑い声が渦を巻く。

昨日は見逃した旨を伝え、気分が悪くなるような喧噪の中をすり抜け、珈琲を入れに給湯室へと席を立った。



















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