沈黙の行方
この物語には、大きな事件も、派手な対立も登場しません。
あるのは、会議室の沈黙と、整えられた言葉と、
「言わなかったこと」が積み重なっていく時間だけです。
組織の中で生きる私たちは、
正しい判断をしたつもりで、
いつのまにか誰かの声を置き去りにしていることがあります。
あるいは、自分自身の違和感を。
沈黙は、ときに成熟の証であり、
ときに逃避でもあります。
そして、ときに――
最も鋭い意志の形をとることがあります。
この物語は、
「黙っていた男」が、
何を見て、何を待ち、
何を手放さなかったのかを描いています。
静かな話です。
けれど、もし読み終えたあと、
あなたの中に残る沈黙があったなら、
それもまた、この物語の一部です。
社長室のドアは、ノックなしで開けられる。
それが許されている数少ない人間の一人だと、自分でも分かっている。
「失礼します」
「お、ちょうどよかった」
社長は書類から顔を上げ、岩田を見て笑った。
気を遣わせない、しかし距離を詰めすぎない笑い方。
この人のそういうところに、惹かれる人は少なくない。
「この数字、現場はどう見てる?」
「短期的には問題ありません。ただ、来年以降は——」
説明は、自然に口をついて出た。
社長は頷きながら聞き、時折、補足の質問を挟む。
「やっぱり、岩田に聞くと早いな」
その一言に、
——信頼されている。
それは、疑いようのない事実だった。
それでも。
社長室を出ると、数人の役職者が談笑していた。
かつて、自分が一番年下だった頃の先輩たち。
今は、形式上は自分の部下だ。
「岩田くん、この後少し時間ある?」
「はい、大丈夫です」
返事は丁寧で、距離は保たれている。
雑談が始まる。
誰かが最近のゴルフの話をする。
別の誰かが、昔の武勇伝を笑い話にする。
岩田は、相槌を打ちながら、輪の少し外に立っていた。
会話の内容は、頭に入ってこない。
声が、音に変わる。
音が、雑音になる。
岩田は心の中でつぶやいた。
(……まだいい)
ふと、ヨーロッパの空気を思い出す。
6年前。
社長と二人で渡った、ドイツの展示会。
石畳の街、朝の冷たい空気、ホテルのロビーで飲んだ濃いコーヒー。
現地スタッフとの会議では、沈黙が長く続くこともあった。
日本なら、誰かが慌てて言葉を埋める。
だが、あちらでは違った。
社長は、黙って待った。岩田も、それに倣った。
やがて、現地の責任者がぽつりと言う。
「……今の案、少し違和感がある」
その一言が、議論の核心だった。
会議後、社長が言った。
「岩田、沈黙を怖がらないのは、強みだぞ」
あのときは、ただの褒め言葉だと思っていた。
——だが今思えば。
あれは、「話すな」ではなく、「逃げるな」という意味だったのかもしれない。
40代で、社長秘書に抜擢された。
社内では、出世コースと言われている。
社長の判断を、最も近くで支える仕事。
全社の流れが、手に取るように見える。
ある日、社長がぽつりと言った。
「岩田さ」
「はい」
「真面目なのは、間違いなく武器だ。
でもな、真面目“だけ”だと、人はついてこないよ。」
叱る口調ではなかった。
むしろ、心配に近い。
その言葉を、10年前にも聞いたことがあった。
岩田がまだ若手だった頃。
研究部門に同期の和田がいた。声が大きく、雑談が得意で、会議では必ず一言残す男。
「岩田、お前は黙ってても評価されるからいいよな」
冗談めかしたその言葉の行方を当時の岩田は、深く考えなかった。
真面目で、曲がったことが嫌いな和田は、同期の中でも“エース社員”として一目を置かれていた。
和田は、ある案件を任された。
医療機器の微細な不具合。
現場からは「想定外の使用で起きた例外」と報告された。
和田は、違和感を覚えた。
「これ、例外じゃないと思うんです」
役員会で、和田は言った。会議室の空気が、わずかに凍った。
当時、役員だった社長が口を開く。
「現時点で患者への重大な影響は確認されていない」
「でも——」
「和田くん」
社長は、声を荒げなかった。だからこそ、重かった。
「君は、真面目すぎる」
その一言で、議論は終わった。
数週間後、
和田は部署を外された。
表向きは「配置転換」。
実質は、責任を一人で背負わされた形だった。
ある夜、和田は岩田に電話をしてきた。
「なあ、俺、間違ってたのかな」
岩田は、すぐに答えられなかった。
「……正しいと思うよ」
そう言った。
だが、翌日の会議で、岩田は、何も言わなかった。
沈黙した。
(俺が言っても、空気は変わらない)
その夜、岩田は眠れなかった。
天井を見つめたまま、何度も、和田の声を反芻した。
数日後。和田は、会社を去った。
ただ机の上に置かれていたのは、不具合報告書のコピーだった。
役員だった社長は、
「組織を守るための、やむを得ない判断だった」
そう言って、昇進した。
岩田は、社長の隣を歩いている。
「今の会議、良かったな」
「いえ……」
「考えてることは、置いていけ。全部話さなくていい」
岩田は、静かに頷いた。
(ええ。置いていきますよ)
(——あなたの“判断”ごと)
1年後。
社長肝いりの新プロジェクト。
海外市場への本格参入を掲げ、社内でも異例のスピードで承認された案件だった。
規模が大きすぎた。
そして、社長の名前が前面に出すぎていた。
「念のため、外部監査を入れましょう」
誰かがそう言い、誰も反対しなかった。
表向きは、ガバナンス強化。
だが実際には、「社長案件だからこそ、傷がないことを証明する」という意味合いが強かった。
夜。
誰もいない自宅で、岩田は監査資料を開いていた。
新プロジェクトの基礎技術。
過去の研究データ。
安全性に関する社内判断の履歴。
ページをめくるうちに、数年前の日付が現れる。
社長のサイン。
見覚えのある案件名。
——和田。
医療機器の微細な不具合。
当時、「例外」として処理された報告書。
岩田の指が止まる。
外部監査は、この技術がどこから来たのかを見ている。
問題が「なかった」ことではなく、どう判断されたかを確認している。
このまま、ページを閉じれば
——和田の名前は、また「過去」のままで終わる。
日付。議事録。社長の判断。
——整える。
それは、過去を捏造することではない。
ただ、正しく並べ直すだけだ。
外部監査員からの質問で、社長は言葉を失う。
「誰が、こんな……」
その瞬間、岩田は初めて、社長の目をまっすぐに見た。
夜。
空になった社長室。
岩田は、机の引き出しに残された一冊のノートを見る。
和田の名前が、そこにあった。
社長が、かつて握り潰したメモだ。
岩田は、そっとドアを閉める。
(沈黙は、強みだと教えてくれましたね)
(だから——)
(あなたが一番困る瞬間まで、 何も言わなかっただけです)
帰り道。
夜のオフィス街。
岩田は思う。
自分は、真面目な秘書だった。
忠実で、寡黙で、信頼された。
——そのすべてが、復讐の準備だった。
沈黙は、逃げじゃない。
刃だ。
使いどころを、間違えなければ。
岩田は、最後まで多くを語りません。
彼は怒鳴らず、告発せず、
自らを正義の側に置くこともしませんでした。
彼がしたことは、
ただ「整えた」だけです。
日付を、記録を、判断の順序を。
過去を捏造することなく、
しかし、曖昧にもせず。
それは復讐だったのか。
それとも、遅すぎた誠実だったのか。
答えは、物語の中には書かれていません。
社長もまた、悪人としては描かれていません。
彼は組織を守り、
現実的な判断をし、
多くの人から信頼されてきた人物です。
だからこそ、その「判断」は、
より多くのものを飲み込みました。
沈黙は、常に善でも悪でもありません。
使いどころを誤れば、
誰かを守る盾にも、
誰かを切る刃にもなります。
この物語を読み終えたあと、
もしあなたが、
「あのとき、自分は何を黙っていただろう」と
ふと思い返したなら。
その問いは、
もうこの物語から、
あなたの手に渡っています。
沈黙は、逃げではありません。
しかし、
刃である以上、
握る覚悟が必要なのです。




