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学園の女王さまは、俺の前でだけポンコツになる  作者: 速水静香
第一章:日常からの逃走

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第八話:偽りの恋人、誕生


「これは、危機ではないわ。チャンスよ」


 昨夜、銀座のネオンの下で会長が放ったその言葉は、呪いのように俺の脳裏にこびりついて離れなかった。


 チャンス。


 辞書的な意味では「物事をするのによい機会」を指すが、あの天上院ユウカの口から出た場合、それは十中八九、「俺を巻き込んだ大規模な災厄の幕開け」と同義である。


 そして翌日。

 いつものように、午前中の授業は、針のむしろだった。

 教科書を開いていても、黒板の文字を追っていても、背中に突き刺さる無数の視線を肌で感じる。それは『怪しむ』視線ではない。もっと生々しく、『観察』の視線だ。

 休み時間になれば、遠巻きにヒソヒソと話す声が聞こえてくる。


「ねえ、やっぱり本当みたいよ」

「昨日の銀座デート、目撃者多数だしね」

「インクを買ってたらしいぜ。二人の愛の誓いを書くためとか?」

「ロマンチック……!」


 ……誰だ、そんな恥ずかしい尾ひれをつけたのは。ただの備品購入だと言いたいが、弁解する機会など与えられない。

 俺は「石ころになりたい」と心の中で念じながら、ひたすら時間が過ぎるのを待った。


 そして、運命の昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。

 キーンコーンカーンコーン。

 その音は、俺にとって死刑執行の合図に等しかった。


 ブブッ。

 ポケットの中のスマートフォンが震える。

 画面を見るまでもない。送り主は一人しかいない。


『作戦を開始する。速やかに中庭のテラスまで出頭せよ。拒否権はないものと心得るように』


 中庭のテラス。

 そこは、この学園で最も人が集まり、最も目立つ場所だ。

 俺は絶望的な溜息をつくと、重い腰を上げた。クラスメイトたちの「行ったぞ」「いよいよか」という視線に見送られながら、俺は処刑台へと向かう囚人の足取りで教室を出た。



 中庭は、既に異様な熱気に包まれていた。

 普段なら弁当を広げる生徒たちで賑わう憩いの場だが、今日はどこか空気が違う。誰もが何かの始まりを予感し、そわそわと視線を交わしている。

 その中心にあるテラス席。

 そこに、彼女はいた。


 天上院ユウカ。

 優雅に紅茶のカップを傾けるその姿は、学園の中庭を一瞬にして王宮の庭園へと変えていた。

 彼女の周りだけ、誰も近寄れない不可視の結界が張られているかのようだ。


 俺が姿を現すと、ざわめきが一層大きくなった。

 俺は胃の痛みをこらえ、その結界の中へと足を踏み入れる。


「遅かったじゃない、飯田くん。待ちくたびれたわ」


 会長はカップをソーサーに置くと、不敵な笑みを浮かべて俺を見上げた。

 その声は決して大きくはなかったが、静まり返った中庭にはよく通った。


「……呼び出し、なんですか。こんな目立つ場所で」

「目立つ? 当然よ。これから行うのは、一大スペクタクルなのだから」


 会長は立ち上がった。

 そして、俺の隣に並び立つと、中庭に集まった数百人の生徒たちをぐるりと見渡した。

 一瞬で、全ての視線が彼女に釘付けになる。カリスマ性という言葉の意味を、俺は嫌というほど理解させられた。


「皆さん、少し耳を傾けていただけるかしら」


 会長が口を開くと、ざわめきがピタリと止んだ。

 数百人が固唾を飲んで次の言葉を待つ。


「最近、学園内で私に関する様々な噂が飛び交っているようですね。そのことで、皆さんを無駄に混乱させてしまったこと、生徒会長として深くお詫びします」


 会長は優雅に一礼した。

 おお、という感嘆の声が漏れる。

 ……まさか、否定してくれるのか?

 俺の中に、淡い期待が芽生えた。

 そうだ。会長は誇り高い。根も葉もない噂で名誉が傷つくことを良しとしないはずだ。「ただの従僕です」と切り捨ててくれれば、俺は惨めだが、平穏は戻ってくるかもしれない。


「ですので、今日はその噂の真偽について、私の口からハッキリとお伝えしようと思います」


 会長は顔を上げ、凛とした瞳で宣言した。

 そして。

 次の瞬間、彼女の細い腕が、俺の腕に絡みついてきた。


「えっ」


 俺が声を上げる間もなかった。

 柔らかい感触と、甘い香りが脳を麻痺させる。

 彼女は俺の腕をぎゅっと抱き寄せ、全校生徒に向かって、高らかに告げた。


「ご紹介します。皆さんが噂している通り、こちらが私の大切な恋人である、飯田くんです」


 …………。

 …………しーん。


 世界から音が消えた。

 時が止まった。

 俺の思考回路も焼き切れた。


 恋人?

 俺が?

 この人の?

 ……は?


 数秒の静寂の後。

 中庭に、爆発が起きた。


「「「きゃあああああああああああっ!?」」」


 悲鳴。絶叫。歓喜。驚愕。

 それらが混ざり合った轟音が、校舎を揺らす。


「うそおおおおっ!?」

「マジだったのかよ!」

「会長があんな地味メンと!?」

「いや、きっと俺たちには見えない魅力が……!」

「おめでとうございます会長ォォォ!!」


 阿鼻叫喚の地獄絵図だ。

 俺は蒼白になり、必死に口を開いた。


「ち、ちが……! みなさん、誤解です! これは……!」


 否定しなければ。

 こんな嘘、許されていいはずがない。

 だが、俺の悲痛な叫びは、隣にいる悪魔の囁きによって封殺された。


「もう、カズキったら」


 甘い。

 砂糖を煮詰めてハチミツをかけたような、とろけるような声。

 会長は俺の肩にコテンと頭を乗せ、上目遣いで俺を見た。


「みんなの前だと、照れちゃうんだから。可愛いところもあるのね」


 可愛い?

 照れてる?

 違う、これは恐怖による痙攣だ!


「ほら、真っ赤になって。そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない。私たちの愛は、もう隠す必要なんてないのよ?」


 彼女は俺の腕をさらに強く抱きしめる。

 逃がさない。絶対にお前をこの「設定」から逃がさない。その腕の力強さが、無言の圧力を物語っていた。


「キャー! 何あれ、超ラブラブじゃん!」

「飯田くん、顔真っ赤! 可愛いー!」

「ツンデレ彼氏かよ! 尊い!」


 群衆心理とは恐ろしいものだ。

 会長の演出によって、俺の必死の抵抗は、全て「公衆の面前でイチャつくバカップルの照れ隠し」へと変換されてしまった。

 終わった。

 俺の否定は、燃料にしかならない。


 会長は満足げに微笑むと、再び生徒たちに向き直った。


「というわけで、皆さん。これからも、私と、そして私の大切なカズキのことを、温かく見守っていただけると嬉しいです」


 彼女が締めくくると、中庭は割れんばかりの拍手に包まれた。

 祝福の拍手。

 それは、俺の平穏な日常への、別れのレクイエムだった。



 騒ぎが一段落し、昼休みの残りの時間を過ごすため、俺たちは中庭の端にあるベンチへと移動した。

 周囲の視線は相変わらずだが、これまでの『探るような目』とは質が変わっていた。

 完全に『公認カップル』を見る、生温かい目だ。


「……どういうつもりですか」


 俺は両手で顔を覆い、呻くように言った。


「どういうつもり、とは?」

「恋人宣言ですよ! これで嘘がつけなくなりましたよ! 嘘つき呼ばわりされるのが一番のリスクだって、言ったじゃないですか!」


 俺が抗議すると、会長は涼しい顔で紅茶(水筒持参)を啜った。


「嘘? 誰も嘘なんてついていないわ」

「はあ!? 付き合ってないでしょうが!」

「ええ。今はまだね」

「一生ないです」


 会長はふふんと鼻を鳴らす。


「いいこと、飯田くん。これが私の『チャンス』の正体よ」

「意味が分かりません」

「昨日、あなたは言ったわね。噂のせいで居心地が悪いと。周囲から変な勘ぐりを入れられて、身売りの噂まで立てられていると」

「……言いましたけど」

「ならば、そのあやふやな状況を、私が『確定』させてしまえばいい。中途半端に隠すから詮索されるのよ。堂々と『恋人です』と宣言してしまえば、人々は納得し、それ以上の無粋な干渉を控えるようになるわ」


 確かに、一理ある……かもしれない。

 人間、隠されているものは暴きたくなるが、オープンにされたものには興味を失うか、あるいは肯定的に受け入れる傾向がある。


「それに、あなたにとって最大のメリットがあるわ」

「メリット?」

「ええ。あなたは今日から『天上院ユウカの恋人』という最強の称号を手に入れたのよ。この学園で、私の所有物に手を出そうなんて愚か者は存在しないわ。つまり、あなたは私の威光によって、絶対的な不可侵領域を手に入れたも同然なのよ」


 会長は勝ち誇ったように胸を張った。

 俺は呆気にとられた。

 この人は、本気でそう思っているのだ。

 俺が求めていた「誰にも関心を持たれない平穏」を、「最強の権力による庇護」で上書き保存してしまった。

 方向性は真逆だが、結果として「外野を黙らせる」という点では同じ……なのか?


「……無茶苦茶だ」

「一部の隙も無い、完璧な論理的帰結よ」

「でも、これじゃあ俺、一生会長のパシリじゃないですか」

「あら、不満かしら? 世界一美しい私の『恋人役』なんて、男子生徒なら涙を流して喜ぶ役回りだと思うけれど」


 会長は悪戯っぽく笑い、俺の顔を覗き込んだ。


「それとも……役作りではなく、本気になってみる?」


 その顔があまりにも美しくて。

 一瞬、心臓が跳ねた自分を、俺は全力で殴りつけたくなった。


「……結構です。契約通り、あくまで『お世話係』として、お芝居に付き合いますよ」

「素直じゃないわね。まあいいわ。これからよろしく頼むわよ、カズキ」


 会長は楽しそうに俺の名前を呼んだ。

 こうして、俺と天上院ユウカは、全校生徒公認の『偽りの恋人』となった。


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