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学園の女王さまは、俺の前でだけポンコツになる  作者: 速水静香
第一章:日常からの逃走

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第五話:放課後、買い出し指令


 昼休み、俺の魂を削って成立させた『弁当供給及び報酬支払いに関する追加契約』。そのおかげで、俺の銀行口座には、明日から涙ぐましい労働の対価が振り込まれることになった。だがしかし、それはそれ。これはこれだ。俺の平穏な日常が、もはや風前の灯火であるという事実に、何ら変わりはない。

 午後の授業は、もはや上の空だった。窓の外を流れていく雲をぼんやりと眺めながら、俺はこれからの人生に思いを馳せる。生徒会長のお世話係。その言葉の響きだけで、寿命が三年は縮みそうだ。朝はモーニングコール代わりに叩き起こされ、王侯貴族もびっくりの無茶振り朝食を作らされ、世紀末覇者のようなファッションセンスを軌道修正し、言うことを聞かないアホ毛と格闘する。昼は昼で、秘密の弁当を運び屋のように届け、その食べっぷりにツッコミを入れ、新たな無茶振りを突きつけられる。


 これが、毎日。

 卒業するまで、毎日続くというのか。


 考えただけで、目の前が真っ暗になる。俺が望んでいたのは、誰の記憶にも残らない、空気のような高校生活だったはずだ。それがどうして、学園の頂点に君臨するラスボスのお母さんみたいな役割をやらされているんだ。人生、どこで選択肢を間違えた。


 そんな、灰色がかった俺の思考を中断させたのは、ポケットの中のスマートフォンが発した、ぶ、という短い振動だった。

 授業中にスマホをいじるなんて、俺の信条に反する行為だ。だが、その通知の送り主には、心当たりがありすぎた。嫌な予感しかしない。俺は、教師の目を盗んで、机の下でそっと画面を確認した。

 メッセージアプリのトーク画面。送り主は、もちろん『天上院ユウカ』。そこに表示されていたのは、もはや見慣れた、一方的な業務命令だった。


『業務命令。放課後、私の私服選定任務に同行せよ。場所は追って指示する。拒否権はないものと心得るように』


 ……やっぱりか。


 俺は、誰にも聞こえないように、しかし、腹の底からの深いため息を、マスクの下でゆっくりと吐き出した。私服選定任務、だと?彼女の程の身分だ。その必要性は分かる。分かるが、なぜ、その大役を俺が担わなくてはならないのか。

 俺だって、ファッションに詳しいわけじゃない。そこら辺にいる、ごく普通の男子高校生だ。ノーブランドの服で、十年間は余裕で戦える。そんな俺に、天上院財閥のご令嬢の私服を選べというのか。無理難題にもほどがある。


 だが、契約は契約だ。あの、悪魔のような契約書に『甲が必要と認める一切の事項』と、はっきりと書かれていた。そして、今の会長は、俺によるコーディネートを『必要』だと、心の底から認めているに違いない。

 俺は、力なくスマートフォンの画面をオフにすると、再び窓の外に視線を戻した。さっきまで流れていた雲は、いつの間にか、どこかへ消えてしまっていた。



 放課後を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、俺は通学鞄をひっつかみ、教室を飛び出した。一刻も早く、この『任務』とやらを終わらせて、家に帰りたい。その一心だった。会長から指定された待ち合わせ場所は、校門の前。ただでさえ目立つのに、なぜそんな衆人環視の場所を選ぶのか。この人の感覚は、本当に理解できない。

 俺が校門にたどり着くと、そこには、すでに彼女が立っていた。放課後のざわめきの中、一人だけ、そこだけ空気が違うような、凛とした様子。すれ違う生徒たちが、皆、憧れの眼差しで彼女を遠巻きに見ている。


「遅いじゃない、飯田くん。私の時間は、一秒あたり数億円の価値があるのよ」

「すみません、教室がここから一番遠いんで。それで、どこに行くんすか、その『任務』とやらは」

「決まっているでしょう。庶民の文化を知るためには、まず、その中心地に赴くのが定石よ。流行の発信地、シブヤに向かうわ」


 会長は、さも当然のように言い放った。

 それにしても、流行の発信地とは、いつの時代の表現だろう。やはり、会長はネットの情報を鵜呑みにしているのだろうか?


 まあ、俺としても、人混みが苦手なので、正直、よく知らないし、あまり行きたくはない。

 あそこは、人間のるつぼだ。俺のような『ぼっち』が、一人で足を踏み入れていい場所ではない。

 しかし、命令だ。


「……はぁ。分かりましたよ。行きましょう、さっさと」


 俺たちは、二人並んで駅へと向かう。道中、他の生徒からの視線が、背中に突き刺さるのを感じる。


『え、あれ、天上院会長じゃね?』

『隣にいる男、誰だ? 見たことない顔だけど』

『ていうか、あの二人、なんで一緒に歩いてんの?』


 ひそひそと交わされる会話が、嫌でも耳に入ってくる。やめてくれ。俺の平穏を、これ以上脅かさないでくれ。


「なあ、会長」

「何かしら?」

「だから、こうなるって言ったじゃないですか。明日には、俺と会長が付き合ってるって噂が、学園中を駆け巡ってますよ」

「あら、それは好都合じゃない」

「どこがですか! 俺の迷惑も少しは考えてください!」

「まったく、悲観的な人だこと。私の恋人だと思われたい、という方は、この世に星の数ほどもいるのよ?すこしは喜んだらどうかしら?」


 会長は、ふふん、と得意げに笑った。

 はぁ、この人は、本当にどこまでも自分本位だ。

 電車に乗り込むと、夕方のラッシュが始まりかけていて、車内はそれなりに混雑していた。俺たちは、なんとかドアの近くにスペースを見つける。


「うっ……! な、何なの、この人口密度は……! パーソナルスペースという概念が存在しないのかしら!」


 人に押され、俺の背中にぴったりとくっつくような体勢になった会長が、悲鳴のような声を上げた。


「満員電車なんて、こんなもんですよ。我慢してください」

「我慢ですって!? 天上院家の人間は、生まれてこの方、我慢という言葉を知らずに生きてきたのよ!」

「じゃあ、今日、覚えて帰ってください」


 俺が冷たく言い放つと、会長は「むうう」と、不満げに頬を膨らませた。そんなやり取りをしているうちに、電車が大きく揺れる。


「きゃっ!」


 体勢を崩した会長が、俺の背中に、ドン、と全体重を預けてきた。柔らかい感触と、シャンプーの清潔な香りが、ダイレクトに伝わってくる。


「……っ! す、すみません、会長! 大丈夫ですか!?」

「だ、大丈夫よ! こ、これは、不可抗力なのだから、しょうがないことなのよ!」


 顔を真っ赤にして、しどろもどろになっている。

 この人、こういうことには耐性がないらしい。少しだけ、可愛いと思ってしまった自分を、ぶん殴ってやりたい。

 目的の駅にたどり着き、ホームに降り立つと、そこはもう、人、人、人の洪水だった。


「ひっ……!」


 人の波に飲まれそうになり、会長が、俺の制服の裾を、ぎゅっと掴んだ。


「は、はぐれないように、だから……! べ、別に、あなたに頼っているわけではないのだからね!」


 必死に言い訳をしているが、その顔は明らかに怯えている。仕方ない。この人を、この人混みの中に放置したら、五秒で迷子になるだろう。


「……分かりましたから、しっかり掴まっててください」


 俺は、ため息をつきながら、人波をかき分けるように、ゆっくりと歩き始めた。



「それで、会長。具体的に、どんな服が欲しいんですか?」


 スクランブル交差点を渡り、巨大なファッションビルの中に入ると、俺は尋ねた。


「ふん。そんなもの、決まっているわ。私にふさわしい、最も合理的で、かつ、私の魅力を最大限に引き出す、究極の一着よ」

「だから、それがどんな服なんだって聞いてるんです」

「あなたに、私の私服に関する全権限を委譲するわ。私のポテンシャルを、120パーセント引き出すような、最高のコーディネートを提案しなさい」


 ……丸投げかよ。

 この人、自分で服を選ぶ気、ゼロだ。俺は、天を仰ぎたくなった。


「はぁ……。じゃあ、とりあえず、あそこの店、入ってみますか」


 俺が指さしたのは、若い女性に人気の、比較的、値段も手頃なカジュアルブランドのショップだった。


「なっ……! こ、こんな、庶民的な店に入るというの!? 私の服は、いつもパリの専属デザイナーが、私のためにだけデザインした一点物なのよ!」

「そんな服、普段着にできるわけないでしょうが。いいから、入りますよ」


 俺は、文句を言う会長の腕を引っ張り、半ば強引に店の中へと入った。店内には、色とりどりの服が、所狭しと並べられている。


「うわあ……。何なの、この、統一性のない色の洪水は……。私の目が、チカチカするわ……」


 会長は、初めて見る光景に、完全に気圧されているようだった。


「会長、とりあえず、これとかどうですか?」


 俺は、マネキンが着ていた、白いワンピースを指さした。シンプルで、清楚なデザイン。会長の雰囲気に、よく合っていると思った。


「……ふむ。悪くはないけれど、少し、防御力に欠けるのではないかしら」

「防御力って、何と戦うつもりなんですか」

「この記事によれば、現代社会は、見えない敵との情報戦の連続。肌の露出は、すなわち、敵に弱点を晒すことと同義なのよ」


 この人の頭の中は、一体どうなっているんだ。


「じゃあ、こっちの、パンツスタイルは?」

「悪くないわ。機動性も高そうだし。でも、色が地味すぎるわね。これでは、その他大勢に紛れてしまうわ。私は、常に中心で輝いていなければならない存在なのよ」


 ……面倒くさい。

 何を提案しても、ああ言えばこう言う。これでは、埒が明かない。


「……分かりました。じゃあ、会長が、自分で『これだ!』と思う服を、一枚、選んできてください。俺が、それを基に、コーディネートを考えますから」


 俺がそう言うと、会長は、待ってましたとばかりに、目を輝かせた。


「よろしい。ならば、私のセンスを、あなたに見せつけてあげるわ!」


 会長は、そう宣言すると、獲物を見つけたハンターのように、店内を物色し始めた。そして、数分後。


「見つけたわ、飯田くん! これこそ、私のための服よ!」


 会長が、満面の笑みで、俺の前に突き出してきた服。

 俺は、それを見た瞬間、あまりの衝撃に、言葉を失った。


 それは、全身がギラギラと光り輝く、金色のスパンコールで覆われた、ド派手なパーカーだった。フードの部分には、なぜか猛禽類のものと思われる、巨大な羽が取り付けられている。


「……会長。それ、本気で言ってます?」

「当然よ! ゴールドは、富と権力の象徴! そして、この羽! 天高く舞い上がる、私の未来を暗示しているかのようじゃない! これぞ、論理と感性が融合した、至高のデザインよ!」


 ダメだ。やっぱり、この人に任せたらダメだ。今朝の悪夢が、再び繰り返されるところだった。


「……却下です」

「なっ……!? なぜよ!? 私の申し分ないチョイスの、どこに不満があるというの!?」

「全部です。そんなの着て外を歩いたら、カラスに仲間だと思われて、襲撃されますよ」

「ぐぬぬ……。また、鳥……。なぜ、私の論理は、いつも鳥類に邪魔をされるのかしら……」


 本気で悔しがっている。俺は、もう、ツッコミを入れる気力も失せていた。


「いいですか、会長。服っていうのは、足し算じゃなくて、引き算なんです。会長の場合、元がいいんだから、ごちゃごちゃ飾り立てる必要はないんです。もっと、シンプルなものを選びましょう」

「しんぷる……」

「そう、シンプル。例えば……これとか」

 俺は、ハンガーにかかっていた、一枚のブラウスを手に取った。淡い水色の上品なデザインだ。


「これに、こっちの白いスカートを合わせれば、爽やかで、会長の知的な雰囲気に、ぴったりだと思いますけど」

「……」


 会長は、俺が選んだ服を、じっと見つめている。その表情は、どこか不満そうでもあり、それでいて、少しだけ、興味を惹かれているようにも見えた。


「……あなたが、そこまで言うのなら、試着くらいは、してあげなくもないわ」


 会長は、ぶつぶつと文句を言いながらも、俺が選んだ服を持って、試着室へと消えていった。

 俺は、その場に残り、彼女が出てくるのを待つ。なんだか、ものすごく、気まずい。女性向けの服屋で、一人、突っ立っている男子高校生。周りからの視線が痛い。


 そして、数分後。


「……着替えてみたわよ」


 試着室のカーテンが、シャッ、と音を立てて開く。

 そこに立っていた会長の姿に、俺は、思わず、息をのんだ。


 淡い水色のブラウスが、彼女の透き通るような白い肌を、より一層、引き立てている。

 ふわりと広がる白いスカートは、彼女の細い腰と、すらりとした脚のラインを、美しく見せていた。

 いつもはきっちりと結い上げられている髪を、今日は下ろしているせいか、普段の威圧的な雰囲気は消え、代わりに、どこか儚げで、可憐な印象さえ受ける。


「……ど、どうなのかしら……? やっぱり、地味すぎない……?」


 会長は、不安そうな瞳で俺の顔を上目遣いに見てくる。

 自分のスカートの裾を指で、ちょん、とつまんでいる。その動きが可愛い。


「……いや」


 俺は、なんとか喉の奥から声を絞り出した。


「めちゃくちゃ、似合ってます。その方がさっきの金色のやつより百億倍はいいです」


 俺が、正直な感想を口にすると、会長の白い頬が、ぽっ、と、夕焼けのような色に染まった。


「そ、そう……!」


 ぷいっ、と、そっぽを向いてしまう。耳まで真っ赤になっている。

 ああ、もう。この人は本当に。


「……じゃあ、それ、買いましょう」

「え、ええ。あなたが、そこまで言うのなら、仕方ないわね。買ってあげるわ」


 なんだかんだで、満更でもない様子だ。

 こうして、俺の、初めての『スタイリスト』としての任務は、なんとか、成功裏に終わったのだった。



 会計を済ませ、店の外に出る。外は、すっかり暗くなり始めていた。


「ふう……。疲れたわ。庶民の買い物というのは、かくも体力を消耗するものなのね」


 会長は、買ったばかりの服が入った紙袋を、大事そうに胸に抱えながら、大きなため息をついた。


「お疲れ様です。じゃあ、これで、今日の任務は完了、ということで、いいですかね?」


 俺がそう言うと、会長は、何かを思い出したように、俺の顔をじっと見つめてきた。


「いいえ、まだよ」

「ええっ!? まだ、何かあるんですか!?」

「当然でしょう。私に、これだけの労働を強いたのだから、その対価をきっちり払ってもらわなければ」

「なんで俺が払うんですか! 逆でしょうが!」

「うるさいわね。いいから、ついてきなさい」


 会長は、そう言うと、ずんずんと、どこかへ歩き始めてしまった。俺は、慌てて、その後を追いかける。

 連れてこられたのは、駅前の洒落たカフェだった。


「ほら、入りなさい。私が、特別に、あなたにお茶を奢ってあげるわ」


 会長は、ふん、と胸を張って、そう言った。

 席に着き、メニューを開く。ケーキセットのやたらと高い値段に俺は目を見張った。


「会長、俺、別に、コーヒーだけで……」

「黙りなさい。あなたは、今日、よく働いたわ。だから、好きなものを選びなさい。これは、主からの褒美よ」


 どこまでも偉そうだ。

 それに主って、なんだ?

 俺たちは、それぞれケーキと紅茶を注文し、運ばれてくるのを待つ。窓の外は、もう完全に夜だ。街の光が、きらきらと輝いている。


「……飯田くん」


 不意に、会長が、俺の名前を呼んだ。


「はい」

「その……今日は、ありがとう。あなたのおかげで、少しだけ、庶民の文化を理解できた気がするわ」


 会長は、少し照れくさそうに、そう言った。


「……別に、たいしたことはしてませんよ」

「いいえ。あなたは、たいしたことをしたわ。私の、新しい可能性の扉を開いてくれたのだから」


 そんな、大げさな。

 俺は、なんだか、むず痒いような気持ちになって、紅茶のカップに視線を落とした。


 やがて、運ばれてきたケーキを、会長は、美味しそうに頬張っていた。

 やはり、彼女は食べている姿が様になる気がした。


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