第三話:初めてのお仕事
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ!
電子音による、無機質で暴力的な響きが、俺の浅い眠りを強引に引き剥がした。
薄暗い部屋。カーテンの隙間から漏れ入るわずかな光は、まだ青白く、世界の始動を拒んでいるかのようだ。俺は重力に逆らうように、その重い右腕を伸ばし、枕元で喚き散らすスマートフォンのアラームを停止させた。
画面に表示された時刻は、午前五時三十分。
高校生が起きる時間としては、あまりにも早すぎる。本来であれば、あと一時間以上は布団という名の聖域で微睡み、夢と現実の狭間にいられるはずの時間だ。二度寝への強烈な誘惑が、俺の脳髄を甘く痺れさせる。
だが、今の俺に『二度寝』などという権利は存在しない。
意識が覚醒すると同時に、昨日の記憶が濁流のように脳内へとなだれ込んできた。
昨日――あの放課後の生徒会室。カップ麺の作り方すら知らなかったポンコツ生徒会長、天上院ユウカ。そして、彼女の秘密を守る対価として結ばされた、現代社会の法治国家とは思えぬ『秘密保持及び奉仕に関する契約書』。
マジで夢であってくれ。
そう願いながら、俺はスマートフォンの画面をスワイプし、メッセージアプリを開いた。そこには、昨夜のうちに「甲(天上院ユウカ)」から送りつけられた、冷酷無比な業務命令が鎮座していた。
『業務命令:明朝七時、指定座標に速やかに出頭せよ。遅刻は万死に値すると心得るように』
添付された地図データが指し示す場所は、俺の住むアパートから電車とバスを乗り継いで一時間以上かかる、都内屈指の高級住宅街だ。
夢ではなかった。これは、逃れようのない現実だ。
俺の信条である『面倒なことからは逃げる』は、もはや過去の遺物となり果てた。今の俺は、彼女という巨大な『面倒事』に、真正面から突っ込んでいかなければならない。
俺は深く、肺の中の空気をすべて吐き出すようなため息をつくと、のろのろとベッドから這い出した。
「……行くしかねえか」
狭いワンルームに響いた独り言は、誰に届くこともなく、虚しく消えた。
早朝の電車は空いていたが、俺の心は満員電車のように息苦しかった。
車窓を流れる景色が、徐々に庶民的な住宅街から、整然とした都会の街並みへ、そして緑豊かな高級住宅街へと変わっていく。それはまるで、俺が住む世界とは異なる、別のレイヤーへと移動しているかのようだった。
バスを降りると、そこはもう異世界だった。
道路の舗装一つとっても、アスファルトのきめ細やかさが違う気がする。歩道にはゴミ一つ落ちておらず、街路樹はミリ単位で剪定されているのではないかと疑うほど整っている。立ち並ぶ家々は、一軒一軒が美術館か大使館のような威容を誇り、表札を見るまでは個人の住宅だとは信じられないレベルだ。
そんなハイソサエティな空間を、俺は安物のスニーカーで歩く。場違い感などという生易しいものではない。RPGの初期装備のまま、ラスボスの城下町に迷い込んだ村人の気分だ。
そして、俺はついにその『魔王城』の前に立った。
スマートフォンのナビが「目的地に到着しました」と告げるのと同時に、目の前に現れたのは、巨大な石造りの門だった。
見上げるほどの高さがある門柱には、金色のプレートで『天上院』と刻まれている。門の奥に見えるのは、家ではなく、森だ。広大な敷地の中に手入れされた木々が茂り、その奥に、西洋の宮殿を思わせる白亜の建物が鎮座している。
俺は震える指で、門柱に埋め込まれたインターホンのボタンを押した。
ピーンポーン、と、やけに格調高いチャイム音が響く。
『……誰かしら』
数秒後、スピーカーから聞こえてきたのは、微かに眠気を帯びた、しかし凛とした響きを残す声だった。
「あ、あの、飯田です。契約に従い、出頭しました」
『ああ、飯田くん。時間厳守、感心ね。褒めてあげるわ』
上から目線の賞賛と共に、ガチャン、ゴゴゴゴ……と重低音を響かせて、巨大な鉄の門が自動で開き始めた。
『入りなさい。玄関は開けてあるわ』
俺は意を決して、天上院家の敷地へと足を踏み入れた。
砂利が敷き詰められたアプローチを歩く。その一歩一歩が、俺の平穏な日常との決別を告げるカウントダウンのように感じられた。
玄関ホールは、俺のアパートが三つくらい入りそうな広さだった。天井にはシャンデリアが輝き、壁には本物かどうかも分からない絵画が飾られている。
そんな煌びやかな空間の中心に、彼女は立っていた。
「おはよう、飯田くん。正確な到着ね」
天上院ユウカ。
普段、学校で見せる完璧な制服姿ではない。光沢のあるシルクとおぼしきパジャマの上に、ふわふわとしたガウンを羽織っただけの姿だ。艶やかな黒髪は無造作に下ろされ、頭頂部には見事なアホ毛が一本、アンテナのようにピンと立っている。
その隙だらけの姿に、俺は一瞬だけ、毒気を抜かれたような気分になった。
「おはようございます、会長。それで、早速ですが本日の業務内容のご指示を」
「ええ、急いでちょうだい。時は金なり、よ」
会長はガウンの裾をひるがえし、リビングの方へと歩き出した。
「まず第一のミッションは、朝食よ」
彼女は振り返りもせずに言い放つ。
「あなたの存在価値は、まず私の胃袋を満たすことで証明されるわ。今日の朝食、私の期待を上回る最高の逸品を提供しなさい」
出た。昨日の今日で、いきなりの無茶振りだ。
「はあ……。ご希望のメニューなどは?」
「抜かりはないわ。昨夜、ネットの海を回遊し、現代の帝王学にふさわしい、最強の朝食メニューを構築しておいたもの」
嫌な予感しかしない。ネットの情報を鵜呑みにするこの人のことだ、ロクなものではないだろう。
会長はリビングのソファにドサリと座り込むと、スマートフォンを俺の顔の前に突きつけた。
「今日の朝食コンセプトは、『覚醒せよ、我が肉体! ~王の凱旋モーニング~』よ!」
「……ネーミングセンスについてはノーコメントで。具体的には?」
「これよ!」
画面に表示されていたのは、どこかのグルメサイトのまとめ記事だった。『成功者は朝から肉を食らう!』『脳を活性化させる至高の食材リスト』といった、いかにもな煽り文句が並んでいる。
「まずメインディッシュは、A5ランク黒毛和牛の厚切りステーキを乗せた、特製ガーリックバター醤油丼! 昨日の夜から、これが食べたくて仕方がなかったのよ!」
「……朝からステーキ丼ですか。胃もたれ確定ですね」
「何を言うの。肉のタンパク質こそが、戦う私のエネルギー源よ。次に、日本人の魂を揺さぶる、十五種類の具材が入った豚汁! これは必須ね。さらに、私の美貌を維持するためのコラーゲン源として、手羽先の唐揚げを山盛りで! ああ、そうだわ、箸休めにフランス産のフォアグラのソテーも欲しいわね。デザートは、高級マスクメロンを丸ごと一つ使ったフルーツパフェで決まりよ!」
俺は開いた口が塞がらなかった。
王の凱旋というか、それはただの暴食だ。成長期の運動部員でも、朝からそこまでは食わない。
「会長、正気ですか? そんなフルコース、準備するだけで二時間はかかりますよ。それに、朝からそんな脂っこいものを……」
「『朝食は王のように、昼食は貴族のように、夕食は貧者のように』という言葉を知らないのかしら? ならば、私は毎朝、王として君臨しなければならないのよ! さあ、ぐずぐずしていないで、さっさと厨房へ向かいなさい、私のシェフよ!」
格言の使い方が間違っている気がするが、今の彼女に何を言っても無駄だろう。その瞳は、空腹と期待でギラギラと輝いている。
俺は小さく溜息をつくと、覚悟を決めた。
「……分かりましたよ。やりますよ、やればいいんでしょう」
案内されたキッチンは、もはや「厨房」と呼ぶべき空間だった。
アイランド型の巨大な作業台。壁一面に整然と並べられた調理器具。そして、ブウウンと低い音を立てる業務用の冷蔵庫。
「冷蔵庫の中身は、あなたの裁量で自由に使って構わないわ。私の舌を唸らせる、至高の一皿を期待しているわよ」
俺はお借りしたエプロンを締め、冷蔵庫の重い扉を開けた。
そこには、俺の予想をはるかに超える光景が広がっていた。
桐箱に入った牛肉、木箱に鎮座するメロン、見たこともないようなラベルの貼られた調味料の数々。スーパーの特売品で生きている俺には、眩しすぎる食材たちだ。
だが、不思議と怖気づくことはなかった。むしろ、料理好きとしての血が騒ぐのを感じる。これだけの食材を使える機会など、一生に一度あるかないかだ。
『やるべきことは、きっちりこなす』
俺は己の信条を胸に、食材を次々と作業台へと並べた。
まずは米だ。最高級の魚沼産コシヒカリを研ぎ、土鍋にセットする。炊飯器もあるが、これだけの米なら直火で炊き上げた方が美味い。
次に豚汁。冷蔵庫にあった大根、人参、ごぼう、里芋、こんにゃく……手当たり次第に野菜を取り出し、包丁を握る。
トントントントン!
軽快なリズムが、静まり返った豪邸のキッチンに響き渡る。切れ味抜群のドイツ製高級包丁は、まるで食材に吸い込まれるように刃が入っていく。
野菜を胡麻油で炒め、香ばしい香りが立ってきたところで出汁を注ぐ。出汁はもちろん、昆布と鰹節から丁寧に取った一番出汁だ。
煮込んでいる間に、手羽先の下処理だ。関節に包丁を入れ、食べやすいように開く。醤油、酒、生姜、にんにくを揉み込み、片栗粉をまぶして高温の油へ投入。
ジュワアアアアッ!
激しい音と共に、香ばしい肉の香りが立ち上る。
そしてメインイベント、A5ランク黒毛和牛。見事なサシが入ったその肉塊に、荒塩と黒胡椒を振り、熱した鉄のフライパンへ。
ジューッ!
暴力的なまでの脂の香りが、キッチンを支配する。表面をカリッと焼き固め、中はロゼ色のミディアムレアに。溢れ出た極上の脂で、フォアグラも一気に焼き上げる。
最後に、肉汁の残ったフライパンに醤油、みりん、赤ワイン、そしてたっぷりのバターとガーリックを投入し、特製ソースを作る。
炊き上がった土鍋の蓋を開けると、真っ白な湯気と共に、銀色に輝く米粒が顔を覗かせた。
「よし……」
丼に白飯をよそい、ステーキとフォアグラを豪快に乗せ、ソースを回しかける。仕上げに万能ねぎを散らし、ガーリックチップをトッピング。
完成だ。
ダイニングテーブルに、所狭しと並べられた料理の数々。
湯気が立ち上るステーキ丼、具沢山の豚汁、山盛りの手羽先、そしてデザートのメロンパフェ。
ソファで待ち構えていた会長は、その光景を見るなり、目を丸くして立ち上がった。
「こ、これが……! 私が夢にまで見た、王の食卓……!」
彼女はふらふらとテーブルに近づき、席に着くのももどかしげに箸を手に取った。
「い、いただきます!」
まずはステーキ丼。分厚い肉を一切れ掴み、口へと運ぶ。
瞬間、彼女の動きが止まった。
「……んっ……!?」
時が止まったかのような静寂。そして次の瞬間、彼女はテーブルをバン! と叩いた。
「うまあああああああいっ!!」
屋敷中に響き渡るような絶叫だった。
「なんなのこれは! 私の舌が、喜びのあまりサンバを踊っているわ! 噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁と、濃厚なガーリックバター醤油のハーモニー! それを白米が優しく受け止めて、口の中でビッグバンを起こしているじゃないの!」
表現が壮大すぎる。
次に豚汁を啜る。
「はふっ……熱っ……でも、美味しい……! 野菜の甘みが全て出汁に溶け込んで、五臓六腑に染み渡るわ……。これが、日本の夜明けぜよ……!」
今度は歴史上の偉人まで飛び出した。
彼女はもう、止まらなかった。山盛りの手羽先を指先を脂まみれにしながら貪り食い、フォアグラの濃厚さに身悶え、合間に白飯をかっこむ。
その姿に、深窓の令嬢としての面影は微塵もない。そこにいるのは、ただただ食欲に忠実な、一人の腹ペコな女子高生だった。
あれだけの量を、彼女は驚くべきスピードで平らげていく。見ていて気持ちがいいほどの食べっぷりだ。
最後にメロンパフェを別腹とばかりに完食すると、彼女は「ぷはーっ!」と豪快に息を吐き、背もたれに身を預けた。
「参ったわ、飯田くん。あなた、ただの高校生ではないわね。特級呪物ならぬ、特級シェフだったとは! この満足感、まさに王の凱旋にふさわしいわ!」
「それはどうも。お粗末さまでした」
俺が食器を片付けようとすると、会長が鋭い声で呼び止めた。
「待ちなさい。まだ終わりではないわ」
「え? まだ食べるんですか?」
「違うわよ。次は身支度よ。学校へ行く準備をしなさい」
会長は一度自室へ戻り、制服に着替えて戻ってきた。
陽寧学園の制服。ブレザーにチェックのスカートというオーソドックスなスタイルだが、彼女が着ると、まるでブランド物のオートクチュールのように見えるから不思議だ。サイズ感も完璧で、着こなしに一分の隙もない。
……はずだった。
「会長」
「何かしら? 完璧でしょう?」
彼女は自信満々に胸を張って見せるが、俺は無言で彼女に近づいた。
「リボン、曲がってます」
「えっ?」
首元のリボンが、微妙に右に傾いている。さらに言えば、ブレザーの襟も片方だけ内側に折れ込んでいる。
「じっとしててください」
俺は彼女の前に立ち、襟を直し、リボンの結び目を整えた。ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐる。至近距離で見ると、その肌の白さや睫毛の長さに、改めて驚かされる。黙っていれば、本当に完璧な美少女なのだ。
「……ん、んんっ。わ、私は、細かいことにはこだわらない主義なのよ」
会長は顔を少し赤くして、言い訳のように呟いた。
「だとしても、生徒会長がだらしない格好をしてたら示しがつかないでしょう」
「む……正論ね」
「それと、一番の問題はこれです」
俺は視線を上に向けた。
頭頂部に君臨する、あの一本のアホ毛だ。さっきよりも元気に天を向いている気がする。
「この私の意志に反して天に向かおうとする反逆者ね。毎朝戦っているのだけれど、なかなかしつこいのよ」
「俺がやります。そこに座ってください」
俺は彼女をドレッサーの椅子に座らせ、ブラシと整髪料を手に取った。
絹のように滑らかな黒髪。ブラシを通すたびに、サラサラと心地よい音がする。俺は丁寧に髪を梳かし、頑固なアホ毛を温風と冷風を使い分けながら、周囲の髪と馴染ませていく。
鏡越しに、会長がじっと俺の手元を見つめているのが分かった。
「……あなた、本当に器用ね。私の専属美容師も顔負けだわ」
「……まあ、慣れですよ」
数分後、アホ毛は完全に鎮圧され、彼女の髪は完璧なシルエットを取り戻した。
「よし、これで完璧です」
「ありがとう。……悪くないわね」
会長は鏡の中の自分を見て、満足げに微笑んだ。その笑顔は、普段の威圧的なものとは違い、年相応の少女のようで、俺は少しだけドキリとしてしまった。
「さあ、行きましょうか。飯田くん」
彼女は立ち上がり、鞄を手にした。
「はい。駅まで歩きますか?」
俺が何気なく尋ねると、会長はきょとんとした顔でこちらを見た。
「歩く? 何を言っているの?」
「え? いや、学校に行くんでしょう? ここから駅までバスで……」
「飯田くん。一つ教えてあげるわ」
会長は不敵な笑みを浮かべ、人差し指をチッチッと振った。
「王には、王の方法があるのよ」
「は?」
彼女は玄関の扉を開け放った。
朝の眩しい光が差し込む。その光の中に、とんでもないものが鎮座していた。
それは、車というよりは、黒塗りの戦艦だった。
玄関の真ん前に横付けされた、威圧感たっぷりの超高級リムジン。エンブレムを見るまでもなく、家が一軒買える値段だということは分かる。ボディは鏡のように磨き上げられ、周囲の景色を映し出している。
運転席のドアが開き、黒いスーツを着た白髪の老紳士が降りてきた。彼は流れるような動作で後部座席のドアを開け、恭しく頭を下げた。
「お嬢様、ご準備は整いましたかな」
「ええ、ありがとう。……さあ、乗りなさい、飯田くん」
会長はさも当然のように俺を促す。
「いやいやいや! 待ってください! これで行くんですか!? 学校に!?」
「当然でしょう? 今日の朝食で摂取したエネルギーを、通学ごときで浪費するわけにはいかないわ。私のリソースは、全て生徒会の運営と日本の未来のために使われるべきなの」
「目立ちますよ! 悪目立ちしすぎますよ!」
「目立つ? 当然ね。天上院家の人間が動くのよ。世界が注目するのは理の当然だわ」
ダメだ、話が通じない。
「ほら、早くしなさい。遅刻するわよ」
会長に背中を押され、俺は抵抗むなしく、その黒塗りの要塞へと押し込まれてしまった。
リムジンの車内は、別世界だった。
足元はふかふかの絨毯。シートは最高級のレザーで、座った瞬間に体が包み込まれるような座り心地だ。広さは俺の部屋の半分くらいはあるんじゃないだろうか。
運転席とはガラスのパーティションで仕切られており、完全なプライベート空間が保たれている。サイドの棚にはミネラルウォーターやグラスが並び、小型のモニターまで設置されていた。
「……快適でしょう?」
向かいの席に座った会長が、優雅に脚を組みながら言った。
「快適すぎて怖いです。俺みたいな庶民が乗っていい車じゃないですよ、これ」
「慣れなさい。これから毎日、この車で通うことになるのだから」
「毎日!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「ええ。あなたには私の『お世話係』として、登校中も私のスケジュール確認や、今日の課題のチェックを行ってもらう必要があるわ。電車の中では機密保持が難しいでしょう?」
「だからって、リムジンである必要は……」
「静粛性、安全性、そして作業効率。全ての面において、この選択が最も論理的で合理的よ」
会長は持論を展開しながら、ひょいとスマホを取り出した。
「さあ、まずは今日の予定を確認するわよ。飯田くん、そこの冷蔵庫から私の水を出してちょうだい。常温の方よ」
「……はいはい」
俺は言われるがままにミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いで渡した。
車は、スイスイと走り出した。
驚くべきことに、振動がほとんどない。窓の外の景色だけが後方へと飛び去っていく。防音ガラスのせいで、外の喧騒は一切聞こえない。まるで、移動する執務室だ。
窓の外を見れば、満員電車に揺られるサラリーマンや、自転車を必死に漕ぐ学生たちの姿が見える。ガラス一枚隔てた向こう側は、俺がよく知る日常だ。
けれど今、俺はこの非日常の空間に閉じ込められ、学園の支配者とお茶を飲んでいる。
この圧倒的な格差。そして、それを『普通』と言い切る彼女のズレた感覚。
俺は、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったのだと、改めて痛感させられた。
「……ん? どうしたの、飯田くん。そんなに難しい顔をして」
会長が不思議そうに俺を覗き込んでくる。
「いえ……自分の人生について、深く考えていただけです」
「そう。思索に耽るのもいいけれど、手は動かしてちょうだい。今日の放課後の会議資料、まだ読み終わっていないの」
「はいはい」
車は都心を抜け、学校のある静かな文教地区へと入っていった。
そして、運命の時は訪れる。
陽寧学園の正門前。
登校時間のピークを迎えたその場所は、多くの生徒たちでごった返していた。徒歩の者、自転車の者、親の車で送られてくる者。
その日常の風景に、全長六メートルを超える漆黒のリムジンが、音もなく停車した。
「……会長。ここから俺が降りるのは、自殺行為です。裏口に回ってもらいませんか」
俺は最後の抵抗を試みた。
「何をコソコソする必要があるの? 正門から堂々と入る。それが王道よ」
会長は聞く耳を持たない。
そうこうしていると、運転手の老紳士が素早く降りてきて、後部座席のドアに手をかける。
ガチャリ。
重厚なドアが開かれた。
眩しい朝の光と共に、数百の視線が車内へと向けられる。
「さあ、行くわよ。エスコートしなさい、飯田くん」
会長は俺に向かって、当然のように手を差し出した。
俺は天を仰いだ。
もう逃げ場はない。
俺は覚悟を決め、震える手で彼女の手を取った。そして、彼女に続いて、車外へと足を踏み出した。
まず、会長が優雅に地面に降り立つ。
その瞬間、周囲の生徒たちの間には、さざ波のような感嘆が広がった。だが、それは驚きではない。
「あ、天上院会長だ」
「今日もリムジンか。すごいなぁ」
「絵になるよねぇ、毎朝」
俺は朝早く登校するタイプではないので、まったく知らなかったが、生徒会長たる天上院ユウカがリムジンで登校することは、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前の毎朝の恒例行事だったらしい。周囲にいる生徒たちは慣れた様子で、モーゼの十戒のように左右に割れて道を開ける。そこには、憧れと敬意、そして日常の風景としての受容があった。
――そう、俺が降りるまでは。
続いて、俺がその完璧な絵画の中に、異物として足を踏み入れた瞬間。
世界の色が変わった。
それまで流れていた穏やかな空気が、ピキリと凍りつき、直後、不穏なノイズへと変貌したのだ。
(……うわ、なんだあれ)
(会長の車から、なんか出てきたぞ)
(誰? 男? ていうか、あんな冴えないヤツがなんで?)
直接言われたわけではない。だが、俺の鼓膜には、周囲のひそひそ話が、悪意たっぷりの幻聴となって鮮明に届いていた。俺の被害妄想フィルターを通したその声は、容赦なく俺のメンタルを削りに来る。
『見なさいよ、あの美しいリムジンから、泥の付いたジャガイモが転がり落ちてきたわ』
『不敬罪よ。あんなモブが会長と同じ空気を吸うなんて、憲法で禁止されているはずだわ』
『きっと、会長の温情で拾われた迷い犬か何かよ。保健所に通報したほうがいいんじゃない?』
『いや、前世で世界でも救ったのか? それとも弱みを握って脅迫している凶悪犯か?』
好奇、困惑、そして明らかな拒絶。
突き刺さる視線の一つ一つが、俺を『異物』として検知し、排除しようとするセキュリティシステムのレーザー光線のように熱い。
彼らの目は口ほどに言っていた。「お前の居場所はそこじゃない」「画面の隅っこがお似合いだ」「調子に乗るなよ」と。
俺の存在とやらは、そう思われているに違いない。
「ごきげんよう、皆さん」
隣に立つ天上院ユウカは、そんな俺の精神的危機など微塵も感じ取っていない様子で、凛とした表情で微笑みかけている。
彼女が歩き出すと、生徒たちは敬意を持って道を空ける。
だが、その道は俺にとっては針のむしろだ。彼女の背後、ほんの半歩後ろを歩くだけで、俺の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていく。
胃が痛い。キリキリと音を立てて悲鳴を上げている。
俺の平穏な高校生活は、今この瞬間、音を立てて完全に崩壊したのだ。
リムジン登校という会長の『日常』は、俺という不純物が混ざったことで、全校生徒にとっての『異常事態』へと書き換えられてしまった。
そして、この針のむしろこそが、これから始まる波乱に満ちた日々の――ポンコツなお嬢様との関係の始まりなのだ。
「……帰りたい」
俺の魂からの呻きは、登校ラッシュの喧騒にかき消され、誰の耳にも、もちろん前を歩く女王様の耳にも、届くことはなかった。




