第二話:秘密保持契約(NDA)
「ええ。明日から、私の『お世話係』になりなさい」
……おせわがかり?
今、この人、なんつった?
俺の思考回路が、プツンと音を立ててショートするように感じた。
目の前には、聖母のような微笑みを浮かべた天上院ユウカ会長。
その後ろには、ついさっきまで彼女が格闘し、そして俺が正しく調理したカップ麺の残骸が、この世の真理のように鎮座している。あまりにも情報量が多すぎて、俺の脳の処理能力が追いついていなかった。
「えーっと……会長? すみません、ちょっと耳がバグったみたいで。もう一回、言ってもらってもいいですか?」
俺は、精一杯の愛想笑いを顔に貼り付けて、聞き返した。きっと何かの聞き間違いだ。そうに違いない。今日提出のレポートを忘れたり、人の秘密の現場に遭遇したりと、アンラッキーが続いたせいで、俺の耳もおかしくなったのだろう。
「仕方がないわね、飯田くん。一度しか言わないから、よく聞きなさい」
会長は、やれやれといった風に小さく首を振り、もう一度、はっきりと、そして丁寧に、俺の鼓膜にその言葉を叩き込んできた。
「明日から、あなたは私の『お世話係』よ。分かったかしら?」
分かったかしら? じゃねえよ。全然わからない。さっぱりわからない。一ミリも理解できない。
俺の信条は『面倒なことからは逃げる』だ。そして今、俺の目の前には、エベレスト級、いや、天の川銀河級の『面倒事』が、巨大な口を開けて俺を丸呑みにしようとしている。
「いやいやいや、待ってください会長! なんでそうなるんですか!?」
俺は思わず大声でツッコミを入れていた。もう平静を装っている場合じゃない。これは俺の平穏な高校生活の死活問題だ。
「どうして、ですって? 簡単な論理的帰結じゃない」
会長は、少し心外だと言わんばかりの表情で、俺の胸に突きつけていた人差し指をスッと下ろした。
「あなたは、私の秘密を知ってしまった。私が、カップ麺一つまともに作れないという、国家機密レベルの弱点を、あなたに握られてしまったのよ」
「いや、そんな大層なもんじゃないでしょうが! それに、言いませんって! 俺、友達いないんで、そもそも話す相手がいないんですよ! だから見逃してください!」
俺は頭を下げて必死に懇願する。そうだ、ぼっちであることの唯一のメリットを今こそ活用する時だ。
「口ではなんとでも言えるわ。もし、あなたが寝言で私の秘密を叫んでしまったら? それを家の人に聞かれたら? 考えただけでも恐ろしいわ。私の、天上院ユウカの名声は地に落ち、生徒からの信頼も失墜。そうなれば、この学園の秩序は乱れ、最終的には日本経済にまで深刻な影響を及ぼしかねないのよ」
「話が飛びすぎですよ! どんなドミノ倒しなんですか、それ!」
「可能性がゼロではない以上、リスク管理は徹底すべきだわ。だから、あなたを私の側に置いて、常に監視する必要がある。そして、あなたには秘密を守るという『義務』が発生した。その対価として、私の身の回りの世話をしてもらう。申し分ない等価交換だと思わない?」
どこがだよ。どういう計算をしたら、それがイコールになるんだ。俺の受けるデメリットが、メリットを大幅に上回って、大気圏を突破して、宇宙の果てまで飛んでいってしまいそうだ。
「全然思いません! 俺のメリット、どこにあるんですか!?」
「あるじゃない。あなたが私のお世話係になる、という寛大な措置。これ以上のメリットがあるかしら?」
それはメリットじゃなくて、脅迫っていうんですよ、会長。
俺はがっくりと肩を落とした。ダメだ、この人、話が通じない。理論武装しているように見えて、その実、言っていることは滅茶苦茶だ。だが、その瞳には有無を言わせぬ力がある。
「……具体的に、何をすればいいんですか……その、『お世話係』とやらは……」
俺は、半ば諦めの境地で、力なく尋ねた。これ以上抵抗しても無駄だということを、俺の本能が告げていた。
「そうね。まずは……食事の管理、かしら。今日の出来事でよく分かったわ。私は、致命的に食生活というものへの理解が足りていない。あなたの作る食事で、私の健康を管理しなさい」
「食事……って、毎日ですか?」
「当然よ。朝、昼、晩。三食きっちりとね」
「無茶苦茶だ! 俺はあんたの母親か!」
「あら、それもいいわね。時には、母親のような優しさで、私を包み込んでくれてもよろしくてよ?」
会長は、悪戯っぽく片目をつぶって見せた。その動きは、普段の彼女からは想像もできないほど蠱惑的で、俺は一瞬、言葉に詰まってしまった。いかんいかん、この人のペースに乗せられてはダメだ。
「とにかく三食は無理です! 俺にも俺の生活があるんで!」
「交渉の余地はあるわ。では、朝食と、昼のお弁当。これでどうかしら」
「それでも負担が大きすぎます!」
「そう? では、私があなたの『不注意』によって、どれだけ精神的苦痛を受けたか、という議題について、生徒会の予算委員会で審議にかけることになるけれど、それでも?」
「……やらせていただきます」
俺は、カエルの潰れたような声で、そう答えるしかなかった。この人は悪魔か。いや、悪魔の方がまだ慈悲深いかもしれない。
「よろしい。話が早くて助かるわ。次は、身だしなみね。私としたことが、今日の朝、靴下を左右違うブランドで履いてきてしまったのよ。あなたは、毎朝私の服装をチェックし、申し分ないコーディネートを提案する義務を負うものとするわ」
この人、本当に大丈夫か?完璧超人だと思っていた生徒会長は、その実、生活能力皆無の究極ポンコツだった。もはや、俺が抱いていた尊敬の念は、木っ端微塵に砕け散ってしまった。
「……はぁ。分かりました。他には?」
「スケジュール管理もお願いしたいわね。あなたは私の秘書として、全ての予定を把握し、リマインドしなさい」
「……」
「それから、休日の過ごし方についても、あなたに一任するわ。私は、庶民の文化というものに非常に興味があるの。あなたが、私を新たな世界へ導くのよ」
「……もう、なんでもありだな……」
俺は、天を仰いだ。生徒会室の白い天井が、やけに遠く感じられた。
こうして、俺の意思など完全に無視される形で、『秘密保持及び奉仕に関する契約』は、半ば強制的に締結されてしまったのだった。
◇
「では、まずは連絡先を交換しましょう」
会長はそう言うと、スマートフォンを手に取り、メッセージアプリの連絡先交換画面を、俺の目の前にスッと差し出す。
「ほら、早く」
「……はい」
俺は、もはや抵抗する気力も失せ、おとなしく自分のスマートフォンを取り出し、彼女のアカウントを読み込んだ。すぐに、ピコン、と軽い通知音が鳴る。画面には『天上院ユウカさんがあなたを友だちに追加しました』という、無機質な文字列が表示されていた。
間髪入れず、新たなメッセージが届く。
『天上院ユウカ:これで、いつでも連絡が取れるわね。よろしく、飯田くん』
やけに事務的で、しかし有無を言わせぬ圧を感じる文面だった。
「さて、と。最初の仕事よ。明日の朝、七時に私の家に来なさい」
「は!? あ、朝の七時!? 早すぎません!?」
「早いものですか。天上院家の朝は、小鳥のさえずりと共に始まるのよ。むしろ、七時では遅いくらいだわ」
「あんたん家の常識を俺に押し付けないでください! 大体、家ってどこなんですか!?」
「案ずることはないわ。今、地図情報を送ったから、確認なさい」
そう言われて、俺は自分のスマートフォンの画面に目を落とした。メッセージアプリに、確かに地図情報を示すリンクが送られてきている。俺は、嫌な予感を覚えつつも、そのリンクをタップした。
画面に表示された地図。そして、そこに突き刺さるように示された目的地を示すピン。その場所は、俺の家から電車を乗り継いで、さらにバスに乗らなければたどり着けないような、都内でも有数の超高級住宅街のど真ん中を指していた。
「……冗談ですよね?」
「私は、冗談を言う趣味はないわ」
会長は、きっぱりと言い切った。
「ああ、そうだわ。口約束だけでは心もとないわね」
会長は何かを思い出したように、再びスマートフォンのメモ機能を開き、驚異的な速さでフリック入力を始めた。
「こ、今度は何ですか……」
「契約書よ。こういうことは、きちんと書面で残しておくべきだわ」
そう言って、彼女は完成したばかりの『契約書』の文面を、俺に見せてきた。
『秘密保持及び奉仕に関する契約書
甲(天上院ユウカ)と乙(飯田カズキ)は、以下の通り契約を締結する。
第一条(目的)
本契約は、乙が偶然知り得た甲の極めて個人的かつ重大な秘密の保持を確実なものとし、その対価として乙が甲に対して誠心誠意奉仕することを目的とする。
第二条(乙の義務)
1.乙は、本件秘密を、甲の許可なく第三者に漏洩してはならない(寝言を含む)。
2.乙は、甲の指示に従い、甲の身の回りの世話(食事、服装、スケジュール管理、その他甲が必要と認める一切の事項)を行わなければならない。
3.乙は、甲からの連絡には、原則として三分以内に応答しなければならない。
第三条(甲の権利)
1.甲は、乙の奉仕内容が不十分であると判断した場合、乙に対して改善を要求できる。
2.甲は、本契約を、甲の一方的な意思表示により、いつでも解除できる。
第四条(契約期間)
本契約の期間は、甲が「もうよろしい」と満足するまでとする。
第五条(罰則)
乙が本契約に違反した場合、甲は乙に対し、甲が妥当と判断する一切の罰則(例:学園中庭でのポエム朗読、眉毛を半分剃る等)を科すことができる。
以上、本契約の成立を証するため、本書を作成し、甲乙それぞれがこれに同意するものとする。』
「……」
俺は、あまりにも本格的で一方的な内容に、言葉を失った。これは契約書じゃない。奴隷契約だ。
「第三条の二項と、第四条と、第五条が特におかしいでしょうが! 罰則の例が具体的すぎるんですよ! 俺に人権はないんですか!?」
「あら、見落としていたわ。ありがとう、飯田くん。確かに、これでは少し公平性に欠けるわね」
お、分かってくれたか。俺が少しだけ安堵した、その時だった。
「第三条に、もう一つ項目を追加しましょう。『3.甲は、乙の奉仕に対して、時折、心の中で感謝することがある』。これでどうかしら? あなたのモチベーション維持にも繋がるはずよ」
「そういう問題じゃねえ!」
俺の心の底からの叫びは、しかし、会長の涼やかな微笑みの前で、あっけなくかき消された。
「はい、じゃあ、この内容で同意する、と返信しなさい。それが、あなたの署名の代わりよ」
会長は、契約書の文面をメッセージアプリで俺に送りつけてきた。画面には、あまりにも無慈悲なテキストが並んでいる。俺は、しばらくの間、その画面と、目の前の生徒会長の顔を、交互に見つめていた。
だが、結局、俺に選択肢など残されていなかった。
『やるべきことは、きっちりこなす』
たとえ、それが理不尽な奴隷契約だったとしても、一度『やるべきこと』にカテゴライズされてしまった以上、俺はそれをこなすしかないのだ。
俺は、重いため息を一つ吐き出すと、スマートフォンの画面をタップした。
『飯田カズキ:……同意します』
俺は、そのメッセージを送信せざるを得なかった。




