第十九話:契約の終わり
背後で、重みのある扉が音もなく閉ざされた。
カチャリ、という乾いた音が廊下に広がっていく。その瞬間、俺の肺はようやく、止めていた呼吸活動を再開する権利を取り戻したようだった。
大きく、深く、息を吐き出す。それは安堵のため息というよりは、深海から生還したダイバーが海面で最初に吸う空気のように、生存本能に直結した切実なものだった。
隣に立つ天上院ユウカもまた、張り詰めていた緊張が切れたのか、がくりと膝を折った。
床に崩れ落ちそうになる彼女の身体を、俺は咄嗟に腕を伸ばして支える。
制服越しに触れた華奢な肩は小刻みに揺れており、指先からは彼女の体温が直に伝わってくる。先ほどまでの食事会――いや、実質的な査問会で見せていた、気丈に振る舞う『理想の娘』としての姿はもうどこにもない。そこにいるのは、ただの重圧から解放された、等身大の――会長だった。
「……終わった」
ユウカが、足元の絨毯に視線を落としたまま、掠れた声で呟く。
「ええ。終わりましたね。どうやら、俺たちは生きて帰れそうです」
俺は努めて軽口を叩こうとしたが、声に力が乗らない。全身の筋肉が乳酸に浸されたように重く、疲労を訴えている。たかだか一時間程度の食事だったはずなのに、フルマラソンを完走した直後のような気だるさが四肢を支配していた。
世界的なコングロマリットを率いる父親と、社交界の頂点に立つ母親。あの二人が放つ圧力は、目に見えない力となって俺たちにのしかかっていた。一言一句が地雷原を歩くような緊張感。視線一つ、所作一つで値踏みされる恐怖。
だが、俺たちは生き残った。
それどころか、交際を認めさせるという大金星を挙げてしまったのだ。
「カズキ……」
ユウカが俺の制服の袖を弱々しく掴む。
「私、肋骨の中身が口から飛び出して、コンソメスープの中で背泳ぎをするかと思ったわ」
「なんとも器用な臓器ですね。俺なんて、胃袋が裏返って食道からこんにちはしそうでしたよ」
「……ふふ。カエルかしら?」
会長の力のない笑い声。キレのない返し。
それでも俺たちは互いに支え合うようにして、長い廊下を歩き出した。
壁に飾られた歴代当主の肖像画たちが、どこか呆れたような顔で俺たちを見下ろしている気がする。
屋敷の使用人たちが、廊下の端に整列して頭を下げていた。
彼らの様子もまた、劇的に変化していた。屋敷に入った時に感じたような、異物を排除しようとする鋭さは消え失せ、代わりに敬意と、そして少しばかりの温かさが含まれていた。
俺があの場所で叫んだ言葉――不完全な会長を受け入れると宣言したあの言葉は、おそらく使用人たちのネットワークを通じて、既に屋敷中に伝播しているのだろう。
「お疲れ様でございました、飯田様」
玄関ホールで待っていた家令の老紳士が、深々と腰を折った。その声色は、これまで以上に柔らかく、そして親しみが込められていた。
「お車を正面に回しております。ご自宅までお送りしましょう」
老紳士の言葉に、俺は一度頷きかけたが、隣の気配が動いたのを感じて足を止めた。
ユウカが顔を上げていた。その瞳には、まだ少しだけ潤んだ光が残っているが、そこには回復しつつある彼女らしい個性があった。
「……歩くわ」
「お嬢様?」
「門まで、歩きたいの。夜風に当たりたい気分だわ」
彼女はそう言うと、俺の方を向いた。確認するように、あるいは同意を求めるように。
俺は無言で頷いた。
すぐに空調の効いた密閉空間に入るよりも、外の空気を肺いっぱいに吸い込みたかった。それに、このまま日常に戻るには、少しばかりのクールダウンが必要だ。今の俺たちの脳は、まだ非常事態モードから切り替わっていない。
「承知いたしました。では、門衛には開けておくよう伝えます」
家令は心得たように微笑み、重厚な玄関の扉を開け放った。
夜気が、肌を撫でる。
綺麗に整備された屋敷の庭の空気とは違う、土と草木の匂いを含んだ本物の夜の匂いだ。
俺たちは並んで外に出た。
頭上には、都会では珍しいほどに鮮明な星空が広がっている。
広大な庭園に敷き詰められた砂利のアプローチを、俺たちの足音が規則正しく刻んでいく。ジャリ、ジャリ、という音だけが、静寂な夜に吸い込まれていった。
俺はポケットに手を突っ込み、少しだけ猫背になって歩いた。
隣を歩くユウカとの距離は、拳一つ分ほど。
触れそうで触れない、絶妙な距離感。
食事会の最中は、テーブルの下でずっと手を繋いでいたというのに、解放された途端にどう接していいのか分からなくなる。
俺たちは、まだ『雇用主と使用人』なのだろうか。
それとも『偽の恋人』役を継続中なのだろうか。
あるいは――。
「……ねえ、カズキ」
しばらく歩いたところで、ユウカが口を開いた。視線は前を向いたままだ。
「さっきの、あれ」
「あれ?」
「お父様たちの前で、あなたが言ったことよ。『ポンコツ』だなんて……。よくもあんな暴言を吐けたものね。私の名誉が、木っ端微塵に粉砕されたわ」
抗議の言葉とは裏腹に、その声色は弾んでいた。怒っているというよりは、拗ねている子供のような響きだ。
「事実でしょう。カップ麺にお湯を入れすぎてストローで吸う生徒会長なんて、世界中探しても会長だけですよ」
「うっ……。それは、初めてのことには付き物な間違いよ!」
「駅の券売機で千円札を入れようとして、お札の投入口じゃなくて硬貨の投入口にねじ込もうとしたのも?」
「もう少し強く押せば入ると思ったのよ!」
彼女は顔を赤くして反論するが、その口調にはいつもの鋭さがない。むしろ、自分の失敗談を蒸し返されることを楽しんでいるような節さえある。
俺もまた、そんな彼女との軽口の応酬が、強張っていた心を解きほぐしてくれるのを感じていた。
ああ、これだ。
この、噛み合っているようで噛み合っていない、それでも心地よいテンポ。これが俺たちの日常だった。
「でも、ああ言わなきゃ、納得してもらえなかったでしょう」
俺は夜空を見上げながら言った。
「会長のご両親は、本物を見抜く目を持ってる。上っ面の美辞麗句なんて、すぐに見透かされる。だから、俺も本音をぶつけるしかなかったんです」
「……本音」
ユウカがその言葉を口の中で転がすように反芻する。
「そうね。……私も、驚いたわ。自分が、あんなことを口走るなんて」
彼女は足を止めた。
庭園の中ほどにある、噴水広場の近くだった。水音が優しく響いている。水面に映った月が、風に揺れて歪んでいた。
彼女は俺の方に向き直り、真剣な眼差しで見上げてきた。
「『カズキがいないとダメなの』……だなんて。穴があったら入りたいどころか、マントルまで掘り進んで埋まりたい気分よ。一生分の弱音を、あの一瞬で使い果たした気分だわ」
「まあ、聞いてるこっちも恥ずかしかったですよ。公開告白かと思いましたから」
「……茶化さないで」
彼女は唇を尖らせたが、すぐにふわりと表情を緩めた。
それは、これまで彼女が見せてきたどんな笑顔とも違っていた。自信満々のドヤ顔でもなければ、計算された営業スマイルでもない。
ただただ無防備で、飾らない、素の笑顔。
鎧を脱ぎ捨てた戦士が、ようやく見せた安らぎの表情。
「でも、スッキリしたわ。……ずっと、重かったの」
「重かった?」
「ええ。天上院家の娘として、常に完璧でなければならないという宿命にあるの。それに、生徒会長として、誰にも弱みを見せてはいけないということもね。でも、あなたのあの言葉で、全部剥がれ落ちた気がする」
彼女は自分の両手を見つめ、そしてぎゅっと握りしめた。
「親の前で、あんなに泣いて、わがままを言ったのは……生まれて初めてかもしれないわね」
彼女の声が、微かに揺れる。
それは、ずっと張り詰めていた弦が緩んだ時に出る、安堵の音色だった。
「ありがとう、カズキ。あなたが背中を押してくれなかったら、私は一生、あの中で窒息していたかもしれないわ」
その言葉を聞いて、俺の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
俺はただ、彼女のポンコツな一面を暴露しただけだ。それを、彼女は『救い』だと受け取ってくれた。
俺がやってきた『お世話係』という仕事は、単に彼女の食事を作り、服を選び、アホ毛を直すことだけじゃなかったのかもしれない。彼女が彼女らしく息をするための場所を作ること。それが、俺の本当の役割だったのかもしれない。
「……礼を言われるほどのことじゃないですよ。俺は、自分の身を守るために必死だっただけですから」
俺は照れ隠しに視線を逸らした。
だが、ユウカは許してくれなかった。彼女は一歩近づき、俺の顔を覗き込んでくる。
「素直じゃないわね。そこは『君のためなら何でもするさ』くらい言って、格好をつける場面よ?」
「俺はヒーローじゃないんでね。ただの一般市民です」
「ふふっ。そうね。あなたは、私にとって最高の一般市民だわ」
彼女は嬉しそうに笑うと、再び歩き出した。
二人の距離が、来る時よりも近くなっている気がする。
手が触れ合いそうな距離。
歩幅を合わせて歩く、この心地よいリズム。
ずっとこのまま歩いていたいと思う反面、門が近づくにつれて、俺の心の中にあった『ある決意』が、存在感を増していた。
俺の中で、冷徹な理性が警鐘を鳴らす。
今が潮時だ、と。
この甘美な空気に流されてはいけない。ここでけじめをつけなければ、俺たちは一生、この『嘘から出た真』のようなテキトウな関係の中に閉じ込められてしまう。
彼女は自由になった。親の呪縛からも、完璧という名の鎖からも解放された。
ならば、俺という『お世話係』からも、卒業するべきなんじゃないか。
門が見えてきた。
巨大な鉄の門扉は開かれたままだ。その向こうには、いつもの公道が続いている。街灯の明かりが、現実世界への出口を示しているようだった。
あそこを出れば、俺たちの非日常は終わりを告げる。
俺は、制服のポケットの中で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、俺に決断を促す。
言わなければならない。
これは、彼女のためであり、そして何より、俺自身のためだ。
「……ユウカ」
俺は足を止めた。砂利を踏む音が止む。
彼女も立ち止まり、不思議そうに振り返る。夜風が彼女の長い髪を揺らした。
「どうしたの? 忘れ物?」
「いや。……話があるんだ」
俺の声が、予想以上に低く、硬い響きを持っていたことに自分でも驚いた。
ユウカの表情から、笑みが消える。彼女の聡明な頭脳は、俺が何を言おうとしているのか、瞬時に察知したのかもしれない。その瞳に、不安の色が走る。
「……何かしら」
彼女の声もまた、静かになった。
俺は大きく息を吸い込み、夜の冷たい空気を肺に満たした。
「今回の件で、最大の危機は去りました。ご両親の公認も得たし、学園での噂も、これ以上悪化することはないでしょう」
「……ええ。そうね」
「つまり、俺たちが必死になって取り繕う必要性は、もうなくなったってことです」
俺は言葉を選びながら、慎重に紡いでいく。まるで、積み上げたジェンガを一つずつ崩していくように。
「俺の『お世話係』としての最大の任務は、会長の秘密を守り、社会的信用を維持することでした。今日の食事会を乗り切ったことで、その任務は……実質的に完了したと言っていいはずです」
喉が渇く。
言いたくない。本当は、こんなこと言いたくない。
でも、俺たちの関係は『契約』から始まった。
彼女の弱みを握った俺が、口封じのために雇われたという、歪なスタート地点。
そこから始まった関係を、なぁなぁのまま続けることは、俺のプライドが許さなかった。
それに、彼女にとっても、それは良くないことのように思えたのだ。
彼女はもう、親の前でも素顔を見せられるようになった。俺がいなくても、彼女はもう一人で立っていけるのかもしれない。俺という補助輪は、もう不要なのだ。
「だから……契約は、ここで終了にするべきだと思います」
俺は言い切った。
そのあとに何も言葉は続かなかった。
ユウカは動かない。表情を消して、じっと俺を見つめている。その視線が痛い。
「……それで?」
彼女が短く促す。声に温度がない。
「これで、元の関係に戻れます。あんたは生徒会長で、俺はただの生徒。……まあ、たまには昼飯くらい一緒に食ってもいいですけど、毎朝の送迎とか、そういう過剰なサービスはもう必要ないでしょう」
「……そう」
「会長も、俺みたいな一般人に構ってる暇はないはずだ。これからは、もっと……その、釣り合う相手を探すべきなんじゃないですか」
最後の一言は、余計だったかもしれない。
それは俺の卑屈さが出た言葉だった。
でも、口から出てしまったものは取り消せない。
俺は視線を地面に落とした。彼女の顔を見るのが怖かった。怒っているだろうか。それとも、せいせいしたという顔をしているだろうか。
沈黙が降りた。
噴水の水音だけが、やけに耳につく。
数秒が、数時間にも感じられる。
彼女が何かを言うのを待った。罵倒でも、同意でもいい。何か言ってくれ。
「……バカ」
小さな、けれど鋭い言葉が飛んできた。
顔を上げると、ユウカが俺を睨んでいた。
その瞳は怒りで燃えていたが、同時に今にも泣き出しそうに潤んでいた。月明かりの下、彼女の瞳がキラキラと光っている。
「あなたは、本当にバカね。IQが3くらいしかないんじゃないかしら」
「……ひどい言われようだな」
「事実よ! 私の今の気持ちを、まるで理解していない!」
彼女は一歩踏み出し、俺の胸ぐらを掴んだ。
華奢な腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、強い力で引き寄せられる。俺たちの距離がゼロになる。
「契約終了? 元の関係に戻る? ふざけないでちょうだい!」
彼女は叫んだ。その声が、夜の庭園に響き渡る。
「私が、契約だからあなたと一緒にいたと思っているの? 秘密を守るためだけに、毎日あなたのご飯を食べて、あなたの隣を歩いていたと思っているの!?」
「……違うんですか」
「違うに決まっているでしょう!」
彼女は俺の胸をドン、と叩いた。その拳は震えていた。
「最初はそうだったかもしれないわ。あなたの料理の腕と、口の堅さだけを買っていた。でも……今は違う。全然違うわ」
彼女の手から力が抜け、俺の制服を握りしめたまま、うつむいた。長い髪が顔を隠す。
「あなたがいない日常なんて……もう考えられないのよ」
絞り出すような声だった。
それは、理論武装した生徒会長の言葉ではなく、一人の恋する少女の悲痛な叫びだった。
「朝起きて、あなたの作ったご飯がないなんて耐えられない。登校中に、あなたの呆れたようなツッコミがないと調子が出ない。昼休みに、あのお弁当がないと午後の活力が湧かない……!」
「……食い物のことばっかりですね」
「うるさいわね! 例えよ、例え!」
彼女は顔を上げ、涙目で俺を睨んだ。鼻先が赤くなっている。
「要するに、私の生活のすべてに、あなたが組み込まれてしまっているの! あなたがいないと、私の世界は意味を失ってしまうのよ!」
彼女の論理は、いつものように飛躍していて、自己中心的で、そしてどうしようもなく真っ直ぐだった。
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じた。溶岩のような熱が、身体中を駆け巡る。
ああ、俺も同じだ。
面倒だ、大変だと言いながら、俺も彼女との日々に心地よさを感じていた。
彼女に振り回される毎日が、俺の退屈な日常を鮮やかに彩っていたのだ。
彼女がいない朝の静けさを想像しただけで、寒気がする。
彼女がいない放課後の平穏さを想像しただけで、胸に穴が開いたような気分になる。
「……俺も、ですよ」
俺は、彼女の手の上に自分の手を重ねた。
「え?」
「俺も、会長がいないと調子が狂うみたいです。静かな朝も、一人の昼休みも、もう味気なくて耐えられそうにない」
俺は彼女の目を見て、正直な気持ちを伝えた。もう、隠す必要なんてない。
「俺の生活は、会長に侵食されてしまったみたいです。駆除するのは、もう手遅れですね」
「……魔物扱いは心外だけど、まあ、許してあげるわ」
ユウカが鼻をすすりながら、少しだけ笑った。その笑顔を見て、俺の中で何かがカチリと音を立てて嵌った気がした。
ああ、俺はこの笑顔を見るためなら、どんな面倒事も引き受けられる。そう確信した。
「じゃあ、契約終了は撤回ね?」
「はい。撤回します。でも、これまでの契約内容は破棄させてもらいますよ」
「え?」
ユウカが不安そうに眉を寄せる。
俺はニヤリと笑って、新しい提案をした。これは、俺なりの精一杯のプロポーズだ。
「『お世話係』としての雇用契約は終了です。これからは……対等なパートナーとしての、新しい契約を結びたいと思います」
俺は彼女の手を離し、改めて正面から向き合った。背筋を伸ばし、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
「天上院ユウカさん。俺と……本当の恋人になってくれませんか?」
それは、食事会での演技でもなければ、契約書に基づく業務命令でもない。
俺自身の意思による、初めての申し込みだった。
ユウカは目を見開き、口元を両手で覆った。
その顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。耳まで真っ赤だ。
彼女は何度か口を開閉し、言葉を探すように視線を泳がせた後、最後にはにかむような、最高の笑顔を見せた。
「……条件があるわ」
「条件?」
「ええ。これからの人生、私のわがままを死ぬまで聞くこと。私のポンコツなところも全部受け止めて、一生愛し続けること。……これに同意できる?」
なんという重たい条件だ。奴隷契約よりもタチが悪いかもしれない。
でも、今の俺には、それが最高のご褒美に思えた。
「……同意します。喜んで」
「交渉成立ね」
彼女は満足げに頷くと、自分から俺に飛び込んできた。
俺は彼女を受け止め、その華奢な体を強く抱きしめた。
いい匂いがした。
俺の鼓動と、彼女の鼓動が、重なって一つになるのが分かった。
この温もりだけは、どんな論理でも説明できない、確かな真実だ。
「……好きよ、カズキ」
「ああ。俺も好きです、ユウカ」
夜の庭園に、俺たちの声だけが響いた。
偽りから始まった関係が、本物に変わった瞬間だった。
しばらくして、彼女が顔を上げた。
その瞳は、悪戯っぽく輝いている。涙の跡はもう乾いていた。
「さて、カズキ。新しい契約が成立したところで、早速最初の業務命令よ」
「……嫌な予感がするんですが」
「お腹が空いたわ」
「はあ?」
「さっきの食事会、緊張して味がしなかったのよ。それに、あなたもほとんど食べてなかったでしょう? だから、今からあなたの家に行って、何か作ってちょうだい」
「今から!? もう夜ですよ?」
「関係ないわ。恋人の家に行くのに、時間なんて気にする必要ある?」
「親御さんが心配しますよ!」
「大丈夫よ。『今日はカズキの家に泊まるから』って、もうお母様に連絡しておいたわ」
「はあああ!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
……いやいやいや、会長のお母様は、『清い交際を心がけること』って、ついさっき言っていたばかりだぞ。
ああ、でも、会長のお母様からの許可は下りているのか。
この人、いつの間にそんな根回しを。しかも『泊まる』ってどういうことだ。
「ちょ、待ってください!俺の心の準備が……!」
「あら、何を動揺しているの? 健全な交際を誓ったばかりでしょう? 単に、あなたの作る夜食を食べて、あなたの狭い部屋で、あなたの匂いに包まれて眠りたいだけよ」
「それが一番心臓に悪いって言ってるんです!」
「さあ、行くわよ! リムジンを回させるわ!」
ユウカは俺の手を引き、門の外へと歩き出した。
その足取りは力強く、迷いがない。先ほどまでの感傷的な空気はどこへやら、すっかりいつも通りだ。
俺は天を仰いだ。
星空は変わらず綺麗だったが、これからの俺の未来は、嵐のように激しく、そして眩しいものになりそうだった。
「ほら、早くしなさい、カズキ! 置いていくわよ!」
「はいはい、分かりましたよ、会長……いや、ユウカ」
俺は苦笑しながら、愛すべき恋人の背中を追いかけた。
そして、俺は彼女の隣に並んだ。
そこにある、彼女から差し出されたその手を、しっかりと握り返した。
二人の足音が重なり、夜の向こう側へと続いていく。
俺たちの手は、もう離れることはないだろう。
だって、これは無期限の契約なのだから。




