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学園の女王さまは、俺の前でだけポンコツになる  作者: 速水静香
第二章:ラブラブの恋人(偽)

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第十八話:決戦の夜



 その朝、空は腹が立つほどに晴れ渡っていた。

 雲ひとつない青空。校庭の木々を揺らす穏やかな風。登校してくる生徒たちの賑やかな笑い声。世界は何の変哲もなく、平和な日常を刻んでいる。

 だが、俺、飯田カズキと、隣を歩く天上院ユウカの周囲半径二メートルだけは、重力が三倍になったかのような重苦しい空気が澱んでいた。


 決戦の朝だ。

 今夜、俺たちは東京湾を越えて飛来した二頭の竜――天上院家の両親と対峙することになっている。

 俺の肋骨の奥にある臓器は、朝から不規則なリズムを刻み続けていた。

 教室に入っても、教科書の内容など一文字も頭に入ってこない。黒板の文字は、まるで意味不明な記号の羅列に見える。周囲のクラスメイトたちは、俺と会長が『公認カップル』になったという話題で持ちきりだ。


「今日も幸せそうだなあ」

「ああ、会長! 尊い!」


 そんな無邪気な声が聞こえてくるたびに、俺は引きつった愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。彼らは知らないのだ。この『幸せそうなカップル』が、今夜、処刑台の刃の下に首を差し出しに行く運命にあることを。


 昼休みを告げるチャイムが鳴ると、俺は逃げるように教室を出た。

 手には購買で買った消化に良さそうなうどんのカップ。

 足取り重く特別棟へ向かい、生徒会室のドアを開ける。


「……失礼します」


 部屋の中は、静まり返っていた。

 いつもなら役員たちが忙しく動き回っているはずだが、今日はユウカが人払いをしたのだろう。

 広い部屋の中央、執務机に座るユウカの姿があった。

 彼女は書類の山に埋もれながら、機械仕掛けの人形のようなぎこちない動きでペンを走らせていた。


「……会長」


 俺が声をかけても、彼女は顔を上げない。

 視線を書類に固定したまま、ブツブツと何かを呟いている。

 よく聞けば、それは昨日作成した『想定問答集』の内容だった。


「馴れ初めは図書室……いいえ、資料運び……。好きな食べ物は……」


 完全にテンプレートを反復する再生装置と化している。


「……カズキ」


 ようやく俺の存在に気づいたのか、彼女がペンを止めて顔を上げた。

 その顔を見て、俺は思わず息を詰まらせそうになった。

 白い。あまりにも白い。

 上質な陶磁器のように透き通る肌は美しいが、そこには生気というものが欠落していた。目の下には薄っすらとクマができている。昨夜、眠れなかったのだろう。

 俺はため息をつきながら、彼女のデスクの空いているスペースにうどんを置いた。

 湯気が立ち上る温かい出汁の香り。普段なら「いい匂いね!」と食いつくはずの彼女が、今日はそれを睨みつけるだけで箸を伸ばそうとしない。


「いらないわ。胃が固形物の侵入を拒絶しているの」

「食べないと持ちませんよ。夜は戦争なんでしょう?」

「分かっているわ。でも……想像しただけで吐き気が……」

「噛めるときは、食事をして……よく噛んでください。咀嚼運動は、精神を安定させる効果があるそうですから」

「……また、ネットの知識?」

「いいえ、この間の会長の受け売りです」


 俺が努めて軽口を叩くと、ユウカは力なく口元を緩めた。

 しぶしぶといった様子で割り箸を割り、うどんを一本、また一本と口に運ぶ。その姿は、いつもの豪快な食べっぷりとは程遠い、小鳥がついばむような慎ましさだった。

 俺も自分の分のパンをかじりながら、最終確認を行う。


「ああ、憂鬱ね」

「そうですね」


 俺たちは言葉少なに食事を終えた。

 壁にかかった時計の針が進む音が、カチ、カチ、とやけに大きく響く。

 その音は、まるで執行までのカウントダウンのようだった。

 刻一刻と、審判の時が迫っていた。



 放課後。

 ホームルーム終了のチャイムが鳴ると同時に、俺たちは示し合わせたように昇降口で合流した。

 夕日が差し込む廊下。

 俺たちの姿を見つけた生徒たちが、「あ、今日も一緒だ」「本当に仲いいよね」「公認カップル尊い」などと囁き合っている。

 普段なら「見世物じゃない」と心の中で毒づくところだが、今日の俺たちには、その視線を気にする余裕すらなかった。俺たちは、周囲の世界から切り離された二人だけの結界の中にいるようだった。


「……行くわよ」


 ユウカが、短く告げた。

 その声には、悲壮な決意が滲んでいた。

 俺は無言で頷き、彼女の隣に並んで歩き出した。


 校門の前には、すでにいつもの黒塗りの要塞――超高級リムジンが鎮座している。

 その威圧感あるボディは、夕日を反射してどす黒く輝いていた。

 俺たちが近づくと、運転席から白髪の老紳士が降りてくる。ユウカが幼い頃から仕えている、専属運転手で、いつもお世話になっている人だ。

 彼は恭しく後部座席のドアを開けた。


「お待ちしておりました、お嬢様。……飯田様も」


 老紳士の視線が、俺に向けられる。

 そこには、いつもの穏やかな敬意だけでなく、これから死地へ向かう兵士を見るような、複雑なものが一瞬、垣間見えた。

 憐憫、期待、そして僅かな不安。

 彼も知っているのだ。今夜、あの屋敷で何が行われるのかを。そして、俺という存在が、その台風の目であることを。


「……お願いします」


 俺は頭を下げ、ユウカに続いて車内へと乗り込んだ。

 重厚なドアが重い密閉音と共に閉められ、外界の音が遮断される。

 静寂に包まれた車内。

 革張りのシートの匂いと、微かなアロマの香りが鼻孔をくすぐる。

 車は、ゆっくりと走り出した。


 ユウカは、シートの隅に体を預け、膝の上で両手を固く握りしめていた。

 窓の外を流れる景色を見つめるその横顔は、彫刻のように硬い。

 肩が揺れている。

 武者震いか、それとも恐怖か。

 俺は、迷うことなくその手を握った。


「……っ」


 ユウカが弾かれたように顔を上げ、俺を見る。

 その瞳は不安に揺れていたが、俺の手をギュッと握り返してきた。

 その手は、氷のように冷たかった。


「……怖いか?」


 俺が小声で尋ねると、彼女はフンと鼻を鳴らした。


「愚問ね。天上院ユウカに恐怖などないわ。ただ……強敵との戦闘に向けて、武者震いを起こしているだけよ」


 強がりを言う唇が、わずかに青ざめている。

 俺は、握った手に少しだけ力を込めた。


「大丈夫だ。俺がついている」

「……根拠のない自信ね」

「根拠ならある。昨日のリハーサルだ。俺たちは理想的な回答を用意できただろ?」


 俺が笑って見せると、彼女の強張った表情が少しだけ緩んだ。


「そうね。……私たちの構築した理論武装は、完全に鉄壁よ」


 車窓を流れる景色が、見慣れた学園周辺の雑多な風景から、徐々に洗練された都心のビル街へ、そして緑豊かな高級住宅街へと変わっていく。

 それは、俺たちの日常が、非日常へと塗り替えられていくグラデーションのようだった。

 アスファルトの質が変わり、走行音が静かになる。街灯のデザインが変わり、歩く人々の服装が変わる。

 近づいている。

 魔王の居城が。


「……カズキ」

「ん?」

「昨日の『問答集』、覚えているわよね? 最終チェックよ」

「ああ。いつでも来い」


 彼女は俺の手を握ったまま、試験前の受験生のように問いかけてきた。


「二人の出会いは?」

「放課後の生徒会室前。君が抱えていた大量の資料を、俺が受け止めた」

「その時、私が言った言葉は?」

「『余計なお世話よ』。でも、耳まで赤かった」

「……採用。では、私の好きなところは?」

「……不器用だけど、誰よりも努力家で、放っておけないところ」


 俺が答えると、ユウカは少しだけ頬を染め、安堵したように大きく息を吐いた。


「よし。記憶領域への定着は万全ね。あとは……現地でのアドリブ対応力にかかっているわ」


 彼女は俺の手を、痛いほど強く握りしめた。

 その痛みすらも、今の俺には必要な現実感だった。俺はここで逃げ出すわけにはいかない。この手を離せば、彼女は一人で嵐の中に放り出されてしまうのだから。


 車は、やがて巨大な鉄の門の前で速度を落とした。

 金色のプレートに刻まれた『天上院』の文字が、夕闇の中で怪しく光る。

 門が、重々しい音を立てて左右に開いた。

 まるで、巨大な怪物が口を開けたかのようだ。

 リムジンは、ゆっくりとその咽頭部へと滑り込んでいった。



 長いアプローチを抜け、車寄せに到着すると、そこにはすでに異様な光景が広がっていた。

 整列した使用人たち。

 執事、メイド、庭師、警備員に至るまで、屋敷に仕える者たちが総出で出迎えているのだ。

 その数は三十人はいるだろうか。

 彼らの空気は、いつもの「お帰りなさいませ」という温かいものではない。

 ピリピリとした緊張感。

 張り詰めた糸のような空気が、車を降りた俺の肌を刺した。


 彼らの視線が、一斉に俺に集中する。


 『この平凡な少年が、あのお嬢様の……』

 『本当に彼で務まるのか?』

 『旦那様のお眼鏡に敵うはずがない』


 そんな、値踏みするような視線。好奇心と懐疑心。それらが無言の圧力としてのしかかる。

 俺は、喉が干上がるのを感じた。足が竦みそうになる。

 だが、隣にいるユウカも同じだ。いや、彼女の方がもっと強いプレッシャーを感じているはずだ。

 俺は背筋を伸ばし、努めて堂々と振る舞うことにした。

 ユウカのエスコートをするように、彼女の腰に手を添える。彼女がビクリとしたが、すぐに意図を理解して、俺に体を寄せてきた。


 二人で支え合いながら、玄関ホールへと足を踏み入れる。

 大理石の床がコツコツと靴音を反響させる。

 頭上のシャンデリアの光が、いつもより冷たく、鋭利に感じられた。

 出迎えたのは、家令を務める初老の男性だった。

 普段は柔和な笑顔を見せる彼も、今日は能面のように表情を消している。


「旦那様と奥様は?」


 ユウカが、震えを押し殺した声で尋ねた。


「大広間にてお待ちですが……その前に、お客様を客間へお通しするようにと」

「客間……?」


 ユウカが怪訝な顔をする。

 いつもなら、そのままダイニングへ直行するか、あるいは一度自室へ戻って着替えるのが通例だ。

 だが、今日は違う。

 俺は『使用人』や『生徒会の友達』ではなく、『正式な招待客』として扱われている。手順が違うのだ。


「こちらへどうぞ、飯田様」


 家令に案内され、通されたのは一階の東側にある客間だった。

 俺が今まで入ったことのない、未知のエリアだ。

 重厚な扉が開かれると、そこには俺のアパートが丸ごと入りそうな広さの部屋があった。

 壁には博物館クラスの重厚な油絵が飾られ、床にはふかふかのペルシャ絨毯。部屋の中央には、猫足のついたアンティーク調のソファセットが置かれている。

 空気清浄機が微かな音を立てている以外、物音一つしない静寂の空間。


「……どうぞ、お掛けになってお待ちください」


 家令はそう言い残し、音もなく退室していった。

 残されたのは、俺とユウカだけ。

 俺たちは、並んでソファに腰を下ろした。座り心地は最高級だが、今の俺には針のむしろにしか感じられない。


「……ただの食事会なのに、なんでこんな儀式めいたことを」


 俺が小声でぼやくと、ユウカが深刻な顔で囁き返した。


「これは『洗礼』よ。食事の前に、この家の格調高さを見せつけ、相手を精神的に委縮させるための心理戦術だわ。私の両親は、交渉事において相手の心理的優位に立つことを何より重視するの」

「性格悪いな、会長の親」

「戦略家と言ってちょうだい」


 すぐにメイドがお茶を運んできた。

 ロイヤルアルバートのカップに注がれた、香り高いダージリン。

 だが、口に含んでも味がしなかった。まるで砂鉄を飲んでいるようだ。喉を通る液体が、熱いのか冷たいのかさえ分からない。

 部屋の隅にある大きな置時計が、カチ、カチ、と時を刻む。

 その音が、異様に耳につく。

 十分が経過しただろうか。あるいは一時間か。

 時間の感覚が麻痺し始めた頃。


 コン、コン。


 重厚な扉がノックされ、再び家令が現れた。


「準備が整いました。大広間へご案内いたします」


 来た。

 俺とユウカは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。

 ユウカの顔色はまだ悪い。指先が白くなるほど拳を握りしめている。

 だが、その瞳には決死の覚悟が宿っていた。


「……行くわよ、カズキ」

「ああ。背中は任せろ」


 俺たちは客間を出て、長い廊下を歩いた。

 壁に飾られた歴代当主の肖像画が、次々と俺たちを見下ろしてくる。

 廊下の突き当たりにある、一際巨大な両開きの扉。

 そこが、最終決戦の場だ。

 家令が扉に手をかけ、ゆっくりと押し開く。


 ギィィィ……。


 重々しい音と共に、視界が開けた。

 大広間の中央。

 二十人は座れそうな長いテーブルの奥に、二つの影があった。


 世界経済を動かす男、天上院ゲンジロウ。

 社交界の華、天上院サクラ。


 圧倒的なオーラを纏った二人が、こちらをじっと見据えている。

 その視線は、物理的な質量を持っているかのように重く、鋭かった。

 俺の心臓が早鐘を打つ。

 逃げ出したい。今すぐ回れ右をしてダッシュで帰りたい。

 だが、俺の足は前に進んだ。

 俺はユウカの半歩後ろに立ち、二人に向かって深々と頭を下げた。角度は四十五度。


「初めまして。飯田カズキと申します」


 声が裏返らないように、腹に力を込めた。


「……ふむ」


 ゲンジロウ氏が、地響きのような低い唸り声を上げた。

 肯定とも否定とも取れない、威圧的な響き。

 隣のサクラ夫人が、扇子で口元を隠し、冷ややかな視線を送ってくる。


「まあ。思ったよりも……素朴な方ね」


 素朴。

 『地味』『貧相』『場違い』という言葉を、最高級のオブラートで包んだ表現だ。

 開戦の合図が鳴った。


「お掛けなさい」


 ゲンジロウ氏の短い言葉に促され、俺はユウカの隣の席についた。

 椅子を引く執事の手際が良すぎて、自分が座った感覚がないまま、気づけばテーブルに着いていた。

 テーブルの下で、ユウカの手が俺の太もものあたりを掴んでいる。

 その震えが、直接伝わってくるようだった。

 俺はテーブルクロスに隠れてそっと手を伸ばし、彼女の冷たい手を握りしめた。

 大丈夫だ。俺がついている。

 そう伝えるように力を込めると、彼女の手も微かに握り返してきた。


 すぐに前菜が運ばれてくる。

 宝石のように美しいテリーヌだが、それが何味なのか、想像すらつかない。

 カチャリ、とカトラリーの音が響く静寂の中、サクラ夫人が口を開いた。


「それで、飯田さん。ユウカとは、どこでお知り合いになったのかしら?」


 第一問だ。

 俺はナプキンで口元を拭い、昨日の練習通りに答えた。


「はい。放課後の廊下で、ユウカさんが生徒会の資料を大量に抱えて運んでいるところを、私がお手伝いしたのがきっかけです」


 淀みない回答。

 サクラ夫人が、品定めするように目を細める。


「ほう。生徒会の資料を」

「はい。彼女は責任感が強く、一人で全てを背負い込もうとしていました。その姿を見て、少しでも力になりたいと思ったのです」


 嘘ではない。文脈を少し変えただけだ。だからこそ、声に力が宿る。


「なるほど。ユウカは昔から、何でも自分でやりたがる子でしたからね」


 夫人は納得したように頷いた。

 第一関門、突破。

 その後も、質問は矢継ぎ早に続いた。

 趣味は何か。学業の成績はどうか。将来の展望は。

 俺はマニュアル通り、かつ自分の言葉で、無難に、しかし誠実に答え続けた。

 ゲンジロウ氏も、時折鋭い質問を投げてくるが、決定的なボロは出さずに済んでいる。


 テーブルの下で繋がれた手だけが、俺たちの命綱だった。

 ユウカの手は少しずつ温かみを取り戻し、俺の回答に合わせて力を込めてくる。

 いける。

 このままいけば、なんとか『無難な相手』として認めさせることができるかもしれない。


 だが、最後の砦はそう甘くはなかった。


 メインディッシュが下げられ、デザートのシャーベットが運ばれてきた時だった。

 場の空気が、ふっと変わった。温度が数度下がったような感覚。

 それまで静かに聞いていたサクラ夫人が、スプーンを置き、まっすぐに俺を見たのだ。

 その瞳は、笑っていなかった。

 全てを見透かすような、冷徹な観察者の目。


「飯田さん。あなたのことは、よく分かりました。真面目で、誠実な方だということも」


 彼女は、美しい指先でグラスの縁をなぞりながら、核心を突く問いを投げかけた。


「でも、一つだけ分からないことがあるの」

「……なんでしょうか」

「なぜ、あなたがユウカの相手でなければならないの?」


 空気が凍りついた。


「ユウカは、天上院家の唯一の後継者です。彼女の相手には、それ相応の家柄、能力、そして才覚が求められます。世界中には、彼女にふさわしい優秀な若者が、星の数ほどいるわ」

「……」

「失礼を承知で言わせていただくけれど、あなたは……あまりにも『普通』すぎるわ。なぜ、ユウカがあなたを選び、そしてなぜ、あなたがその重荷を背負おうとするのかしら?」


 想定内の質問だ。

 マニュアルにはこう書いてあった。

 『模範解答:愛しているからです。理屈や条件ではなく、彼女という人間そのものを、心から愛しているからです』


 俺は口を開きかけた。

 台本通りの言葉を紡ごうとした。


「……それは、私が彼女を、愛して……」


 言葉が、上滑りした。

 喉の奥でつっかえ、乾いた音となって空中に霧散する。

 嘘だ。

 これは、嘘だ。

 いや、嘘ではないかもしれないが、この場において、この言葉はあまりにも軽すぎる。

 目の前にいる怪物たちには、こんな借り物の言葉は通用しない。

 サクラ夫人の目が、スッと細められた。

 見抜かれている。『愛』という言葉の裏にある、俺の迷い、自信のなさ、そして『設定』を守ろうとする作為を。


 テーブルの下で、ユウカの手が激しく痙攣し始めた。

 彼女も気づいている。俺の言葉が届いていないことに。

 このままでは、終わる。

 マニュアル通りの回答を続ければ、俺は『口先だけの男』として切り捨てられ、ユウカは連れ戻されるだろう。


 どうする。

 ここで粘るか? 別の美辞麗句を探すか?

 いや、無駄だ。

 こいつらは『本物』しか求めていない。

 だったら。

 俺も、『本物』を見せるしかないんじゃないか?


 俺は、大きく息を吸い込んだ。


 さよなら、模範解答。

 ここからは、アドリブだ。


「……訂正させてください」


 俺は、まっすぐにサクラ夫人を見返した。

 夫人が、意外そうに眉を上げる。


「愛しているから、というのも嘘ではありません。ですが、もっと正確な理由があります」

「ほう? 聞かせてちょうだい」

「私が彼女のそばにいなければならない理由は……彼女が、どうしようもないほど不器用で、危なっかしいからです」


 隣でユウカが息を呑んだ。ゲンジロウ氏の目が光る。


「不器用? 我が娘が完璧だというのは、世間の共通認識だが?」

「それは、彼女が必死に作り上げた外面です」


 俺は言った。もう後戻りはできない。


「実際の彼女は、カップ麺の作り方も分からないし、自動販売機の使い方も怪しい。部屋の片付けもできないし、放っておけば栄養失調で倒れかねない。一人で生きていく能力が、絶望的に欠けているんです」


 俺の暴露に、夫人の表情が強張った。


「な……何を言っているの? ユウカがそんな……」

「信じられないなら、今度こっそり学校での彼女を見てください。あるいは、彼女の部屋のクローゼットの奥を確認してみてください。整理整頓とは無縁の混沌が広がっているはずですから」


 俺は、テーブルの下で震える彼女の手を、さらに強く握りしめた。


「彼女は、完璧なんかじゃありません。むしろ、ポンコツです」

「カ、カズキ……!」


 ユウカが小さな悲鳴を上げたが、俺は止まらなかった。


「でも、だからこそ」

「……」

「だからこそ、俺が必要なんです」

「……どういう意味かね?」


 ゲンジロウ氏が低い声で問う。


「彼女は、自分の弱さを誰にも見せようとしません。完璧な『天上院ユウカ』であろうとして、常に気を張っている。でも、人間なんてそんなに強くない。いつか壊れます」

「……」

「俺の前でだけ、彼女は力を抜いてくれます。わがままを言い、失敗し、情けない姿を見せてくれる。……俺以外に、誰が彼女のそんな姿を受け止められると言うんですか?」


 俺は、二人を交互に見据えた。


「優秀なエリート? 家柄の良い御曹司? 彼らに、彼女の面倒が見られますか? 彼女のアホ毛を毎朝直してやり、偏った食生活を正し、突拍子もない思い付きに付き合ってやれますか? 無理でしょう。すぐに幻滅して逃げ出すに決まってます」


 俺は断言した。


「彼女の欠けた部分を埋められるのは、俺だけです。俺には、彼女を支えるだけの生活能力がある。彼女の理屈を受け流す図太さがある。そして何より……」


 俺は、隣のユウカを見た。

 彼女は、驚きと、羞恥と、そして何かわからない感情で、瞳を潤ませて俺を見つめていた。


「彼女のそんな不完全なところを、可愛いと思えるのは……世界中で、俺一人くらいなもんです」


 言い切った。

 完全なる沈黙が部屋を支配した。

 言ってしまった。

 契約のことも、偽装のことも、すべて吹き飛ばすような、本音中の本音。

 これはもう、告白だ。


「……ユウカ」


 沈黙を破ったのは、サクラ夫人だった。


「彼は、こう言っているけれど……本当なの?」


 夫人の声には、先ほどまでの冷たさはなかった。代わりに、戸惑いのようなものが垣間見えた。

 ユウカは、俯いたまま、小さく肩を震わせた。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 その目からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。


「……そうよ」


 彼女は、掠れた声で言った。


「全部、本当よ。私は……お母様たちが思っているような、完璧な娘じゃないわ」

「ユウカ……」

「勉強も、スポーツも、生徒会の仕事も……全部、無理をしてた。期待に応えたくて、必死で演じてた。でも……本当の私は、何もできない、ただの……ただの子供なの」


 彼女は、俺の手を両手で握りしめながら、縋るように言った。


「カズキがいないと、ダメなの。彼がいないと、私は……まともにご飯も食べられないし、服も選べないし……寂しくて、どうにかなっちゃいそうなのよ!」


 それは、彼女が初めて両親の前で見せた、飾らない素顔だった。

 理屈も論理もない。

 ただの、一人の弱い少女としての叫び。


 ゲンジロウ氏とサクラ夫人は、顔を見合わせた。

 その表情から、厳格な仮面が剥がれ落ちていた。

 そこにあるのは、娘の知られざる一面を突きつけられ、狼狽する、ただの親の顔だった。


「……そうか。お前は、そんなに無理をしていたのか」


 ゲンジロウ氏が、重く、深いため息をついた。


「我々は、お前に理想を押し付けすぎていたようだな……」

「まさか、あなたがそこまで……。私たち、何も見ていなかったのね」


 サクラ夫人が、目元をハンカチで押さえた。

 ゲンジロウ氏は、再び俺の方を向いた。

 その眼光は、鋭さを失い、代わりに静かな光を宿していた。


「飯田くん、と言ったな」

「……はい」

「君の言う通りだ。今の話を聞く限り、娘の相手は……君以外には務まりそうにないな」


 彼は苦笑した。


「優秀なだけの男なら、いくらでもいる。だが、娘の『弱さ』ごと愛し、支えてくれる男など……そうはいないだろう」


 彼は、ナプキンをテーブルに置いた。


「認めよう。二人の交際を」


 その言葉を聞いた瞬間、ユウカの体から力が抜け、俺の肩にもたれかかってきた。

 俺もまた、全身の力が抜けて、椅子からずり落ちそうになった。


「ただし!」


 ゲンジロウ氏が釘を刺すように人差し指を立てた。


「学業をおろそかにしないこと。そして、清い交際を心がけること。……分かったな?」

「は、はい! 肝に銘じます!」


 俺は、立ち上がって直立不動で敬礼した。

 サクラ夫人が、それを見てクスリと笑った。


「ふふ。面白い方ね。……ユウカ、大事になさいね」

「……はい、お母様」


 ユウカは、涙を拭いながら、満面の笑みを浮かべていた。



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