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学園の女王さまは、俺の前でだけポンコツになる  作者: 速水静香
第二章:ラブラブの恋人(偽)

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第十七話:生存のための戦略


「……で、着きましたけど」


 通された場所は、天上院家の広大な敷地内にある、本邸の客間――ではなく、ユウカの自室だった。

 いつも俺が料理を作っているキッチンや、彼女が朝食をとるダイニングは、ある意味で俺には慣れ親しんだ場所と化していた。

 しかし、今日通されたのは、本邸の中枢にある彼女の部屋だ。

 三十畳はあるであろう広々とした空間。白とパステルピンクを基調とし、猫足の家具やクリスタルのシャンデリアで飾られたその部屋は、いかにも『深窓の令嬢』といった趣だった。

 足首まで埋まりそうなほど毛足の長い絨毯。壁には本物かどうかも分からない名画。

 その空間の傍らに、ひっそりと置かれている緑色のカエル――先日俺がゲーセンで捕獲したケロヨン三世のぬいぐるみ――だけが、この部屋における唯一の、場の空気を緩和させる癒やし成分となっていた。


 だが、そんなファンシーな部屋に漂っているのは、優雅な紅茶の香りではない。

 火薬庫の中で火遊びをしているような、ヒリヒリとした緊張感だった。


「いいこと、カズキ。これは戦争よ」


 部屋の中央に置かれたローテーブルを挟んで、ユウカが鬼気迫る形相で俺を睨みつけていた。

 着替えもせずに制服のままだ。

 移動中のリムジンの中で、彼女が鬼のような勢いで書き殴っていたレポート用紙の束が、テーブルの上にドサリと置かれた。


「戦争って……。ただの食事会でしょう」

「あなたはまだ分かっていないようね! 天上院家の『ただの食事会』が、どれほど高度な政治的駆け引きの場であるかを!」


 ユウカがバン、とテーブルを叩く。

 メイドが恐る恐る運んできたティーカップの中身が、ちゃぷんと揺れた。


「お父様もお母様も、表面上は穏やかで理知的よ。決して大声を出したりはしないわ。でも、その眼光は獲物を狙う鷹のように鋭く、発する言葉は真綿で首を絞めるように的確なのよ。少しでも言動に矛盾が生じれば、即座にあなたの素性は丸裸にされ、私たちの関係が『契約に基づく偽装』だとバレたら……」

「分かってますよ。東京湾で魚の餌、でしょう?」

「そうよ! あなたの命がかかっているのよ!」

「俺の命、軽すぎませんかね」


 俺は苦笑しながら、テーブルの上のレポート用紙を一枚手に取った。

 一番上には、赤ペンで二重線が引かれたタイトルがあった。


『対・天上院夫妻用 完全攻略想定問答集(FAQ)Ver.1.0』


「……なんですか、これ」

「タイトル通りよ。想定される質問と、それに対する模範解答をまとめた台本だわ。これを明日までに頭に叩き込みなさい。一字一句、間違えずにね」


 俺は用紙に目を通した。

 そこには、ありとあらゆる質問パターンが網羅されていた。


『Q1.二人の馴れ初めは?(※時系列の矛盾に注意)』

『Q2.お互いをなんと呼んでいるか?(※愛称の統一)』

『Q3.初デートの場所は?(※庶民的すぎないか要検討)』

『Q4.将来の展望は?(※天上院家の益になるビジョンを提示せよ)』


 ……まるで就職活動の最終面接対策マニュアルだ。あるいは、敵国に潜入するスパイのための架空経歴書レジェンドと言ってもいい。


「ここまでやるんですか」

「当然よ。準備八割、本番二割。勝利の女神は、常に準備を怠らない者に微笑むの」


 ユウカは腕を組み、ふんぞり返った。

 その表情は真剣そのものだが、どこか楽しそうにも見える。彼女はこういう「作戦立案」や「設定作り」が、根っから好きなのだろう。文化祭の準備で張り切るタイプだ。


「いいわね。まずは基本設定の確認から行くわよ。最重要項目、馴れ初めについて」

「はいはい」

「事実通りに『私がカップ麺の汁を床にぶちまけて、ストローで吸っているところを見られたのがきっかけです』なんて言ったら、即座にゲームオーバーよ。私の品位が問われるし、あなたがお世話係だとバレてしまう」

「ですね。じゃあ、どうするんです?」

「ここは王道で行くわ。『放課後の図書室で、同じ難解な哲学書に同時に手を伸ばしたのがきっかけ』ということにしましょう」


 ……ベタだ。

 昭和の少女漫画かと思うほどのベタさ加減だ。それに、無理がある。


「却下です。俺、図書室なんてテスト前以外は行きませんよ。親御さんも俺の成績表くらい取り寄せてるんでしょう? 文系科目はともかく、哲学書なんて読むキャラじゃないってバレます。それに、そんな高度な本がきっかけなら、『その本の内容について語り合ってみたまえ』とか言われたら即死ですよ」

「む……。言われてみればそうね。あなたは活字よりも、スーパーの特売チラシの割引率を計算している時の方が生き生きとしているものね」

「失礼なこと言わないでください。じゃあ、『生徒会の備品運びを手伝った』くらいが無難じゃないですか? 実際、何度もパシリにされてますし、嘘にはなりません」

「人聞きの悪い言い方はやめなさい。……でも、論理的な整合性は取れているわね。採用よ。私が大量の資料を抱えて廊下を歩いていたところを、あなたが颯爽と助けた。そこであなたの逞しさに私が一目惚れした。これで行きましょう」


 自分が一目惚れしたという設定にするのは、彼女なりのプライドなのか、それとも俺への配慮なのか。

 俺はため息をつきつつ、手元の用紙に『備品運び(一目惚れ)』と書き込んだ。


「次よ。これが最大の難関だわ」


 ユウカが身を乗り出してきた。その整った顔が近づき、強い意志を宿した瞳が俺を射抜く。


「『お互いの、どこを好きになったのか』」


 ……来た。

 一番厄介な質問だ。

 こればかりは、事実ベースで話すことができない。なにしろ、俺たちは契約で結ばれた雇用主と使用人であり、恋愛感情などという不確定な要素は存在しないはずだからだ。

 完全なる創作力が試される局面である。


「……これ、なんて答えればいいんですか。適当に『顔が好きです』とか?」

「浅はかね! そんな薄っぺらい回答で、あの両親が納得すると思って!? もっと具体的で、かつ情熱的な理由が必要なのよ!」

「情熱的って言われてもなあ……。俺、そういうキャラじゃないですし」


 俺は頭を抱えた。

 嘘をつくのは苦手だ。特に、こういう感情に関わる嘘は、ボロが出やすい。目が泳いでしまえば、百戦錬磨の親御さんにはすぐに見透かされるだろう。


「いいこと、カズキ。ここはシミュレーションよ。私が父親――面接官役をやるから、あなたは私を説得してみせなさい」

「え、今ここで?」

「そうよ。練習もなしに本番でホームランが打てるわけがないでしょう。さあ、私の目を見て」


 ユウカが、ずいっと顔を近づけてくる。

 長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離だ。

 微かに香る高そうなシャンプーの香りが、俺の思考回路を鈍らせる。


「……じゃあ、質問するわよ。飯田くん、君は娘のユウカの、一体どこに惹かれたのかね? 具体的に、三つ挙げたまえ」


 彼女は咳ばらいをして、わざとらしく低い声を出した。似ていない。

 だが、その瞳は真剣だ。逃げることは許されない。


「えーっと……」


 俺は視線を天井、壁、そして彼女の顔へと彷徨わせた。

 惹かれたところ。好きなところ。

 そんなもの、あるわけがない。

 この人はわがままで、世間知らずで、ポンコツで、俺をこき使う暴君だ。俺の平穏な日常を破壊した張本人だ。

 ……でも。


「……その、綺麗なところ、ですかね」

「だ・か・ら! 顔の話は禁止だと言ったでしょう! 減点一万点!」

「厳しいな! じゃあ、頭がいいところ」

「ありきたりすぎるわ。私のIQが高いことなど、見れば誰でも分かる事実よ。もっと、あなたにしか分からない、マニアックな視点が必要なの」


 マニアックな視点。

 要求レベルが高すぎる。

 俺は唸りながら、これまでの怒涛の日々を回想した。

 朝、アホ毛と格闘する眠そうな顔。俺の作った豚汁を『日本の夜明け』と称賛して平らげる姿。クレーンゲームでムキになって百円玉を投入し続ける横顔。映画で号泣して、俺の肩に頭を預けてきた時の重み。


 ……意外と、いろいろあるな。


「……そうですね。なんというか、意外と、努力家なところ……とか」

「努力家?」

「はい。なんでも天才的にこなすように見えて、実は裏で誰よりも準備してたりするでしょう。できないことがあっても、屁理屈こねながらも諦めずに挑戦したりするところ……ですかね」


 俺がポツリと言うと、ユウカの眉がピクリと動いた。


「……ふん。まあ、それは事実だから否定しないわ。他には?」

「あとは、飯を食う時の顔ですかね」

「は? 食事?」

「ええ。旨いものを食ってる時、本当に幸せそうな顔をするじゃないですか。あれ見てると、こっちまでなんか、いい気分になるというか。……もっと食わせてやりたい、作り甲斐があるっていうか」


 口に出してから、しまったと思った。

 これは『お世話係』としての感想だ。恋人の台詞ではない。『餌付け』の感想に近い。

 訂正しようと口を開きかけたが、ユウカは何も言わずにじっと俺を見ていた。その頬が、ほんのりと色づいている。


「……それから」


 もう、やけくそだ。思ったことを全部言ってしまえ。どうせ練習だ。


「強がってるくせに、本当は寂しがり屋で、ちょっと抜けてて……。そういう、放っておけない危なっかしさが、俺には……その、可愛く見える時がある、みたいな」


 言い切った瞬間、部屋の温度が二度くらい上がった気がした。

 俺の顔も、沸騰しそうだ。

 何を言っているんだ俺は。これではまるで、本気で口説いているみたいじゃないか。


「……以上です。どうですか、これなら文句ないでしょう」


 俺は誤魔化すように早口で締めくくった。

 ユウカは、口元を片手で覆い、視線を斜め下に逸らしていた。

 耳の先が、熟したトマトのように赤い。


「……ご、合格よ」


 蚊の鳴くような、小さな声だった。


「……悪くないわ。その、具体的で。私の内面をよく観察しているという点は、評価に値するわね。お父様も、それなら納得するはずよ」

「そ、そうですか。なら良かった」


 気まずい沈黙が流れる。

 本来なら「よっしゃ、クリアだ」と喜ぶべきところなのだが、なぜか心臓の鼓動がうるさくて仕方がない。

 嘘をつく練習のはずだった。

 なのに、口から出た言葉には、嘘の成分が驚くほど少なかった気がする。

 これでは、まるでカミングアウトだ。


「……こ、こほん」


 ユウカがわざとらしい咳払いをして、空気をリセットしようとした。


「次は、私の番ね。私があなたのどこを好きになったか。これを論理的に説明しなければならないわ」

「お手並み拝見ですね」


 俺は努めて冷静な声を出し、彼女を促した。

 ユウカは深呼吸を一つすると、また父親役の低い声……ではなく、今度は自分自身の凛とした声で語り始めた。


「そうね……。私がカズキを選んだ理由は……」


 彼女は天井を見上げ、人差し指を顎に当てて思案するポーズをとる。


「まず、その類まれなる家事能力ね。私の生命維持に不可欠なカロリーと栄養を、最適な形で提供してくれる。これはパートナーとして非常に得点が高いわ。胃袋を掴まれた、というのは陳腐だけど強力な説得力を持つわ」

「家政夫の面接じゃないんですよ。もっとロマンチックな要素はないんですか」

「黙ってお聞きなさい。それだけではないわ」


 彼女は視線を俺に戻した。

 その瞳が、まっすぐに俺を射抜く。揺るぎない、強い光。


「……あなたは、私の前でも、私を特別扱いしない」

「……え?」

「学校の生徒たちは、みんな私を『天上院家の令嬢』として見るわ。腫れ物に触るように、あるいは崇めるように。誰もが私に傅き、イエスマンになろうとする。でも、あなたは違う」


 彼女の言葉は、台本を読んでいるような抑揚のないものではなく、胸の奥から汲み上げてきたような、静かな響きを持っていた。


「私の失敗を笑い、私のわがままに呆れながらも付き合い、ダメなことはダメだとはっきり言ってくれる。……そんな人間は、私の人生であなただけだった」


 彼女は、テーブルの上に置かれた自分の手を、ぎゅっと握りしめた。


「私が道に迷いそうになった時、あなたは文句を言いながらも、必ず隣にいて、正しい方向へ手を引いてくれる。その……手の温かさが、私は……」


 言葉が途切れた。

 彼女はハッとしたように口をつぐみ、猛烈な勢いで顔を赤くした。


「……す、好き、なのかもしれない……わね。設定としては!」


 最後の一言が、あまりにも取ってつけたようだった。

 だが、その一言があっても、今の言葉の重みは消えなかった。

 俺の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 これは、演技なのか?

 それとも、本心なのか?


 部屋の中には、アンティーク時計の針が進む音だけが響いていた。

 カチ、カチ、カチ。

 その規則的なリズムが、俺の心拍数と重なって、妙な焦燥感を煽っている。


 ユウカは俯いたまま、動かない。

 俺も、なんて声をかければいいのか分からず、ただ呆然と彼女のつむじを見つめていた。

 そこには、俺が毎朝セットしているアホ毛が、一本だけ元気に立っている。

 それを見たら、なんだか急に、愛おしさがこみ上げてきた。


「……会長」

「……な、何よ」


 彼女は顔を上げないまま答えた。


「その回答、採用しましょう。すごく……説得力がありました」

「……当たり前よ。私はいつだって論理的で、完璧なんだから」


 震える声で、彼女は強がった。

 俺は、自然と手が伸びていた。

 テーブル越しに、彼女の握りしめられた手に、自分の手を重ねた。


「っ!?」


 ユウカがびくりと肩を震わせ、顔を上げた。

 その瞳は潤んでいて、頬は夕焼けのように染まっていた。


「……カズキ?」

「当日も、そうやって言えば大丈夫です。俺がついてますから」


 俺は、できるだけ優しく、諭すように言った。

 これは、お世話係としての励ましだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 でも、重ねた手のひらから伝わってくる彼女の体温は、嘘偽りのない「女の子」の熱さだった。

 柔らかくて、少し湿っていて、そして温かい。


「……手、熱いわね」

「そっちこそ」

「……離さないの?」

「……練習ですから。手をつなぐくらい、自然にできないと。親御さんの前でぎこちなかったら、すぐにバレますよ」


 俺が屁理屈をこねると、彼女はふふっ、と力なく笑った。


「そうね。……予行演習よ。あくまでも」


 彼女は、俺の手を握り返してきた。

 その指が、俺の指の間に入り込み、しっかりと絡み合う。

 恋人つなぎ。

 契約書には書かれていない、特別な接触。


 俺たちはしばらくの間、何も言わずに手を繋いでいた。

 窓の外では、日が傾き始め、部屋の中が茜色に染まっていく。

 これから訪れる明日の「食事会」という試練のことなど、この瞬間だけは、どうでもよくなっていた。

 ただ、繋いだ手から伝わってくる脈動だけが、世界のすべてであるかのように感じられた。


「……ねえ、カズキ」

「なんですか」

「もし、この嘘がバレたら……どうなるのかしら」


 ユウカが、ポツリと漏らした。

 それは、不安からくる言葉なのだろうか。それとも、別の意味が含まれているのだろうか。


「バレたら、クビですかね、俺」

「……そうさせないわ」


 彼女は、強い意志を込めて言った。


「私が、絶対に守る。あなたとの……この関係を」


 その関係が、『雇用関係』を指すのか、『偽の恋人関係』を指すのか。

 あるいは、もっと別の何かを指しているのか。

 俺には聞く勇気がなかった。

 もし聞いてしまえば、この心地よい曖昧な空気が、壊れてしまいそうな気がしたからだ。


「……頼もしいですね。じゃあ、期待してますよ、お嬢様」

「ええ。大船に乗ったつもりでいなさい」


 彼女はニカッと笑った。

 その笑顔は、いつものドヤ顔に少し似ていたけれど、ずっと柔らかくて、綺麗だった。


 俺たちは、手を繋いだまま、残りの想定問答を片付けることにした。

 

『Q5.ファーストキスは?』

『Q6.お互いの秘密は?』

『Q7.喧嘩をした時の仲直り方法は?』


 質問はまだまだ続く。

 俺たちは、一つ一つの質問に対して、あーでもないこーでもないと議論し、時には笑い、時には真剣に悩みながら、二人だけの物語を捏造していった。

 それは、世界中の誰に見せるわけでもない、たった二人のための台本。

 けれど、そこに書かれた言葉たちは、いつしか演技を超えて、俺たちの本当の気持ちを映し出す鏡になっていたのかもしれない。


 日が完全に落ち、部屋が薄暗くなっても、俺たちは手を離さなかった。

 この温もりが、ただの演技のための小道具ではないことを、俺たちは無言のうちに認め合っていたのだと思う。



「……よし。これで全項目、完了ね」


 数時間後。

 ユウカがペンを置き、大きく伸びをした。

 テーブルの上には、完成したばかりの『完全攻略想定問答集』が置かれている。

 その厚さは、最初の倍くらいになっていた。余計な書き込みや、脱線した会話のメモが増えたせいだ。


「お疲れ様です。これで、なんとか乗り切れそうですね」

「ええ。完璧よ。私の計算に狂いはないわ」


 彼女は自信満々に言ったが、その声には微かな疲労の色が混ざっていた。

 やはり、緊張していたのだろう。彼女にとっても、親という存在は巨大な壁なのだ。


「……カズキ」

「はい」

「今日は、付き合ってくれてありがとう。……その、助かったわ」


 彼女は、少し照れくさそうに礼を言った。

 いつもなら「当然の義務よ」とふんぞり返る場面なのに、今日の彼女はどこまでも素直だ。


「いえいえ。俺のためでもありますから。それに、結構楽しかったですよ。この設定作り」

「……そうね。運命共同体だものね」


 運命共同体。

 その言葉は、たしかに今の俺たちにはしっくりときた。


「さて、そろそろ帰りますか。あんまり遅くなると、またお母様から怖いメッセージが来そうですし」

「……もう帰るの?」


 ユウカが、少し残念そうに言った。

 その言葉に、俺の足が止まる。

 引き止めてほしいのか?

 ……いや、自意識過剰だ。

 明日の本番を前にして、彼女も不安なのだろう。


「明日は普通に学校ですし、夜の本番に向けて、英気を養っておきたいんで。目の下にクマを作って行ったら、それこそ『娘を寝かせていない不届き者』として減点されそうですから」

「……っ! そ、そうね! 睡眠は美容の基本であり、脳のパフォーマンスを維持するためにも必須だわ!」


 彼女は、顔を赤くして、努めて明るく振る舞った。


「送らせるわ。下まで行きましょう」


 俺たちは部屋を出て、階段を降りた。

 広大な玄関ホールには、すでに執事の老紳士が待機していた。


「お車、用意できております」

「ありがとう」


 ユウカは執事に頷くと、俺の方を向いた。


「じゃあ、また明日。学校で」

「ええ。……そして明日の夜、頼んだわよ」

「はい。任せてください」


 俺は靴を履き、重厚なドアを開けた。

 夜風が冷たい。

 背中越しに、ユウカの視線を感じる。


 振り返りたい衝動を抑えて、俺は歩き出した。

 ポケットの中に入れた手は、まだ彼女の体温を覚えていた。

 

 明日は、決戦の日だ。

 天上院家の両親というラスボスとの対決。

 でも、不思議と恐怖はなかった。

 俺のポケットの中には、カンニングペーパーという最強の武器がある。


 俺は夜空を見上げ、深く息を吸い込んだ。

 星が綺麗だった。


 たぶんきっと、なるようになる。

 俺はそう信じるしかなかった。

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