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学園の女王さまは、俺の前でだけポンコツになる  作者: 速水静香
第二章:ラブラブの恋人(偽)

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第十六話:食事会という名の査問会


 学園の喧騒が遠のいていく放課後の特別棟。

 三階の最奥に位置する生徒会室は、本来であれば、この私立陽寧学園の秩序を守るための司令塔であり、静謐と理性が支配する聖域であるはずだった。


 俺の足取りは、ここ数日の中では比較的軽いものだった。

 先日のショッピングモールでの『デート』という名の庶民生態調査を経て、学園内における俺と天上院ユウカ会長の関係は、『公認のカップル』として定着しつつあったからだ。

 当初、俺が恐れていたような悪意ある陰口や、身の程知らずという誹謗中傷は、驚くほど鳴りを潜めていた。代わりに向けられるのは、『高嶺の花を射止めた幸運児』あるいは『会長の尻に敷かれている哀れな従僕』という、生温かい、しかし害のない視線だ。

 人間というのは不思議なもので、隠されている事実は暴きたくなるが、堂々と公開された事実に対しては、案外あっさりと順応してしまうらしい。会長の言っていた『チャンス』という言葉の意味を、俺は身をもって実感していた。

 廊下の窓から差し込む夕日が、床に長い影を落としている。

 今日もまた、日課となった『お世話係』としての業務――主にお茶汲みと、会長の話し相手、そして時折発生するアホ毛の制圧――をこなす時間がやってきた。

 俺はいつものように、生徒会室のドアに手をかける。

 中ではきっと、彼女が優雅に紅茶を飲みながら、今日の授業の不合理性について独自の理論を展開しているか、あるいは新しい『庶民の遊び』について目を輝かせていることだろう。

 そんな平和な日常を予想して、俺はドアを開けた。


「失礼しま……」


 挨拶は、最後まで紡がれることはなかった。

 俺がドアを開けた瞬間、鼓膜を劈くような、悲鳴とも絶叫ともつかない音が、室内から炸裂したからだ。


「あああああッ! どうしましょう! どうすればいいのよ、これえええええッ!!」


 ……なんだ?


 新種の怪鳥でも迷い込んだのか? あるいは、生徒会室の地下から石油でも湧き出してパニックになっているのか?

 俺は一瞬、回れ右をして帰ろうかという衝動に駆られた。


 『面倒なことからは全力で逃げる』。


 俺の人生のテーゼが、警報音と共に脳内で鳴り響く。この先の光景に関わってはいけない。直感がそう告げていた。

 だが、悲しいかな。数週間にわたる「お世話係」としての生活で染みついた社畜根性が、俺の足をその場に止めてしまった。

 俺は覚悟を決め、大きく息を吸ってから、そのカオスの中へと踏み込んだ。


「……会長、何事ですか」


 部屋の中は、局地的な台風が通過した直後のような有様だった。

 普段は整然と積まれている書類の塔が崩壊し、床一面に白い雪原のように散乱している。来客用の椅子は斜めに倒れかけ、ホワイトボードには意味不明な数式と『破滅』という文字が書き殴られていた。

 そして、その惨状の中心で。

 我らが天上院ユウカ会長が、頭を抱えてうずくまっていた。

 美しい黒髪は振り乱され、制服のリボンは曲がり、この世の終わりのような表情で床を見つめている。

 彼女は俺の姿を認めると、まるで地獄で仏、あるいは無人島で救援船を見つけた遭難者のような形相で、膝行しながら俺の足元に滑り込んできた。


「カズキ! カズキィィッ!」

「ちょ、落ち着いてください」

「落ち着いてください、ではないわ! 国家存亡の危機よ! いいえ、天上院家崩壊の序曲だわ!」


 彼女は涙目で立ち上がると、俺の制服の襟首を掴んで、ガクガクと揺さぶった。


「来たのよ……! ついに、来てしまったのよ!」

「だから、何がですか。主語を述べてください」

「これよ! これを見なさい!」


 彼女は震える手で、自身の最新型スマートフォンを俺の顔面に突きつけてきた。画面が近すぎてピントが合わない。


「近いです。見えません」


 俺は彼女の手首を優しく掴んで距離を取り、画面を覗き込んだ。

 メッセージアプリのトーク画面だ。送信者の名前は、シンプルに『お母様』となっている。

 そこに表示されているのは、ほんの数分前に受信したと思われる、一通のメッセージだった。


『ユウカさん。学校での『ご報告』、お父様と一緒にお聞きしましたよ。素晴らしいことですね。つきましては、明日の夕食会に、そのお相手の方をご招待しなさい。楽しみにしていますね(笑顔の絵文字)』


 ……なるほど。

 俺は一度、スマホから視線を外し、天井を仰いだ。

 文面は極めて穏やかだ。丁寧語で、最後には可愛らしい絵文字までついている。普通に見れば、娘の吉報を喜ぶ母親からの、温かいメッセージに見えるだろう。

 だが、その行間からは『逃がさない』『拒否権はない』『値踏みしてやる』という、絶対権力者特有の圧力が、どす黒いオーラとなって滲み出ていた。

 背筋に、氷柱を差し込まれたような冷たさが走る。


「……詰みましたね」

「他人事のように言わないでちょうだい! あなたも当事者なのよ!?」


 ユウカが悲鳴を上げた。


「いいこと? お母様の『楽しみにしています』は、文字通りの意味ではないわ。『洗って待っていろ』と同義よ! まな板の上の鯉になるのは、私とあなた、二人なのよ!」

「いや、でも落ち着いてください。明日って、まさか明日の夜ですか? 今日はまだ水曜日だ。ご両親って、今は海外にいらっしゃるんじゃなかったんですか?」


 俺は記憶を手繰り寄せる。

 確か、以前彼女が「両親は世界を飛び回るビジネスパーソンで、日本にはほとんどいない」と言っていたはずだ。今朝のニュースでも、天上院グループの総帥がニューヨークで経済サミットに出席している映像が流れていたような気がする。


「そうよ。お父様はニューヨークの国際会議に出席されているはずだし、お母様はパリで新作のオートクチュール・コレクションの最前列に座っているはずだったわ」


 ユウカは早口でまくし立てると、スマートフォンの画面を切り替え、フライトレーダーのアプリを表示させた。


「でも、これを見て」


 世界地図の上に、無数の飛行機アイコンが動いている。

 彼女が指さしたのは、太平洋のど真ん中を、日本に向かって一直線に進んでいる一機のアイコンだった。

 識別信号には『TENJOIN-01』とある。


「……これ、なんですか」

「お父様のプライベートジェットよ」

「はあ」

「たった今、太平洋上空高度三万フィートを、マッハ0.9で巡航中よ。行き先は、羽田空港。到着予定時刻は、明朝十一時」


 彼女は絶望的な声で告げた。


「お父様はニューヨークでの重要会議を部下に丸投げし、お母様はパリから超音速で移動してお父様の機体に合流し……今、二人が揃って、日本に向かって突撃してきているのよ!」

「……え、マジですか」

「マジもマジ、大マジよ! 全ては、明日の夜に行われる『カズキの査問会』のためだけに、億単位の損失とスケジュール変更を強行したのよ!」


 俺は言葉を失った。

 スケールが違いすぎる。

 娘の彼氏(仮)の顔を見るためだけに、世界経済を動かしているような人間たちが、大陸間弾道ミサイルのような勢いで帰ってくるというのか。


「……なんで、そんな急なことに……」

「私の『恋人宣言』が原因に決まっているでしょう!」


 ユウカは頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。


「あの人たちは、私のことに関しては過保護……いいえ、過干渉なのよ。普段は放任主義を装っているけれど、こと『天上院家の血筋』や『後継者のパートナー』という話題になった瞬間、CIAも真っ青の情報収集能力と行動力を発揮するわ」

「でも、俺のこと、知ってるんじゃないんですか? 毎朝、お屋敷に行ってるし」


 俺は素朴な疑問を口にした。

 毎朝の朝食作り、そして登校の送迎。俺の個人情報はとっくに把握されていると思っていた。


「……そこが、最大の誤算だったのよ」


 ユウカは顔を上げ、悔しそうに唇を噛んだ。


「カズキ、あなたは確かに毎日屋敷に来ているわ。でも、あなたの入館許可証セキュリティ・パスの登録種別を知っている?」

「いえ、知りませんけど」

「『生徒会業務補助員』つまり、使い捨てのパスよ」

「……あー」

「使用人や警備員への通達も、『お嬢様の学校関係者』として処理されていたの。だから、両親への定期報告書にも、あなたの名前は『生徒A』あるいは『協力者』として、数行記載されるだけの存在だったわ」


 彼女は俺を指さし、悲痛な声で言った。


「つまり、両親にとってあなたは、『背景に溶け込んでいるモブ』に過ぎなかったのよ!」


 モブ。

 俺が望んでやまないポジションだ。

 誰の記憶にも残らず、平穏に過ごすための最高の迷彩。


「ところが、あの中庭での『恋人宣言』よ。あれが使用人ネットワークを通じて、光の速さでお母様の耳に入ったわ」

「……使用人ネットワーク、恐るべしですね」

「『モブだと思っていた男が、実はお嬢様の恋人だった!?』『しかも公衆の面前で堂々と抱擁を!?』……そんな情報が、尾ひれ胸ひれ背びれまでついて報告されたに違いないわ」


 ユウカはガシガシと頭を掻きむしった。


「両親の認識は、一夜にして『ただのバイト』から『娘の貞操と将来を脅かす重要参考人』へと劇的に変化したのよ! だからこそ、全ての予定をキャンセルして、直接その目で確かめるために飛んできたの!」


 なるほど、理解した。

 俺は、虎の尾を踏んだどころか、寝ているドラゴンの鼻の穴に爆竹を突っ込んだようなものだ。

 そしてそのドラゴン夫婦は、今まさに太平洋を越えて、俺を焼き尽くすために飛来している。


「……で、その明日の食事会っていうのは」

「言葉通りの意味よ。あなたを実家のメインダイニングに招待し、フルコースの料理を振る舞いながら、あなたの出生から現在に至るまでの全記録を精査し、DNA配列から人格の欠陥までを徹底的に解剖するための『尋問の宴』よ」


 ユウカは立ち上がり、亡霊のようにふらふらと歩き出した。


「どうしましょう……。今のあなたは、どこからどう見ても『ちょっと家事が得意なだけの平民A』だわ。そんな男が、天上院家の令嬢の恋人? 無理よ。説得力ゼロだわ。開始五秒で論破されて、即座に『契約解除』&『社会的抹殺』コースよ!」

「なんで俺だけ物理的に消される前提なんですか」

「冗談ではないわ。お父様の目は、嘘をつく人間を見抜くレーザースキャナーみたいなものよ。もし、私たちの関係が、私のポンコツを隠すための契約に基づいた偽装だとバレたら……私は修道院送り、あなたは東京湾の底でコンクリートの靴を履くことになるわ!」

「時代設定が昭和のマフィアなんですよ!」


 俺はツッコミを入れたが、内心では笑えなかった。

 ユウカの怯え方は尋常ではない。彼女がここまで取り乱すということは、その両親というのは、相当に手強い相手なのだろう。


「……逃げる? いいえ、逃げ場はないわ。GPSで追跡されるだけよ。……仮病? お抱えの医師団が派遣されて嘘が露見するわ……。ああ、もう、打つ手なしだわ! 詰んだ! ゲームオーバーよ!」


 ブツブツとネガティブなシミュレーションを繰り返し、頭を抱えてしゃがみ込む彼女。

 学園の女王と呼ばれ、いつもは高飛車な理屈を並べる彼女が、今はただの、親に怒られるのを恐れる小さな子供のように見えた。

 その姿を見ていると、呆れると同時に、不思議と「放っておけない」という感情が湧き上がってくる。

 ……本当に、世話の焼ける人だ。


 俺は深く、重いため息をついた。

 そして、床に散らばった書類を一枚一枚、拾い上げ始めた。


「……会長」

「ううぅ……」

「会長、顔を上げてください」

「無理よ……。私の未来はもう闇の中……」

「諦めるのが早いですよ。まだ、負けたわけじゃないでしょう」


 俺の言葉に、ユウカがピクリと反応した。


「……え?」

「パニックになっても事態は好転しません。いつもの貴女の口癖でしょう? 『感情に支配されるのは愚者のすること』。『王たる者は、常に論理的でなければならない』」


 俺は、拾い集めた書類の束を、机の上にトン、と揃えて置いた。

 そして、涙目でこちらを見上げる彼女に、手を差し伸べた。


「違いますか?」


 ユウカは、ハッとしたように目を見開いた。

 その瞳の中で、泳いでいた不安の色が、少しずつ、本来の光を取り戻していく。

 彼女は、一度大きく深呼吸をした。震える指先を、反対の手でぎゅっと握りしめて、強制的に止める。

 そして、俺の手を取って、ゆっくりと立ち上がった。


「……そう、ね。そうだったわ」


 彼女は制服の乱れをただし、長い髪をかき上げた。

 その顔つきが、変わる。

 怯える少女から、学園を統べる生徒会長の顔へ。


「私は、天上院ユウカ。この程度の危機で取り乱すなど、王失格だわ」


 まだ声は少し震えている。膝も笑っている。

 けれど、その瞳には、確かな闘志が宿っていた。


「……カズキ。緊急作戦会議よ」

「会議?」

「ええ。このまま無策で実家に乗り込むのは、裸で戦車に挑むようなもの。自殺行為だわ」


 ユウカは、机の上に置かれたカレンダーを指さした。

 週末まで、ではない。明日。

 両親が乗ったプライベートジェットが羽田に到着するまで、あと十時間ほど。


「敵戦力は強大。時間は僅少。しかし、勝機がゼロではない限り、最善手を打ち続けるのが私の流儀よ」


 彼女は、俺の方を向き、ビシッと指を突きつけた。


「私たちは、あの鋭利な刃物のような両親の質問攻めを回避し、かつ『理想的な恋人同士』であるという幻影を、彼らの脳髄に植え付けなければならない。これは、史上最大にして最高難易度の、詐欺プロジェクトよ!」

「人聞きの悪い言い方ですね。まあ、つまり『口裏合わせ』ってことですね」

「『防衛戦略の構築』と言いなさい!」


 彼女は自身の鞄をひっつかむと、俺の腕を強引に取った。


「場所を変えるわ。ここは落ち着かない。私の部屋へ行くわよ」

「え、今から? もう下校時刻ですよ?」

「関係ないわ! 明日まで時間がないのよ!もう、今夜しかないのよ!一分一秒が惜しいわ。さあ、リムジンを回させるから、ついてきなさい!」

「ちょっと、まだ掃除が……!」


 拒否権など、最初から存在しなかった。

 俺は半ば引きずられるようにして、生徒会室を後にした。

 夕暮れの廊下を、美少女に腕を引かれて走る男子生徒。

 すれ違う生徒たちが、「あ、会長と飯田くんだ」「また一緒だね」「なんかすごい勢いで走ってない?」「青春だなぁ」と生温かい視線を送ってくるのが分かった。

 違う。これは青春の逃避行ではない。

 これは、明日の夜に控えた処刑台へのカウントダウンに抗うための、必死の行軍なのだ。


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