第十五話:おうちに帰りましょう
映画が終わり、俺たちは映画館を出た。
外はすっかり日が傾き、空は茜色から群青色へとグラデーションを描いていた。
モールの出口を出ると、心地よい夜風が火照った頬を撫でる。
「……ふわぁ」
会長が、小さくあくびをした。
彼女はまだ少し眠そうだ。ロッカーから回収したケロヨン三世を抱きかかえ、とろんとした目で俺を見ている。
「……見苦しいところを見せたわね。まさか、芸術鑑賞の最中に意識をシャットダウンさせてしまうなんて。不覚だわ」
「まあ、疲れてたんでしょう。映画の内容、覚えてますか?」
「当然よ。中盤までは把握しているわ。あと、後半の……そう、主人公たちが結ばれるプロセスについては、夢の中で補完しておいたから問題ないわ」
「夢オチにしないでください」
俺たちは、バス乗り場ではなく、広い場所の方へと向かった。
もうバスに乗る体力は残っていないだろうし、会長の家に帰るには、ここからリムジンを呼ぶのが一番だ。
会長がスマートフォンで連絡を入れると、ものの数分で、いつもの黒塗りの巨体が音もなく姿を現す。
「お待たせいたしました、お嬢様」
「ええ、ありがとう」
運転手の老紳士がドアを開ける。
俺たちは、慣れ親しんだ革張りのシートへと身を沈めた。
ドアが閉まると、車内は完全な静寂に包まれる。さっきまでのモールの喧騒が、遠い過去の出来事のようだ。
「……ふぅ」
会長が、深くシートに体を預け、天井を見上げた。
「……長かったわね、今日という一日は」
「そうですね。いろいろありましたから」
「庶民の生態調査……。想像以上にハードだったわ。音の暴力、食の誘惑、そして感情の消耗……。これほどまでにエネルギーを使うものだとは、計算外だった」
「でも、目的は達成できたんじゃないですか? 目撃者もたくさんいましたし」
俺が言うと、会長は視線をこちらに向けた。
「ええ。そうね。これで、私たちの『恋人関係』は、盤石なものとなったはずよ。明日からの学園生活は、よりスムーズに運営できるでしょうね」
彼女は、いつもの論理的な口調でそう言った。
だが、その手は、無意識に髪についたヘアクリップを触っている。
「……それと」
「はい?」
「……楽しかったわ」
彼女は、窓の外を流れる夜景に目を向けながら、独り言のように呟いた。
「論理や計算だけでは割り切れない、非効率で、無駄が多くて、騒がしい……そんな時間も、たまには悪くないかもしれない。そう思えたわ」
その横顔は、穏やかで、優しかった。
俺は、何と答えていいか分からず、ただ曖昧に頷いた。
「……そうっすね。俺も、まあ……悪くはなかったです」
素直じゃないな、俺も。
でも、これが精一杯だ。
車は、滑るように夜の道を走る。
いつもなら、このまま俺の家の近くまで送ってもらうか、あるいは彼女の家まで行ってから解散するのが通例だ。
だが、今日は違った。
「……ここでいいわ」
会長の屋敷の巨大な門の前で、車が止まる。
「え? 俺、ここで降りるんですか?」
「ええ。今日はもう遅いし、あなたも疲れているでしょう。この車で、そのままあなたの家まで送らせるわ」
「いや、でも、それだと会長が……」
「私はここで降りるわ。家の者に顔を見せないと、うるさいからね」
会長はそう言うと、ドアを開けて降りようとした。
そして、ふと足を止めて、振り返った。
「カズキ」
「はい」
「今日は、本当にありがとう。……おやすみなさい」
彼女は、夜風に髪をなびかせながら、静かに微笑んだ。
その笑顔は、今日見たどのはにかみとも違う、大人びた、けれどどこか寂しげなものに見えた。
ヘアクリップの青い石が、街灯の光を受けて一瞬だけ強く輝いた。
「……おやすみなさい、会長」
バタン。
玄関の高級そうなドアが閉まる。
窓ガラス越しに、彼女が小さく手を振るのが見えた。
車がゆっくりと動き出す。
俺は、遠ざかっていく彼女の背中と、巨大な屋敷の門が見えなくなるまで、ずっと後ろを振り返っていた。
車内には、彼女の香りが微かに残っていた。
俺はシートに深く身を沈め、自分の胸に手を当てた。
契約上の関係。偽りの恋人。お世話係と主人。
いろんな名前がついているけれど、今のこの関係に、一体どんな名前をつければいいのか、今の俺にはまだ分からなかった。




