第十四話:映画館と会長
ショッピングモールの最上階にあるシネマコンプレックス。
そこは、ポップコーンの甘い香りと、これから物語の世界へ没入しようとする人々の高揚感で満たされていた。
俺たちが選んだのは、今話題のラブストーリー映画だ。
正直、俺の趣味ではない。どちらかと言えば、俺が見たいのはアクション映画とかだ。
だが、今回の目的は『カップルらしいデート』を演出すること。その文脈において、ラブストーリーという選択は避けて通れない通過儀礼だった。
「……人が多いわね」
チケット売り場に並ぶ列を見て、会長が言った。
彼女の髪には、先ほどのヘアクリップが光っている。
ケロヨン三世は、さすがに映画館内には持ち込めないので、コインロッカーに預けることになった。別れ際、会長は『必ず迎えに来るからね』と涙ながらにぬいぐるみに語りかけていたが、あれはただの布と綿の塊だ。
「話題作ですからね。席、一番後ろの端っこにしときましたけど、いいですか?」
「ええ。戦略的撤退が容易なポジションね。賢明な判断だわ」
「撤退しませんけどね。最後まで見ますよ」
チケットを発券し、売店へ向かう。
映画のお供といえば、ポップコーンとドリンクだ。
「カズキ、あれは何? バケツのような容器を抱えている人がいるけれど」
「Lサイズのポップコーンです」
「あんな大量の炭水化物を、映画一本の上映時間内に摂取するというの? 正気の沙汰ではないわ」
「じゃあ、Sサイズにしますか?」
「いいえ。Lで」
「食うんかい」
結局、Lサイズのキャラメルポップコーンと、それぞれのドリンクを購入した。
会長は、自分の顔ほどもある巨大なポップコーン容器を抱え、戦いに赴くような真剣な表情をしている。
「……いい匂いね。この甘美な香料……。映画という虚構の世界へ誘うための、麻薬的なアロマだわ」
「ただのキャラメルですよ。ほら、始まりますよ」
俺たちは指定されたスクリーンへと入場した。
薄暗い場内。最後列のカップルシート……ではなく、普通の席に並んで座る。
ふかふかのシートに身を沈めると、会長が小さく息を吐いた。
「……意外と快適ね。リクライニング座席ほどではないけれど、人間工学的な配慮を感じるわ」
「お静かに。予告編が始まりますよ」
場内の照明が落ち、暗闇が訪れる。
スクリーンに光が投影され、大音響と共に予告編が流れ始めた。
その瞬間。
ガサガサ、ポリポリ。
隣から、小動物が餌を食むような音が聞こえてきた。
見ると、会長が凄まじいスピードでポップコーンを口に運んでいる。
「……会長、早くないですか?」
「んぐ……。だ、だって、止まらないのよ。このカリカリとした食感と、濃厚な甘さが……! 手が勝手に動いてしまうバグが発生しているの!」
「本編始まる前になくなりますよ」
「計算外だわ……。映画館の暗闇には、食欲を増進させる魔力が潜んでいるに違いない……」
案の定、本編が始まる頃には、Lサイズの容器は半分以下になっていた。
そして、物語が始まった。
スクリーンの中で繰り広げられるのは、ごくありふれた、すれ違いと再会を描いた恋愛劇だ。
主人公とヒロインが出会い、恋に落ち、障害に直面し、涙を流す。
ベタだ。あまりにもベタな展開だ。
俺は少し退屈しながら、スクリーンを眺めていた。
だが、隣の様子がおかしい。
中盤、ヒロインが雨の中で泣くシーンに差し掛かったあたりから、ズズッ、ズズッ、という不審な音が聞こえ始めたのだ。
「……会長?」
そっと横目で見る。
スクリーンの光に照らされた会長の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「……うぅ……っ。ひどいわ……。どうして、彼らは素直になれないの……?言葉で伝えれば一瞬で解決する問題じゃない……っ!」
彼女はハンカチを目に押し当て、震えている。
「でも……っ、それができないのが、人間の愚かさであり……愛おしさなのね……っ! ううっ……!」
感受性が豊かすぎる。
普段はあんなに論理と理屈で武装しているのに、こういう『情緒』の攻撃にはめっぽう弱いらしい。
彼女はポップコーンを食べる手も止め(というかすでに空だった)、スクリーンに食い入るように見入っている。
その横顔は、真剣で、そして純粋だった。
俺は、映画の内容よりも、そんな彼女の反応の方が気になって、物語に集中できなくなっていた。
泣いたり、怒ったり、忙しい人だ。
でも、その飾らない感情の発露が、俺には少しだけ眩しく見えた。
そして、物語はクライマックスへ。
感動の再会、そしてハッピーエンド。
壮大な音楽と共にエンドロールが流れ始める。
……あれ?
隣が静かだ。
さっきまであんなに泣いていたのに、鼻をすする音もしない。
「……会長?」
俺は小声で呼びかけた。
返事がない。
俺は身体を傾け、彼女の顔を覗き込んだ。
彼女は、寝ていた。
気持ちよさそうに、すーすーと寝息を立てて。
泣き疲れたのだろうか。あるいは、朝からの慣れない人混みと、クレーンゲームでの死闘、そして糖質の過剰摂取による血糖値スパイクのコンボで、限界が来たのだろうか。
その頭が、ゆらりと揺れる。
そして、コトン。
俺の肩に、重みが乗った。
「……っ」
彼女の頭が、俺の肩にもたれかかっている。
柔らかい髪の感触。温かい体温。そして、規則正しい寝息。
シャンプーの香りと、キャラメルポップコーンの甘い匂いが混ざり合って、鼻をくすぐる。
俺の身体が硬直する。
動けない。
ここで動いたら、彼女を起こしてしまう。
それは『お世話係』として、あるまじき行為だ……というのは建前で、本音は、この時間をもう少しだけ続けていたいと思ってしまったからだ。
暗闇の中、俺はスクリーンではなく、肩に預けられた彼女の頭を見つめた。
無防備な寝顔。
長い睫毛が、微かに震えている。
泣いた後の目元は少し赤くて、子供みたいだ。
耳元には、俺があげたヘアクリップが、スクリーンの光を受けて小さく輝いている。
……本当に、手のかかる人だ。
こんな無防備な姿を、俺みたいな男に見せて。
もし俺が狼だったらどうするつもりなんだ。
まあ、俺は狼というよりは、ただの番犬か執事みたいなもんだけど。
ドクン、ドクン。
俺の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
この音が、彼女に伝わってしまわないか心配になるほどだ。
映画の感動的なバラードが流れる中、俺は自分の心音というBGMを聞きながら、身じろぎもせずに座り続けていた。
場内の明かりが点くまで、あと数分。
それまでは、このままでいさせてくれ。
これは役得だ。今日の労働に対する報酬みたいなもんだ。
俺は、そっと彼女の髪に触れそうになる手を引っ込め、ただ静かに、その温もりを感じていた。




