第十話:家電量販店
モールの中は、休日特有の熱気に満ちていた。
家族連れの笑い声、館内放送の呼び出し音、各店舗から流れるBGM。それらが混ざり合い、一つの巨大なノイズとなって空間を満たしている。
会長は、入った瞬間、足を止めた。
「……人が、多いわ」
彼女は圧倒されたように呟いた。
広い吹き抜けの空間を行き交う人々の波。その数に、彼女の脳が処理落ちを起こしているようだ。
「言ったでしょう。週末はこんなもんです」
「全員、何をしに来ているの? 何か暴動でも起きる前触れ?」
「買い物と食事と、暇つぶしです」
「暇をつぶすために、わざわざこんな高密度の空間に身を投じるなんて……。庶民の思考は、やはり理解不能だわ」
そう言いながらも、彼女の目は油断なく周囲を観察している。
俺たちは、人の流れに乗って歩き出した。
「まずは、どこへ行くの?」
「そうですね。とりあえず、何か見ますか?服とか?」
「服はもういいわ。先日、あなたが選んだもので十分足りている。それより、もっと実用的なものが見たいわね」
「実用的?」
「ええ。文明の利器よ」
会長が指さしたのは、フロア案内図にある『家電量販店』の文字だった。
「家電ですか? 何か必要なものでも?」
「私の家……いいえ、あなたの職場環境の改善に必要な投資を行いたいと思っているの」
「職場環境って、俺のキッチンですか?」
「それ以外に何があるのよ。さあ、行くわよ」
彼女はズンズンと歩き出した。俺は慌てて後を追う。
家電量販店のフロアに入ると、そこはまばゆい光の洪水だった。最新のテレビ、冷蔵庫、洗濯機が整然と並び、店員たちが声を張り上げている。
会長は、一直線に調理家電のコーナーへと向かった。
「これよ、カズキ。これがあれば、あなたの料理スキルはさらに飛躍的に向上するはずだわ」
彼女が立ち止まったのは、高級炊飯器のコーナー……ではなく、なぜかエスプレッソマシンの前だった。
「……コーヒーメーカーですか?」
「ただのコーヒーメーカーではないわ。イタリア製の全自動エスプレッソマシンよ。豆の挽き具合から抽出温度まで、全てをプログラムできる優れものだわ。お値段は……ふむ、二十万円。安いわね」
安くない。絶対に安くない。俺のアパートの家賃の何ヶ月分だと思っているんだ。
「買いましょう。これをあなたの家に設置すれば、毎朝私が飲むコーヒーのクオリティが劇的に向上するわ」
「置き場所がありません! 俺のキッチン、激狭なんですよ!?」
「ならば、隣の部屋も借りればいいじゃない」
「簡単に言わないでください! 却下です!」
俺が止めると、会長は不満げに次へ移動した。
次に目をつけたのは、巨大なオーブンレンジだった。
「これならどう? AI搭載で、食材を入れるだけで最適な調理法を提案してくれるらしいわ。これさえあれば、あなたが不在の時でも、私が餓死せずに済むかもしれない」
「会長、これ、幅が六十センチあります。俺の冷蔵庫の上に置いたら、はみ出して落下します」
「……ちっ。あなたの部屋の狭さが、文明の進化を拒絶しているわね」
誰が拒絶してるんだ。物理法則だ。
会長は、その後も次々と高級家電に手を出そうとした。水素水生成器、自動パン焼き機、果ては業務用のかき氷機まで。
そのすべてが「俺の部屋には入らない」か「必要ない」ものばかりだ。
「もう! 何も買わせてくれないじゃない! 私は消費活動を通じて経済に貢献したいのよ!」
「貢献の仕方が雑すぎます! 買うなら、もっとこう、本当に使えるものにしてください」
「本当に使えるもの……?」
会長は考え込み、そして一つの棚の前で足を止めた。
そこにあったのは、圧力鍋だった。
電気圧力鍋。ボタン一つで煮込み料理ができる、最近流行りのやつだ。
「……これ」
「圧力鍋ですね」
「これがあれば、硬い肉も短時間で柔らかくなる?」
「なりますね。角煮とか、一時間もあればトロトロになりますよ」
「角煮……!」
会長の目が輝いた。彼女は肉好きだ。特に、脂の乗った柔らかい肉には目がない。
「それに、野菜のスープとかも、朝セットしておけば帰宅時にはできあがってます」
「……素晴らしいわ。時間の短縮と、味の追求。これこそ論理的な調理器具ね」
彼女は商品の箱を手に取った。
「これにするわ。カズキ、これを買いなさい」
「え、俺が買うんですか?」
「違うわよ。私が買うの。でも、使うのはあなたよ。だから、あなたの家に送るわ」
「……それ、プレゼントってことですか?」
「勘違いしないでちょうだい。これは設備投資よ。より美味しい角煮を私に提供するための、先行投資に過ぎないわ」
彼女はツンとした顔で言い放つと、近くにいた店員を呼び止めた。
「これをお願い。配送先はカズキの家に。カズキ、住所を書きなさい」
「はあ……」
「支払いはカードで。一括よ」
彼女が財布から取り出したのは、漆黒に輝くブラックカードだった。
店員の顔が引きつる。
「あ、あのお客様、こちらのカードは……ご本人様の、ですか?」
「もちろんよ!失礼ね!」
その会長の発言に周囲の客もざわつく。
女子高生がブラックカードで圧力鍋を買う図は、シュールだ。
「……会長、ここのポイントカードとか持ってないんですか?」
「何それ?」
「いいえ、もういいです……」
会計を済ませ、配送の手続きを終えると、会長は満足げな笑みを浮かべた。
「ふふん。良い買い物をしたわ。これで、私の食生活はさらに充実する。あなたも、新しい武器を手に入れて嬉しいでしょう?」
「まあ、圧力鍋はずっと欲しかったんで、正直助かりますけど……」
「素直でよろしい。感謝の気持ちは、最高級の豚の角煮で示してちょうだい」
「了解です、マイ・オーナー」
俺が皮肉っぽく敬礼すると、会長は「うむ」と鷹揚に頷いた。
なんだかんだで、彼女は楽しそうだ。
自分の欲求を通しただけのように見えるが、その実、俺の負担を減らすために、時短調理ができるものを選んでくれたような気もする。
……いや、考えすぎか。単に角煮が食いたいだけだろう。
「さて、次はどこへ行くの? 私の購買意欲は、まだ満たされていないわよ」
「じゃあ、次はあれです。庶民の娯楽の殿堂」
「殿堂?」
俺は上の階を指さした。
そこからは、賑やかな電子音と、人々の歓声が聞こえてきていた。
「ゲームセンターに行きましょう」
「げーむ……せんたー……?」
会長は、その未知の響きを噛みしめるように繰り返した。
もしかしたら、彼女にとっての『遊戯』とは、チェスかバイオリンか、あるいは乗馬なのかもしれない。




