52話 帰城・これまでとこれから
マリーエルを迎えたレティシアは、不安を滲ませていた瞳を僅かに緩めた。
「帰ったのね」
「はい。此の度のことはお姉様のお手柄だったと聞きましたよ」
マリーエルが言うと、茶の用意をしていたレティシアは、手を止め俯いた。
「お手柄ではなくてよ。貴女にだって判るでしょう。これはきっと私が深淵の女王と通じてしまったから起きたこと」
「でも、お姉様が夢のことをカオルお兄様に話して下さったお陰で大事にならずに済みました」
持参した菓子を皿に並べながらマリーエルが言うと、レティシアは口を引き結んで少しだけ苦しそうな顔をした。
その時呼び鈴が鳴り、シーニャが部屋の外に来客を迎えに出ると、緊張した顔で戻って来た。後ろに続いていたのは、カオルだった。
「アーチェに君はここにいると聞いて、丁度いいと思ってな」
レティシアがカチャンッと音を立てて食器を取り落とした。それを見やったカオルは、ふっと息を吐いた。
「そんなに緊張するな。何も詰りに来た訳じゃない。──あぁ、そこの君は続きの間で控えていなさい。いいね?」
シーニャはレティシアに問うような視線を向け、小さく頷いたのを見ると、頭を下げてから続きの間へと引っ込んだ。
さて、とカオルが言う。
「報告会の前に話しておきたいと思ってな。喪失の谷のこと。レティシアが見た夢のこと」
不安そうな顔をしたレティシアは、それでもカオルの分の茶を淹れると、大人しく卓へと着いた。
マリーエルは喪失の谷で話し合ったことをカオルに伝え、レティシアは夢の内容をぽつりぽつりと話した。
それらを話し、聞きながら、マリーエルは改めて考えた。
「私は世界樹の枝葉を祓った際に、世界樹よりいくつかの光景を視せられました。私の場合カナメが共に居たから、ということもあるでしょうが、お姉様にも同じようなことが起きたのだと考えられないでしょうか。私にはお姉様が穢れにあたっていたり、影に侵されているとは思えません。深淵の女王とのことがあって影を視ることが出来るようになったのかもしれません」
茶を口に運びながらマリーエルの話を聞いていたカオルは、器を置き、吟味するように何度か頷いた。
「それも考慮しよう。さて、では……レティシア」
「……はい」
レティシアは組んでいた手をより強く握り、顔を上げた。
「これはまだ構想段階だがな。レティシア、お前が喪失の谷の管理を任されてはくれないか」
驚きに目を瞬いたレティシアは、次の瞬間思い切り顔を顰めて首を振った。
「私には無理です。お兄様もお判りでしょう。私をかの地に置いたところで何も出来ません。それとも、あぁ──あの地で果てよということですね」
レティシアは思いつめたような瞳で、恐怖に体を引いた。その様子に、カオルは眉間を押さえて緩く首を振った。
「何故そうなる。お前の力を活かせるのではないか、と考えただけだ。勿論、今すぐにという訳じゃない。長期的な対処が必要であれば、拠点を置く必要がある。そこの主となって欲しいというだけだ。もし私が『あの地で果てよ』と思ったのなら、お前は既に此処には居ない。そうだろう?」
カオルは諭すようにそう言うと、レティシアの手を包み、安心させるように撫でた。
「ですが、やはり私にそのような役目を負えるとは思えません。民の多くから全ての元凶だとされ、実際私は父──」
「今すぐに、という訳ではないと言っただろう? それにその夢見というのもどのくらいの精度があるのかも調べねばならない。ひとまずは拠点が出来るまでは……それにしても時が必要だからな。何が出来るのか、何をしたいのか、何を成せるのか……今はそれを考えて欲しい。それだけだよ、レティシア」
カオルは言い聞かせるように優しい声で言うと、念を押すようにレティシアの手を優しく叩いた。
「さて、私は行こう。お前はどうする、マリーエル?」
カオルの目配せに、マリーエルは「それでは私も」とレティシアの部屋を後にした。
「お前には苦労を掛けるな」
廊を歩きながらカオルが言った。マリーエルは緩く首を振り答える。
「いえ、私に出来ることをしているだけですから」
その言葉に、カオルは熟考するように廊の先を見やった。
「精霊姫、か。私もグランディウスという存在の大きさを日々考えさせられている」
マリーエルは、踏み込んでいいものか、と悩みつつも「何かありましたか?」と訊いた。
カオルがふっと笑う。
「考えることは山積みだ。しかし、成さねばならぬ。王の書の読める頁が増える度、歴代グランディウスの想いを知ってな」
カオルは足を止めると、廊の窓から外を見やった。そこからは、グラウスの町が見渡せる。
「私はこの国を守る為にある。犠牲になる者を生み出してはならない。そう在ってはいけないとも思っている」
そう言ってから、マリーエルを振り返った。
「共にこの使命を果たそうではないか、マリーエル」
カオルは遠い先を見通すような強い瞳でマリーエルを見つめ、マリーエルも同じような瞳で見つめ返した。
「はい、共に」
表情を緩めたカオルは再び歩き出し、ところで、と軽い口調で言った。
「この後はどうする? 報告会は夕刻からと調整したようだが」
「お父様の許へ挨拶に行こうかと」
ピクリ、とカオルの手が動く。歩む速度を変えず「そうか」とだけ言う。
「俺はしばらく行けていない。どうにも父上があの場に居るとは思えなくてな。本来であれば精霊山に御身体を葬る筈だったのに。いや、本来なら、まだ……」
先代グランディウスはカオルによって討たれた後、葬送の儀を大々的に執り行う訳にもいかず、本来の埋葬地である精霊山の然るべき場にも、〈暴虐王〉と呼ばれ、民の怒りを買った為に葬られることはなかった。グラウス城の裏手で火にかけられ、その残りはその地に葬られた。
〈暴虐王〉が受けていた憎しみや疑念、怒りの想いは、今はレティシアに向けられている。
「俺も行──」
「あぁ、此方にいらした」
カオルが言った時、廊の先から王佐ロルが早足で寄って来た。ロルはマリーエルに頭を下げると、カオルに向き直った。
「ジュリアス、フリドレードから使者が着いています。エランのセルジオ様からは文も届いております。報告会までに仕上げねばならぬこともございます」
「そうだったな。判った、すぐに行こう」
カオルは王佐に頷き、マリーエルを振り返った。
「後は頼む」
「はい」
マリーエルは答えながら、去ろうとするカオルの腕に触れた。一瞬、動きを止めたカオルは、笑みを浮かべてマリーエルの手に手を重ねた。
大きな背中が、王佐を従えて去って行く。
「姫よ」
突然、横合いから話し掛けられたマリーエルは、飛び上がった。見れば、アールが窓枠にふんぞり返っている。
「びっくりしたぁ。アール、どうしたの?」
アールはぴょんとマリーエルの肩に跳び乗ると、小さな手で毛繕いを始めた。
「ジュリアスの地での儂の役目がひと段落ついたからのぅ。木の奴も落ち着きを取り戻しつつあるし、姫の様子でも、と思うてな。此度は火の奴もいささか過ぎた力を使ったようじゃな。精霊王よりお叱りを受けておったわ」
アールはクックッと笑ってから続けた。
「して、影に侵された地とな」
アールの問われるままにマリーエルは喪失の谷について話した。アールはむぅと唸り、首を傾げる。
「あの地は深淵の女王が現れるまでは特に問題もなかった……いや、命在るモノ達の血を受ける地ではあったか。ちと、様子を見てみようかのう」
アールはマリーエルの頬をペチリと小さな手で叩くと、応えるより先に宙に輝きとなって消えた。その慌ただしさに、小さく笑ってから、マリーエルは父の眠る場所へと向かった。
父がよく愛でていた桜の樹の根元にその体は埋められた。この樹は少し肌寒くなると花を咲かせる。淡く光を灯したような花々の下に、うずくまる小さな後ろ姿が見えた。
「マリーエル」
横合いに敷いた布の上に腰掛けていたシャリールが、柔らかい笑みでマリーエルを迎えた。
「戻っていたのね」
「はい、昨夜遅くに」
シャリールは包みから菓子を取り出して、マリーエルへと差し出した。そうしながら、隣に腰掛けるように目線で訴える。
「きっと忙しいのでしょうけど、少しくらいならいいでしょう?」
そう言って、隣に腰掛けたマリーエルの髪を解き、取り出した櫛で梳き始める。マリーエルは大人しく身を任せた。
まるで此処だけ時がゆっくりと流れているかのようだった。桜の樹がさやさやと風にそよぐ。
「アンジュは……」
マリーエルはうずくまったままの小さな姿に目を向けた。背後でふぅと息を吐く気配がする。
「近頃はああして小さく歌ってばかり。でも、少しでもこうして起きて外に出られるのはいい事だわ」
アンジュの歌声が風に乗って届く。雛鳥のような声が音を奏でている。桜の枝に止まった鳥達が、首を傾げて歌に聞き入っているようだった。
ふと歌が止み、振り返ったアンジュがパッと顔を輝かせた。
「マリーお姉様!」
駆けてくる小さな体を、手を広げて受け止める。ふわふわの髪が鼻をくすぐった。柔らかな匂いがする。
「帰って来たのね」
「うん。アンジュはお歌を歌っていたのね」
アンジュは「うん」と頷くと、桜の樹を振り返った。
「お父様にお歌を聴かせてあげていたの」
「……そう」
マリーエルはぎゅっとアンジュを抱き締めてから、包みから菓子を取り上げ、その口に運んだ。自身の口にも入れ「美味しいね」と言うと、アンジュは鈴の鳴るような声で笑った。
ふと、腕の中で上目遣いに見上げるアンジュが小首を傾げた。
「こわい?」
「ん? 怖くないよ。アンジュは何か怖いの?」
アンジュはふるふると首を振ると、再び桜の樹を見やった。鳥達がまるで誘うように鳴き声を上げる。アンジュはニコニコと笑みを浮かべると、歌い始めた。
するりとマリーエルの膝の上を抜け出し、桜の樹へと向かう。その背を、シャリールが切なそうに見守っていた。
「今はこうしてあの子と共に過ごしてあげるだけでいいの。貴女達には苦労を掛けてしまっているけれど……」
「いいえ、良いのです。私達は自身の役目を果たしているだけです。お母様はアンジュと共に居てあげて下さい」
シャリールは小さく笑い、アンジュの歌に耳を澄ました。
先代が討たれた後、シャリールは政より退き、一時幼児退行のような状態となってしまったアンジュと過ごしている。
「あの子は……レティシアは元気にしているかしら」
シャリールが、ポツリと言った。
「はい。此度のこともレティシアお姉様のお力があってこそでした」
「そうなの。度々お茶には誘っているのだけどね。あの子は私に対して気が引けているみたいなの。責めてなど、いないのに」
シャリールは、最後は呟くように言った。
鳥達のさえずりに笑うアンジュの声が聞こえてくる。
マリーエルはふと廊にアーチェの姿を見付けた。何かを言いたそうにしている。
「そろそろ行きますね」
「そうね」
シャリールはマリーエルの前髪を撫で分けるようにしてから頬を包むと、瞳を覗き込んだ。
「貴女を……貴方達を、誇りに思います」
「はい、お母様」
マリーエルは頬に添えられた手に手を重ね、微笑んだ。
立ち上がり、桜の樹に向けて頭を垂れる。
さやさやと桜の樹が揺れていた。




