50話 帰ろう
陣へと戻る道すがらカルヴァスの声を聞く内に眠りに落ちていたマリーエルは、ふと目を覚ますと簡易寝台の上で横になっていた。
「マリー様」
アーチェの声に続いて、ベッロの顔がすぐ前に迫る。しかし、ベッロは奇妙に動きを止め、後退した。
「だから止めろって。お姫様の状況判らない訳? 目が覚めてすぐにベロベロ舐められたんじゃ、目覚め最悪なんだからね」
ベッロの首を掴んだまま、呆れた声を出すインターリの姿に、マリーエルは掠れた笑い声を立てた。アーチェがマリーエルの体を起こし、水の入った器を差し出す。
「インターリ殿も下がって下さい。マリー様のお加減を伺うのに障りがありますので」
アーチェが鋭く言うと、インターリは文句を言いながらも、大人しくはす向かいの椅子に腰掛けた。その向こうにカナメが横たわっているのが見える。
「……カナメは?」
アーチェは首を横に振った。
「カナメ殿は特に札のこともありましたから、消耗が激しいようで……」
「今回、僕等って頑張り過ぎじゃない? 城に戻ったら暫くは何もしたくないね、僕は」
インターリの横で寄り添うように座っていたベッロが耳を立て、インターリの手を舐めた。
カルヴァスは、とマリーエルが口を開きかけた時、陣幕の向こうで怒声が上がった。それはノノミの声だった。
簡易寝台から降りようとしたマリーエルを支えようと手を伸ばしたアーチェを手で制し、靴を履く。
「カルヴァスはあっちに居るんだよね?」
「はい」
「じゃあ、私もあっちに行くよ。報告もしないといけないから。アーチェはカナメをお願い」
ですが、と言い募ったアーチェの肩をインターリが引いた。
「僕がついてくよ。僕らの中では一番元気、だからね。ベッロは此処に居ろ」
そう言うと、インターリはマリーエルの手を取り、引いた。
「どうしたの? 行くんでしょ?」
「うん」
マリーエルが手を引かれるままについて行くと、インターリは詰るように言った。
「アンタ達、酷使され過ぎじゃない? 精霊姫って言ったってお姫様なんだからさ。アイツもずっと鼻血出したままだし、その内死ぬよ?」
目を瞬いたマリーエルは、うーんと首を傾げ、少し悩んでから言った。
「でも、それは私達の役目、使命だから仕方ないよ」
インターリは足を止め、呆れたようにマリーエルを見つめる。
「何、役目や使命の為なら死んでもいいって訳? 本当アンタら精霊人っていうのは──」
そう言う途中で、嬉しそうに微笑むマリーエルに訝しげな顔を浮かべる。
「……何、笑ってるの。別に僕はおかしなこと言ってないと思うけど」
マリーエルは小さく首を横に振った。
「ううん、インターリが凄く心配してくれてるんだっていうのが伝わってきたから」
インターリは顔を歪め、鼻を鳴らしてから口端を引き上げて笑う。
「アンタらに居なくなられたら僕等の今後が危ういからね。しっかりしてよね」
そうだね、とマリーエルが笑うと、インターリは鼻に皺を寄せた。マリーエルの腕を引き、少し先の陣幕を指さす。
「ほら、着い──」
「ですから! この付近に拠点を置くだけで良いと言っているではありませんか!」
集会用の陣幕に近付くと、ノノミの声がはっきりと聞こえてきた。
インターリが呆れたように顔を顰め、口を引き結んでからマリーエルを先にして陣幕を潜る。
「だから、そう簡単に言ってくれるな、と言っているんだ。国王対影隊としても、ヨンム隊の面倒までは見られない」
「面倒とはなんです? この研究が完成すればそちらの負担も減るだろうという──あら、姫様」
マリーエルに気が付いたノノミが、居住まいを正した。エイスターがノノミに呆れたような顔を向ける。
カルヴァスがパッと立ち上がって、マリーエルを迎え入れた。
「起きても大丈夫なのか?」
「私は大丈夫。カナメはまだ寝てるよ。カルヴァスは?」
「オレは何ともねぇよ」
お前は戻っていいぞ、とカルヴァスはインターリに言ったが、インターリはそれを無視して隅の椅子に腰掛けた。怪訝な顔でそれを見やったカルヴァスは、マリーエルの手を引いて自身の隣に座らせた。
「見極める為の機会だと言ったが、負担を掛けさせたな。すまない」
クッザールが言った。
マリーエルは首を横に振った。
「いいえ、私が深くまで潜ってしまっただけです。ですが、そのお陰で──」
マリーエルはそこで言葉を止め、卓の上に目を落とした。
そこには膜で覆われた何かが置かれていた。精霊石がはめ込まれた台座の上に、護霊膜を小さくしたような見た目の膜が張られ、その中で何かが蠢いている。
それに注目したマリーエルは、思わず腰を上げた。
「こ、これは、影……⁉」
よくぞ聞いて下さいました、とノノミが胸を張る。
「我々はついに影を捕らえることに成功したのです。どうです? この膜の中に在る分には、穢れなど感じぬでしょう?」
影はふよふよと膜の中で浮かび、穢れは全く感じられなかった。まるで水に落とした墨のようにも見える。
「ヨンム隊はこれを城へ持ち帰ると言い出したのですよ」
「……え?」
エイスターの呆れ声に戸惑いの声を上げると、ノノミは口を尖らせた。
「それは無理だということは十分に理解しました。しかし、では、今後何処で研究を続けよというのです? カルヴァス殿とアントニオ殿から聞いたフリドレードの札のこともありますし、この地に拠点を構えるのが一番良いと私は思うのですが?」
「貴女達は他の隊のことを考えていない。クッザール隊も精霊隊も国全域に及び使命を果たされている。我等国王対影隊も国王隊本隊より離れ、この地を任されている。研究が必要ないとは言わないが、その為に割く人員はない」
「だから──」
「まぁ、待て」
言い合うエイスターとノノミを、クッザールが制した。皆の視線が集まった。
「この件に関しては、城に戻り次第、私がヨンムと話し合おう。この地はまだ予断を許さない。暫くは我が隊も分隊を置くこととする。ヨンム隊はそちらに編入し、国王対影隊は引き続き、此の地の守護を頼みたい」
口を開きかけたノノミに、クッザールは目で制すと、改めてマリーエルを見た。
「それで、君がこの地で判ったことはあるかな?」
自身の許に皆の視線が集まるのを感じながら、マリーエルは頷いた。
「影に深く潜った結果、此の地には小箱の記憶が強く残されているのが判りました」
「小箱? それは、あの心の臓が納められていた?」
マリーエルが頷くと、クッザールは深く考え込んだ。
「あの箱はクッザール隊で掘り起こしたんですよね」
カルヴァスが言うと、クッザールは考え込みながら「ああ」と答えた。
「あの時は国中で影の対処に追われていたんだったな。その中でも此の地には妙に影憑きが多かった。そこで掘り起こして見れば小箱があった、と。掘り起こした土はマリーエルによって祓えが済み、土の精霊の力を受けこの地へと戻したが……そうか、記憶。それは、何とも……」
「影は、小箱の記憶を守りたがっているようでした。恐らくアレが、此の地を穢す為の手掛かりになっていると思います」
難しい顔でマリーエルの話を聞いていたクッザールはふむ、と唸った。
「それを全て祓うということは難しいんだな?」
マリーエルは、少し考えてから「はい」と答えた。
この地はあまりにも影の気配が濃すぎる。祓った所で地の底より影は這い上る。
マリーエルはふと霜夜の国の鬼湧谷を思い出した。ちら、と先程から黙しているアントニオに目を向けると、その視線を受けてアントニオは前に乗り出した。
「鬼湧谷──というものが霜夜の国にあります。そこでは長きに渡り鬼が湧き、戦が続いています。影と鬼で少々異なる所はありますが、澱みより生まれたモノとしては同質のはず。我が国には精霊姫様がいらっしゃるとはいえ、戦を得意とする霜夜の国が苦戦を強いられていることから考えると、我が国でも同様に考えた方がいいでしょう。心の臓が埋められてから長い時をかけ穢れを蓄積していたのだとしたら、それはとんでもないことになっているでしょうから」
沈黙が落ちた。
考え込んでいたクッザールが、顔を上げ、皆を見回した。
「判った。その旨を王に伝え、対策を講じよう。今はひとまず体を休めてくれ。そうも言っていられないかもしれないがな……。精霊隊は夜が明け次第、私と共に城へと戻る。フリドレードのことも報告しなければならないからな」
クッザールに目で問われたカルヴァスは、顎を引いて応えた。
夜が明けるまで精霊隊の陣幕で再び横になっていたマリーエルは、微かな物音に閉じていた目を開けた。陣幕を出ようとしている後ろ姿を見つけ、呼び掛ける。
「カナメ?」
足を止めて振り返ったカナメに歩み寄り、共に陣幕を出る。
「眠っていなくて大丈夫なのか?」
「カナメこそ。体は大丈夫?」
カナメは静かに頷いた。
「あぁ、もう普段通りだ。いや、少し疲れは残っているが……。茶でも淹れようかと思うが、君もどうだろう?」
「うん、是非」
二人で調理場に向かい、湯を沸かす。カナメが手慣れた様子で茶の支度をした。
マリーエルは差し出された器を受け取り、一口飲むとホッと息を吐いた。
今、精霊隊の陣幕ではアーチェ、インターリ、ベッロ、アントニオが眠っている。カルヴァスは既に寝台に姿がなく、出立の用意をしているのだろうと思われた。
「カナメは、影に潜った時どんな感覚だった? 何を視た?」
マリーエルが訊くと、カナメは首を傾げ、少し考えてから答えた。
「一番強く感じていたのは……君の気の流れだが……。そのお陰でフリドレードの時のように影に飲まれなくて済んだと思う。影は……以前とは、何処か違ったように思う。何というか、はっきりと感じるようになったというか……。駄目だな。やっぱり俺はこういうことを説明するのには向かない」
カナメが照れ隠しをするように、器を口に運んだ。それから、少しだけ考え込み、続けた。
「視たのは……小箱と、その先に深い影と──」
その時、遠くの空が強く輝き始め、さっと二人の顔に朝日が差した。
「お前達、もう起きてたのか」
陣幕の陰から歩き出て来たカルヴァスが、二人に気が付き足を止めて言った。
カルヴァスは、眩しさに思わず目を細めていた二人の顔を見て忍び笑いをしながら、マリーエルの横に腰掛けた。
「カルヴァスこそ。ちゃんと休んだの?」
「休んだよ。それにさっき余り肉があったから食わせて貰ったし。あ、オレにも茶ぁ淹れて」
カナメから器を受け取ったカルヴァスは、旨そうに茶を飲むと、息を吐いた。
「結構しんどかったけど、ひとまずは城に戻れるな。ま、城に戻ってからも色々やることあるけど」
そうだねぇと答えてから、マリーエルはまた一口茶を飲んだ。
「でも、皆が居てくれれば、きっと大丈夫。一緒に頑張っていこうね」
マリーエルが二人の顔を交互に見ながら言うと、二人はそれに笑顔で応えた。
朝の清々しい風が、茶の香ばしい香りを乗せて柔らかく吹き抜ける。
「よし、じゃあ朝餉を済ませたら出立だ。帰ろうぜ」
ニッと笑って言うカルヴァスに、カナメが怪訝そうな顔をする。
「さっき肉を食べたんじゃないのか」
「それはまた別腹だろ。朝餉は朝餉で食っておかないと」
マリーエルは二人のやり取りを温かい気持ちで見つめ、茶を飲み干してから立ち上がった。
「うん、帰ろう」
「帰ろう」と言い合える仲間がいる。
辺りに広がる明け方の陽の色に目を細める。
寂しさは消えないけれど、もう、大丈夫。
──大丈夫だよ、アメリア。




