47話 喪失の谷へ
クッザールがフリドレード城へと着くと、ランドシとジェーディエから正式な王への書簡が渡され、此の度の件に関する聞き取りと報告の会がアントニオを加えた場で行われた。
一夜が明け、精霊隊はクッザール隊に加わり、一路喪失の谷へと向かっている。アントニオは霊鹿に乗ることが出来ず、クッザールが持ち込んだ台車に乗り込んでいた。
フリドレードを発つ際、領主であることを示す首飾りをつけたジェーディエが、いまだ慣れぬという様子で、それでも表情を引き締めてマリーエルへと深々と頭を垂れた。
「此度は、お力添えを頂き有難うございました」
ジェーディエは跪き、マリーエルの手を取ると甲に額を当てた。マリーエルも同じように親愛を返した。
「お互いにこの国の為、尽くしましょう。代替わりの報せにグラウスに来るときは、またお茶をしましょうね」
マリーエルが言うと、ジェーディエはぱっと顔を輝かせ、柔らかく笑った。
「ええ、楽しみにしています」
そう言ってから、ふっと目線をずらしたジェーディエは、小さく笑ってからそっとマリーエルの手を離した。
ジェーディエが一歩後退ると、カナメがマリーエルの腕に触れた。
「マリー、そろそろ出立するようだ」
「あ、うん、そうだね」
引いてきた霊鹿にマリーエルを乗せる為手を引くカナメに、ジェーディエは笑顔で呼び掛けた。
「カナメ殿。次にお会いする時は、旨い茶の淹れ方を教えて下さい。あとは剣の打ち合いも楽しみにしています」
目を瞬いたカナメは、顎を引いて応えた。
「判った。もし好みがあったら文ででも教えてくれ。用意して──君は、領主になったのだから、この話し方はまずいな。申し訳ない。好みの味が──」
「いいよ。気にしてない。もっと仲を深められればと思っているくらいだ」
ジェーディエの砕けた言葉に、カナメは笑みを浮かべ、ひとつ頷いた。
「判った。また会える日を楽しみにしている。世話になった」
ジェーディエは嬉しそうに笑い、ふと歩み寄る気配に目を向ける。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
経路を確認し、クッザール隊との情報共有を終えたカルヴァスが言った。
「あぁ、色々あったが……お前と親しくなれてよかっ──」
そこで言葉を止めたジェーディエは、自身の鼻を示し、次いでカルヴァスの鼻に指先を向けた。
カルヴァスが鬱陶しそうに鼻元を拭う。
「またか……。本当止まんねぇな。というか、お前も出てるぞ」
「え?」
ジェーディエは慌てて手巾を取り出し、鼻元を押さえる。鼻元を押さえる互いの姿に思わずといった風に笑い合ってから、カルヴァスは言った。
「次にお前と剣を合わせるのが楽しみだぜ。オレはもっと腕を磨く」
「俺もだ。火の精霊の器として、そして領主として尽くせるよう修養に励むよ」
カルヴァスは手巾で鼻元を拭ってから、腕を掲げた。そこにまるで剣を打ち合うようにしてジェーディエが腕を合わせる。互いにニッと笑うと、示し合わせたように鼻血が垂れた。どちらからともなく吹き出して笑う。
「格好つかねぇな」
「本当に」
精霊隊とクッザール隊が喪失の谷に向けて出立したその後ろ姿を、ジェーディエは新たな決意を灯した瞳で見送った。
「彼とは随分親しくなったようだな」
霊鹿上のクッザールが、隣に並ぶカルヴァスに笑い掛けた。
「アイツはなかなかの良い剣筋の持ち主ですよ。あれで結構思慮深い所があるし、根性もあるし、フリドレードのことはアイツに任せてればなんとかなると思います」
「そうか。それは剣を合わせるのが楽しみだ」
クッザールはそこで後ろの様子を見やり、申し訳なさそうにした。
「出来ればお前達を休ませてやりたい所なんだがな」
アントニオに目を止め、眉を寄せる。アントニオはクッザールから説明を受けた喪失の谷での任務についてマリーエルへと説明をしつつ、時折無造作に口を挟むインターリにまなじりを上げている。
皆、身を清め、手当てを済ませているが、疲労が濃いのは否めない。
「差し迫る件なら仕方ないですよ。その為にオレ達精霊隊は在るんですから。ま、オレはグラウスに帰ったら腹いっぱい肉が食えればいいですよ」
カルヴァスが言うと、クッザールは思わずといった風に頬を緩めた。
「とびきりのものを用意させよう。その前にもうひと仕事、頼む」
「任せて下さい」
一行は、喪失の谷へと進む。
レティシアが不安を滲ませて王の間に訪れたのは、マリーエルをフリドレードへと送り出して暫く後のことだった。
有事の際に備え、クッザールをフリドレードへと向かいやすいジュリアスの地に整地を理由に控えさせ、ヨンムの鏡を使い些細な状況も把握して、万が一の可能性も逃さないようにする。
フリドレードに怪しい動きがあろうと、王という立場が故にすぐに現場へ出る訳にもいかない。
深淵の女王による混乱と、前王による民の不安を拭うことは、各地を巡る内にひとまず目途がついた。ではジャンナの婚儀だと思っていた矢先に、ジュリアスの木々の波に、続いてフリドレードの内紛から派生したであろうグラウスへの怪しい動き。考えることは山程ある。
読める箇所が増えた王の書には、何代か前の王達がどう国を治めていたのかという日記に近いものばかりが書かれ、未だカオルの中で弄んでいる謎に迫るものはひとつもない。いや、王としての姿勢を学ぶことは出来たか。
王にのみ許された書だというだけあって、公に残された記録とは若干異なった視点で記されている。それを照らし合わせ、実際の出来事を把握する。
王の役目とは──。
自身が記した箇所に指を滑らせ、特定の場所で手を止める。自ら記したというのに、未だ信じられず、信じたくもなかった。
王の書の存在を知るのは、ずっと後の筈だった。
「お兄様……」
その声に顔を上げたカオルは、僅かに目を見開いた。
久々に姿を見せたレティシアは、張りを失った顔の中で、不安を灯した瞳を揺らしていた。
王の間の入り口に立った兵達が、平静を装いながらも緊張し、訝しげにレティシアへと視線を送っているのが判る。
「どうした? さぁ、こちらへ掛けなさい」
カオルが言うと、レティシアは胸の前で固く手を握りしめ、まるで死者のような顔をしながら歩き、静かに腰を下ろした。それは、以前の全身をくまなく飾り立て、胸を張って供の者を引き連れながら靴音を響かせていた姿とは、大きくかけ離れていた。
今や仕える者はただ一人。廊から心配そうにレティシアの姿を見つめている。
「何か、あったのか?」
カオルが側に屈みこみ、安心させるように膝に手を乗せると、レティシアは瞳を揺らして、浅い息を押さえながら口を開いた。
「少し、気になることが」
「気になること?」
レティシアは言い淀み、ごくりと喉を鳴らした。
「影を……感じるのです」
カオルが返答に困っていると、レティシアは縋るような瞳をした。
「ついには夢を……いえ、あれは夢ではありません。影が地底より這い上り、全てを飲み込もうとしているのです!」
カオルはレティシアの手を包み込み、柔らかい声で言った。
「あぁ、影はこの世界を飲み込もうと今もその時を窺っている。それを阻止する為、マリーエルを始め多くの者が戦い、影を退けようとしている。俺もそうだ。いつ終わるとも言えないが、少しでも不安を取り除けるよう──」
「そういうことではないのです!」
声を荒げたレティシアに、廊に控えていた者達が身構える。カオルはそれを目線で制した。
レティシアはカオルの腕に縋りつき、顔を顰めて続けた。
「箱の埋められた地に、影が忍び寄っています。あの地は呪いの醸成が成された地。祓えを行っても影はあの地を縁に此方へ這い上ろうとその手を伸ばしているのです」
レティシアは細い息を混じらせながら引き攣れたように言った。
「箱? 箱とは深淵の女王の心の臓が納められていた箱か?」
小さく頷くレティシアは、小刻みに手を震わせている。
カオルはレティシアの侍女シーニャを呼び寄せた。シーニャが背に手を当て顔を覗き込むと、レティシアは彼女に縋りついた。
「何故そう思った? 夢、を見たと」
シーニャの言うままゆっくりと呼吸を整えていたレティシアは、ふっと瞳を暗くした。カオルから視線を外し、怯えたように眉を寄せる。
「私が……私がこのようなことを言っても何の信用もないことは判っています」
「それは違う」
カオルはレティシアの肩に手を置き、目線を合わせた。
「俺は……私は、この国を治める王だ。選択を誤ってはならない。何事も慎重に決めねばならない。お前が見たというものの話を聞かせてくれ」
押し黙ったレティシアは、視線を彷徨わせ、苦しみに耐えるように小さく震えながらも、自身が見た夢について話し始めた。
それは繰り返しレティシアの目の前に映し出された。
眠っている時ばかりではない。ふとした瞬間に視界の中に影が現れた。それはレティシアのみに視え、それが何処か遠くの地の景色なのだとすぐに判った。恐怖に硬直している内にそれは薄れ、消えていく。だが、その影の景色は徐々にその触手を伸ばしているようで、レティシアを怯えさせた。
じわりと身の内を侵食する感覚に、レティシアはカオルへと伝えるに至ったという。
「何故このようなものが視えるのか……それは、私が深淵の女王と……」
言葉を呑んだレティシアに、カオルは「もういい」と止めた。兵へ喪失の谷への偵察を命じると、レティシアが戸惑いながらカオルを見上げた。
「詳しい状況を調べさせよう。お前の言う通りなら俺が出る。違うようなら、ゆっくり休め」
そうして調べさせた結果、喪失の谷の祀地にある祠に、影の影響が確認された。
祓えを済ませた筈の地は澱みを溜め、今にも溢れ出しそうだった。
マリーエルはフリドレードでの役目の最中で今すぐに喪失の谷へと向かうことは出来ない。喪失の谷を訪れたカオルは、自身の力で祀地の影を抑え込んだ。一度祓えを受けた地で影を抑え込むのは、容易だった。
さて、この地の扱いを決めねばならない、という所でヴルーナ火山に火柱が上がり、クッザールから「カルヴァスより緊急の報せ有り」との報せを受けたのだった。




