45話 クッザールからの報せ
「それで、僕が走り回って汗まみれになってる間に、アンタ等は綺麗さっぱりして温泉にまで浸かったって?」
布戸を開けて部屋の中を見回したインターリは、不機嫌さを露わに言った。皺の寄った手紙をカルヴァスに放り投げる。
手紙を受け取ったカルヴァスは、その内容に目を通しながら言った。
「悪かったって。でも、仕方ねぇだろ。怪我の手当てをしないとなんねぇし。此処の温泉は傷に効くみたいだからな」
それには答えず、毛並みを綺麗に整えられたベッロを見下ろしたインターリは「裏切り者」と冷たく言い放った。ベッロが嬉しそうに振っていた尾をだらりと垂らす。
「インターリも汗を流しておいでよ。特別に奥の湯を開けて貰えたからゆっくり入れるよ」
マリーエルが手巾等を渡しながら言うと、インターリは乱暴にそれらを取って、不機嫌さを滲ませたまま部屋を出て行った。
「怒らせちゃったね……」
「かと言って、アイツが戻るまで身を清めない訳にもいかなかっただろ」
「そうだけど……」
カルヴァスを振り返ったマリーエルは、ぎょっとした。
「カルヴァス、また鼻から血が……!」
その言葉に、カルヴァスは鼻元を拭った。
「あ? あぁ、本当だ。──おぅ、有難うな」
カナメの看護から戻ったアーチェがすかさず取り出した手巾を受け取り、カルヴァスは鼻元に当てた。
「あー、くそ。なかなか止まんねぇな。昔、鍛錬中にクッザール隊長の拳が決まった時は、まぁすぐに止まったのに」
「仕方ないよ。溢れる程精霊の力を受けたんだもん。でも、前みたいに動けなくなっちゃうってことはなかったね。器として強くなったのかな?」
マリーエルが言うと、手紙を卓に置いたカルヴァスは、自身の手のひらをじっと見つめ、少し考える素振りをした。
「今回は力を受けて流したってこともあるかもしれないけど、確かに力に満ちてる感覚もあるんだよな。……だから、鼻血が止まんねぇのか? 疲労感はあるけど、力が湧いてくる感じもあって、辛くはねぇぜ。鼻血が鬱陶しい以外はな。それより、直にクッザール隊長が王の使者として此処に来るみたいだぜ。喪失の谷で何かあったらしい。グラウスに戻るまでにもうひと仕事だな。お前の〝嫌な感じ〟ってのは、この事じゃねぇの?」
カルヴァスはアントニオを振り返って言いながら、隣に腰掛けたマリーエルへとクッザールからの手紙を手渡した。
アントニオの脚に当てられた添え木を見やり、口を曲げる。
「本当の所、お前は先に戻ってろと言いたいけどな。今回はそうも言ってられなさそうだぜ」
アントニオは渋い顔をし、頷いた。
「ええ。私の中でも徐々に〝嫌な予感〟の原因が形作られています。この事を知る者が増えたのでしょうね。それにしても喪失の谷……ですか。深淵の女王と初代精霊姫の心の臓が納められた木箱が埋められていた地、ですね」
アントニオは難しい顔をした。
「実際に視てみないことには判らないけど、やっぱりあの地は穢れを受けやすくなってる……のかな。祓えは行ったのに、こんなにも早く溢れそうになっちゃうなんて」
マリーエルは、喪失の谷の様子を思い返した。
沼地の谷である為に人々が住まうことはなく、しかし沼地に生える植物や生き物を得る為に立ち入る者はまま居る地であった。
気が巡れば澱みが集まることはなく、穢れも残さない。しかし、あの地深く、長い間に深淵の女王の呪の掛かった怨念とも呼べる木箱が埋まっていたことにより、決して祓いきれない穢れを溜め込んでいたようだ。
「そうですね。深淵の女王は命世界、精霊界、その全てを飲み込んでしまおうとしている。両世界が生えいずる世界樹の枝葉は姫様の力で祓えが済みましたが……。女王がこの事に備えてあの地に木箱を埋めたのかは判りませんが、厄介な事には違いありませんね」
腕を組んで考えていたカルヴァスが、うぅんと唸った。
「もし完全に祓うのが無理だってなら、喪失の谷への道を整えることも視野に入れないとな。いちいちあの沼地に行くのは面倒だぜ」
そう言ってから、卓の上の火山焼きを手に取り、茶に浸けてから口に放り込んだ。
「そうだねぇ……」
マリーエルはカルヴァスに釣られるようにして火山焼きを口に運ぶと、どうにかあの地を完全に祓うことが出来ないかを考えた。
喪失の谷と呼ばれている通り、精霊国史の上でもよい話だけが聞ける地ではない。もし、幾度も祓えを必要とするのなら、道を整え、異変を見張る者も必要となってくる。
影に対抗するといっても、様々な問題が浮かび上がって来ていた。
「それにしても、お前の技には驚いたぜ。何処で習ったんだ?」
世話を焼き終え、部屋の隅で繕い物をしていたアーチェに、カルヴァスが訊いた。
縫う手を止めたアーチェは、少しだけ視線を泳がせてから答えた。
「兄達が医術師なもので、家にあった医術書を読んだり、兄達から聞かされたりして人体構造は理解しているつもりです。針の使い方は縫い師の父と母に」
視線を上向かせたカルヴァスは、一瞬の間の後、目を瞬いた。
「あぁ、あのレピトゥラ兄弟か。確かに腕がいいもんな。オレも手当てして貰ったことあるぜ。此処の所は華発から持ち帰った技術も活用して幅が広がったみたいじゃねぇか」
カルヴァスが感心したように言ったが、アーチェは思いつめた様子で手元に視線を落とした。
「ですが、実際に人に針を使ったことはなかったので、死んでしまったらどうしようかと……今でも思い出すと、手が少し震えます」
「アーチェ……」
マリーエルはアーチェに歩み寄り、その手をそっと包み込んだ。アーチェは一瞬だけ不安そうに顔を歪め、それを打ち消すように微笑みを返した。
カルヴァスが気まずそうに頭を掻いてから言った。
「あの時お前が動いてなければ、お前かアントニオのどちらかが命を失っていたかもしれない。そしたら、カナメも元に戻せなかったかもしれないぜ。感謝してる。ただ、そうだな……今後もその技を使うつもりなら腕を磨くこと。そもそも世話役のお前にそこまでの働きをさせたのはオレの落ち度だ。ごめんな」
カルヴァスが頭を下げると、アーチェは恐縮したようにぶんぶんと頭を振った。
「いえ、私の方こそ精霊姫様のお世話役という立場を甘く見ていました。より、腕を磨く為に尽力します」
「あぁ。ま、こういう仕事はオレ達兵の役目であるべきなんだけどな。──結局、この件に関わって命を落としたのは、ルドラ……か」
カルヴァスの言葉に、部屋に沈黙が落ちる。
下山を決めた時には既にルドラは息絶えていた。
精霊の怒りを買い、その力を受ける恐ろしさは民の目にも焼き付けられた。精霊の力を己の欲の為に歪に利用することは在ってはならない。
それでも、マリーエルはこのような結末になる前に、出来たことはなかったのかと考えてしまう。だからと言って、実際に何が出来たのかというと、何も思いつかなかった。それでも、ただ精霊の力が満ちるだけを考えていればいいという訳ではない。精霊姫とはいえ、グランディウスの名を負い、民を守る者でもあるのだから。
「そう言えば、あの札はどう作ったんだよ?」
カルヴァスがアントニオに話を向けた。アントニオはカナメの眠る部屋にちらと目を向けてから答えた。
「あれは、カナメより譲り受けた長の書と、ジェーディエが持ち帰った書物に書かれたことから導き出したものです。全てが解明出来た訳ではありませんが、紋様に関してはいくつか判明したことがあったので。カナメの体に施された紋様には、穢れや澱みを抑える為の言葉が刻まれています。此度のことは、ルドラ殿の影を操る力によってそれが暴走し、利用されたということでしょう。そこに、知の精霊の呼び掛けを受けた者としての私の器が合致しました。墨がなかったということもありますが、あの札は私の血を使い紋様を描いたことが功を奏しました」
アントニオは紙にさらさらと紋様を描き込むと、卓の上に滑らせた。
「今の所カナメにしか効果はないかと思いますが、これが私が導き出した紋様です。試すのであれば〈鬼〉相手でしょうが、そう簡単に出来ることでもありません。まずはカナメと共に紋様について調べるつもりであります」
アントニオの話を聞きながら、マリーエルは世界樹の枝葉に視せられた光景を思い出していた。蠢く影が手を伸ばし、それを戸惑いながらも愛おしそうに抱く女の姿。女の指は影の上を滑り、紋様を描いた。だから今、カナメはこの場に居ることが出来ている。
「あの状況で急に何かやり始めたのは驚いたけど、まぁお前のことだから何かあるんだろうと思って、信じてよかったぜ」
カルヴァスが言った時、布戸の向こうから声が掛かった。
「ジェーディエです。マリーエル様、お時間宜しいでしょうか」
「はい、いいですよ」
マリーエルが言うと、ジェーディエは布戸を開け、頭を垂れた。
「領主ランドシからお話があるとのことで、この後祈りの間までお越し頂けますか。お二人も一緒に」
そう言って、カルヴァスとアントニオに目線をやる。
マリーエルは二人の顔を見比べてから、頷いた。




